ヘンテコ医学史漂流記

第9回 おだやかな哲学者先生

2015.07.27更新

 前回の「鍼灸祭」で祀られていた、のこる一人の皇甫謐(こうほひつ)は紀元後3世紀、三国志の時代の後に中国を統一した西晋王朝の時代に活躍した学者です。
 皇甫一族はもともとエリート軍人の家系でしたが、彼が生まれた一家だけが貧しく、しかも、子どものいなかった叔父母の養子になります。こうした複雑な家族背景の故か、20歳ごろまでは学問とはまったく縁のない、非行少年だったといわれています。

 あるとき、皇甫謐少年は、おいしそうな果物をどこかで手に入れ(盗んだものかもしれませんね)、養母に差し出しました。養母はそれを投げ捨てて、「こんなもので私が喜ぶとでも思うのか! 私の願いはあなたが学問をおさめ、立派な人物として大成することなのよ!」と涙ながらに叱りました。それ以来、彼は畑を耕して貧しい家計を支えながら、寸暇を惜しんで学問に励むようになったそうです。

 ところが、彼は生まれつき体が弱く何度も病気をして、40代で脳卒中のような病気に罹り半身不随になってしまいます。そのとき、医師に勧められたのが第5回でとりあげた「五石散」で、彼はその薬害にも長く苦しめられることになりました。


 私の医学史の師匠、小曾戸洋先生は、五石散が高貴な身分の人々に愛用され、それが一種のファッションにもなったことから、「現代でいう麻薬や覚せい剤のようなものではないか」と推定しています。
 たしかに、非行少年がドラッグに手を出す、というのはいかにもありそうな話ですが、皇甫謐が五石散を服用したのは40歳を過ぎてからです。しかも五石散は、重金属主体の成分であり、「高い熱が出る」という歴史書の記載が、ヒューム熱とよばれる金属中毒の症状に合致するので、ただひたすらつらい副作用を我慢しないといけないような薬だったかもしれません。
 そうだとすると、五石散はヒマを持て余した高等遊民が陶酔や幻覚に浸りたいために使用された薬ではなく、単に体を丈夫にしたいから、病気を治したいからワラをもすがる思いで使われたのではないかと思っています。

 「傷ついた外科医がメスを振るう」("Wounded surgeon piles the steel.")という有名な英語の詩の一説がありますが、薬害に遭ってからの皇甫謐はより一層熱心に研究したにちがいありません。ひとつには、自分の病気を少しでも良くしたいため、ということはあるかもしれませんが、医学の誤りにより、自分のような犠牲者をもうこれ以上出したくない、という強い思いがあったかもしれません。

 次第に彼の名声は広まり、周囲の人々から「玄晏先生」と慕われるようになりました。「玄」は老荘思想の用語で、「晏」は安らかな、という意味ですから、"おだやかな哲学者先生"という感じでしょうか。ついには皇帝の信頼も得るようになり、宮中の図書館で貴重な書籍の閲覧を許されるようになりました。

 彼の学問的業績の第一は『甲乙経』の編纂です。伝説の指導者、黄帝の時代から数百年が過ぎ、『黄帝内経』の内容はいくつかの系列の写本に分散し、一部は重複したり矛盾する記述もあって理解しづらいものになっていました。
 そこで、彼がそれまでのテキストを深く研究し、自分の治療経験も踏まえて再編成したものが『甲乙経』です。この教科書は現代に至るまで伝えられる、文字通り「不朽の名作」となりました。


 『黄帝内経』で鍼灸医学の礎を築いた黄帝・岐伯、鍼灸の確かな技術で奇跡的な治療を行った伝説の名医、扁鵲・倉公、さらに古代からの知識を整理して鍼灸を現代にまで伝えた皇甫謐の五人は、鍼灸医学の大恩人であり、「鍼灸祭」でとくにお祀りして感謝をささげていたのです。
 一方、皇甫謐とほぼ同時代に、鍼灸ではなく漢方薬の世界で名をはせる、大スターが登場します。次回はその大スターのお話をしましょう。

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津田篤太郎(つだ・とくたろう)

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。

子どものころ、人間の模型図の腸のかたちが巨大迷路に似ていることに興味を持ち、解剖図を眺めるのが好きになる。

現在、聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長。西洋医学と漢方の双方を生かす医療をめざしている。

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