本屋さん発!

第2回 山陽堂書店発!

2013.04.06更新

なぜ、本屋をつづけているのだろう。

中学2年のとき父親に店番をさせられてから早40年。
26年前に父が亡くなったとき、一カ月後に出産を控えた私は27歳。
父が亡くなって、これで店をやめられると思った。
その証拠に、たくさん購入してしまった紙袋をもう使わなくなるのにもったいないことをしたなあ、
こんなことが頭をよぎっていった覚えがある。
そんな自分だったのに、なぜいま本屋をつづけているのだろう。

中学生の頃の店番は、狭い店の入り口で「いらっしゃいませ」と頭を下げるだけだった。
それがわたしの仕事だった。
そんなある日、俳優の岡田真澄さんに声を掛けられ天にも昇るような気持ちになったことを覚えている。
いい思い出と言ったらそれくらい。なにしろ、退屈な店番だった。

高校生になるとレジも任されるようになり、本のカバー掛けなんかも緊張しながらやっていた。
父が昔、弁護士のお客様に教えていただいたカバーの掛け方は今でも変わらない。
同じ年頃の男の子が来たりすると、ちょっと意識したりしていたっけ。

1970年代当時7坪足らずの狭い店は、お客様で結構いっぱいだった。
父と語るのを目当てに来てくださるお客様もいた。
映画のプロデューサーの方は、よく京都土産のお団子を父に持ってきてくれた。
谷崎潤一郎、永井荷風の担当編集者だった方は、父が差し出した椅子に座ってよく話し込んでいたものだ。
もうひとりの元映画会社の重役だった方は、店の前を通ると「新潮と文春ちょうだい、ここからお金とって」とかばんのふたを開けてくれるので、手を突っ込んでお金を頂戴したものだった。
「NHKのレイディオのテキストちょうだい」というおじいちゃんの隣には、必ずおばあちゃんのガールフレンドがいた。
店内には灰皿もあり、今では考えられないけれど、お客様は煙草を吸いながら本をみていた。
当の店主である父が、一日ピース2缶吸ってしまうヘビースモーカーだった。

青山・表参道界隈のお客様は、なんだかとんがっている人が多かった。
店内に入ってくるとそれだけで空気がピーンとなる人がいた。
ある時父から「この世の中にはいろいろな人がいるから、こういう本もあるんだよ」というような説明と共に「薔薇族」「さぶ」の雑誌のことを教えてもらったことがあったが、その時は正直なんのことかさっぱりわからなかった。
ちょっとひげが生えているけれど女の人の格好をした人、モデル、作家、デザイナー、大学の先生、
常盤津・清元の師匠、俳優、近所のおじさんおばさん、学生、こども、当時は珍しく短い髪を金髪にしていた女性、立ち読みの常連さん、代議士の秘書、昼休みになると近所の増田屋さんの出汁の匂いをさせた男性客。今は若い女性客が多いけれど、あの頃昼休みの時間は男性客が多かったような気がする。

中高生のときは、春・夏・冬休みのときのみだったけれど、
大学時代は授業が終わると毎日店番。「お茶していかない」と誘われても断る日々。
「本屋に生まれたのが宿命だ~」返品の重い荷物を運びながらよくぶつぶつ言っていた。
アルバイト代だって、他で働いた方がずっとよかったし、私からみても儲けの少ないお店からアルバイト代をもらうのは、なんだかいやだった。

父は、私が大学から戻るとよく店の前で煙草を吸っていた。そして私を見ると「待ってました!」とばかりに隣の珈琲屋さんに一目散に向かっていくのだ。

卒業後しばらくして、結婚のため日本を離れることになった。私が店番をできなくなることによって、残された父たちに負担がかかることは私がいちばん知っている。でも、こういうときの父は気持がいいくらいに何も言わずにそれを受け容れ、許してくれる人だった。

