ヘンテコ医学史漂流記

第17回 国産医学教科書の最古!

2016.07.27更新

 これまでの連載で、「○○という人が××という本を書いた」というようなことを書き連ねてきましたが、本を一冊世に出すというのは大変なことです。
 まず、書くべきことを持っていないといけませんし、そのことについてよく知っておく・十分調べておくことももちろん必要です。そして、本の内容について知らない人にもわかりやすく、できれば興味を惹きつけるような書き方が望まれます。ですから、医学史の年表では一行でサラッと触れてあるだけであっても、書き手にとっては膨大な手間ヒマを掛け、心血注いだ著作かもしれません。

 これが「教科書」となると、さらに大変です。普通の本よりも、よりいっそうの内容の濃さと記述の正確さを求められます。良い「教科書」であるためには、その読者に「わかった」という実感を与えなければなりません。その分野全体の知識を大づかみにできる俯瞰図のようなものが、「教科書」に触れる初学者の頭の中に描けるようなものであるならば、合格点といえるでしょう。
 教科書は、ただの事実の羅列ではその用をなしません。最初からあまりにも知識を詰め込もうとすると、初学者は消化不良をきたしてしまうからです。ですから「教科書」の著者は理解する上で重要なことを簡潔に書くことが求められます。これを知っておくと、ほかのいくつかのこともすべてわかるようになる、というのが教科書の理想なわけです。
 そうなると、著者は教科書に書いたことの何倍もの知識が必要ですし、ある意味、「何を書かないか」を決めるのも、著者の腕の見せ所、と言えるでしょう。

 前置きが長くなってしまいましたが、今回取り上げたいのは、現存する最古の国産医学教科書、『医心方』です。
 『小品方』の話でも少し触れましたが、『医心方』以前にも中国から入ってきた書物で医学生は勉強していましたし、国産教科書も少しはあったという記録もあるのですが、そのほとんどは失われました。『医心方』の著者は丹波康頼(たんばのやすより)(912-995)という人物で、彼は自分の著作が完成すると宮廷に献上しました。その功績に報いて、京都の北、丹波地方を治める称号を与えられました。それで苗字が丹波になったのですが、康頼の先祖は中国漢王朝の王家にさかのぼる渡来人だと言われています。

 『医心方』は当時の医学のほぼすべての分野を網羅する内容で、全30巻よりなっています。
 丹波康頼の方針は、自分の文章は一切挟まず、過去の文献の重要部分を抜粋し、必ずどの文献から引用したかを明記することで貫かれており、小曾戸先生の検討では4700回もの引用がなされているそうです。
 引用された文献を見てみると、医学や薬学文献はもちろんのこと、鍼灸や眼科、小児科や婦人科、食養生やセックス医学、まじないの本にまで及んでいて、丹波康頼は膨大な書物に目を通していたことがうかがえます。

 しかも、彼はその博覧強記ぶりを羅列したのではなく、いわば「切り抜き」編集をすることで、自分の考え方、医学観を世に示したのです。その一つの例が、扁鵲以来、中国人が重要視してきた脈の診察について、大胆にカットしていることです。脈を診るだけで、病気の重い軽いがわかったり、病気の在りかがピタリとわかるなんてことは、信じられないというわけです。丹波康頼は実際の臨床と合わないヘンテコな事柄や、理屈ばかりで役に立たないと思われる知識は、いくら中国の書物に書いてあっても自分の教科書には載せないぞ、と決めていたのでしょう。
 そのことは、タイトルの『医心方』にも現れています。「○○方」という書物は、だいたいが処方集です。こういう病気には何々という薬が効く、というスタイルの本です。
 ところが「黄帝内経」や「傷寒論」というような本は、人体の仕組みや病気の成り立ち、治療の原則を内容としているので、理屈や理論が入り込むのです。そういうものよりも、実際の臨床での経験や観察を重んじたのが丹波康頼の個性であり、わざわざ処方集のようなタイトルをつけた経緯なのでしょう。

『医心方』はその後、数奇な運命をたどります。500年以上の長きにわたり、宮中で大切に保管され、人目に触れることもなかった『医心方』が、戦国時代になって、天皇の病気を治療した褒美として宮廷医の半井)なからい)家に与えられるという事件が起きました。
 半井家とは、奈良時代に弓削道鏡の野望を阻み、平安京遷都に大きな貢献をした和気清麻呂(わけのきよまろ)の子孫で、丹波家とはライバル関係にある名家です。ご先祖様の労作がこともあろうにライバルの手に渡るとは、丹波家の人々はさぞかし地団駄を踏んだことでしょう。
 江戸時代になり、丹波家を受け継いだ幕府医官・多紀家の人々は、先祖の怨みを忘れず、粘り強く半井家から『医心方』を取り返す努力を続けました。彼らは遂に政治権力を動かすことに成功し、幕末になって、ペリー提督と日米和親条約を結んだことでも有名な老中阿部正弘が『医心方』を多紀家に貸し出すよう命令します。

 こうして念願叶った多紀家は、多額の費用を投じて『医心方』を書き写し、出版にこぎつけます。この書き写しのクオリティが恐ろしく高く、第14回で触れた「ヲコト点」はもちろんのこと、のちの時代の医師が付け加えた書き込みや、虫喰いの痕まで正確に再現されているそうです。
 ところが、借りたものは返さねばなりません。半井家は『医心方』を取り戻してさらに100年以上保持し続けましたが、1982年、文部省は27億円で『医心方』を買い上げ、その二年後国宝に指定されました。このとき調査にあたったのが、われらが小曾戸先生です。

 ちなみに、昭和の名俳優だった故・丹波哲郎さんや、NHKのお天気キャスターで有名だった半井小絵さんは、ご先祖様がそれぞれ『医心方』争奪戦に興じたお家だそうです。
 ヘンテコ医学史なんて、おたっきーで陽の光が当たらない分野だろうと思ってたら、意外にテレビとご縁が深いようです。

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津田篤太郎(つだ・とくたろう)

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。

子どものころ、人間の模型図の腸のかたちが巨大迷路に似ていることに興味を持ち、解剖図を眺めるのが好きになる。

現在、聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長。西洋医学と漢方の双方を生かす医療をめざしている。

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