約8カ月後、日本に戻ってきたとき父は病に倒れていた。
帰国翌日から、また店番の日々が始まった。
そして父の闘病中私は身ごもり、父の死の一カ月後長女が生まれた。
個人商店には産休もなにもない、産気づくまで店番、それは母も祖母も皆同じようにしてきたことだ。
でも、復帰が早すぎた。私は、関節の痛みで起きることができなくなってしまった。

そんなとき、助っ人Mさんが現れた。どんなに有難かったことか。Mさんはその時55歳。あとちょっとで100年に手が届く山陽堂のことをたいへん敬意を持って語ってくれたことは忘れない。
「すごいわね、こんなに長くつづいているなんて。」その時の私は、長くやっていることがすごいことなどと思っていなかったのだ。Mさんのこの一言は、私の中の「山陽堂」に対する視点を変えてくれた。

父亡き後、母と叔母、私と2歳下の妹は乳飲み子を抱えて、末の妹は会社勤めの後や会社休みに店番をし、Mさんや夫の妹にも手伝ってもらい、時におんぶしながらの店番、なにしろみんなで子育てをしながら店を切り盛りしてきた。生活していく為にも店をやめることはできなかった。

バブルがはじけた。売上げが落ち込んでいった。気持も落ち込んだ。そんなとき、叔母が言った。
「いざとなったら、本屋でなくても他の方法を考えればいいんだから」それを聞いた私は、呪縛されていたものから解き放たれた気がした。その頃から、私の中の何かが変わっていった。私が年齢を重ねたこともあるだろうけれど、山陽堂の岡山の先祖をたどりにいったり、この場所で本屋をつづけていくことの意味を模索し始めるようになったのだ。

都電と山陽堂(写真提供 原武廣氏)

「山陽堂書店」は、私たちが勝手にどうこうできる存在ではなくなっている。
122年前山陽堂を創業した初代からそれぞれの時代を担ってきた先祖、そして贔屓にしてくださったお客様、店員さんたち、さまざまな形でお世話になった人、そんな人たちの想いを引き継ぎながら、次の世代へと繋げていければと思うのである。次の世代が「山陽堂」を好きでいてくれたらいい。

なぜ、本屋をつづけているのだろう。
この文を書きながらら気がついた。

「本屋をつづけてきた山陽堂」が好きだからなのだ。


創業120年を迎えた2011年6月に山陽堂は「本屋」から「ギャラリーのある本屋」になりました。
もうすぐ2年になりますが「集える場」を持つということは新しい何かを生み出していくということと直結しているのだなと実感しています。4月からは、安西水丸さんを講師にお迎えしてイラストレーターのプロを目指す方のための「山陽堂イラストレーターズ・スタジオ」(SIS)を開講することになりました。今「『こころ朗らなれ、誰もみな』タダジュン版画展」を開催しています。(4/13まで日祝休)

雑誌コヨーテ・スイッチに連載された柴田元幸氏の選と訳によるヘミングウェイの短篇シリーズに、タダジュンさんが描いた原画や銅版の展示、連載時の雑誌もギャラリーで読んでいただけるようになっております。この2年間に開催したトークは30回を超えました。今回もコヨーテ編集長新井敏記さんと新潮社・編集者寺島哲也さんによるエディターズトーク『コヨーテの旅、編集者の想い』、翻訳家柴田元幸さんとイラストレーター・タダジュンさんによる『こころ朗らなれ、誰もみな』トーク&懇親会を開催いたしました。このあとも、20代の若者3人による『しごととわたしたち展』、特別支援教育の研究者による『科学と美術 出版記念展示会』、『草子ブックガイド展』と続きます。

これからも、この場所で「おもしろいな! いいな!」と思うことを展開していきます。
山陽堂からのお知らせご要望の方は、ぜひ山陽堂HP問い合わせメールからご連絡いただければ嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。



第2回 山陽堂書店発!

現在の山陽堂書店。『はやくはやくっていわないで』の原画展をしていただいたときのもの

山陽堂書店
〒107-0061  東京都港区北青山3-5-22
営業時間:10:00~19:30 土曜 11:00~17:00 定休日 日・祝祭日
TEL:03-3401-1309
ホームページ:http://sanyodo-shoten.co.jp/


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