本のこぼれ話

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今回は、『みんなのプロレス』の斎藤文彦(フミ・サイトー)先生に、お話をうかがいました。
話題は、先日他界された三沢光晴選手のことから、これからのプロレス教育にまで。
映画『レスラー』を観て、プロレスって面白いかも、と少しでも思われた方には、ぜひ、フミさんの「活字」ワールドでもう一度あの感覚を味わっていただければ嬉しいです。
プロレスは人生そのものです!

第3回 プロレスは「スポーツの芸術」だ

2009.08.03更新

トリプルH、クリス・ジェリコ、バティースタなんかもあります。

―― プロレスファンの1人として、『みんなのプロレス』を作れたことはとても幸せなことで、すごく楽しかったです。そこで、今日は「本のこぼれ話」ということで、フミさんに少しお話をうかがえたらと思っています。

斎藤はい。もうぼくでよければ。あ、ICレコーダーですか。ぼくICものはうっかり消しちゃうのが怖くてね、いまだにカセットテープ。「スタン・ハンセン」とか「藤原喜明」とか書いてツメを折って保存しています。ブルーザー・ブロディの声もありますよ。

―― へぇー ブロディの声をもってらっしゃいますか。

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斎藤90分テープで5、6本ありますね。他にもハルク・ホーガン、ロード・ウォリアーズ、カール・ゴッチ先生、ドリーさんとテリーさんのザ・ファンクス、ビル・ロビンソン、ニック・ボックウィンクル、ザ・シーク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン。それから、バンバン・ビガロやベイダーも。ここ25年くらいのメジャーな外国人レスラーのインタビュー・テープはだいたい保存してありますよ。日本人選手のものもけっこうあります。もうそれだけで財産。ははは。

―― じゃぁ、『みんなのプロレス』に登場しているほかのレスラーたちも?

斎藤アメリカのスーパースターとの対話は、もったいないから全部テープに残しましたね。最近の人たちだとトリプルH、クリス・ジェリコ、バティースタなんかもあります。ふふふ(笑)、けっこうすごいでしょ。
ジャイアント馬場さんの肉声が収められたテープもありますよ。

―― おお、それだけで宝物ですね。

斎藤はい。あるときそれに気づいて80年代後半からでしょうか、ずっとためています。カセットテープが劣化するまえにデジタル化しなければいけないですね。
そういえば、この『みんなのプロレス』って実はぼくがつけたタイトルじゃなくって、三島さんたちがつけたタイトルなんですよね。

―― ああ、そうですよね。いろいろ考えて。

斎藤10タイトルくらい候補がありましたよね。

――何往復もさせていただいて。

斎藤すみません。

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『みんなのプロレス』はホワイトアルバム

―― いえいえ、最後は「もうこれしかない」っていう感じで。

斎藤いいタイトルですよね。ぼくはビートルズ・マニアなんで、これはぼくの"ホワイトアルバム"なんだと思っています。
白い表紙が汚れっぽくなりやすいので、しゅっちゅう、消しゴムで黒い線がついたところを消しています(笑)。

「こんな厚い本で最後まで読破した最初の本だ」

斎藤このあいだ、現役の若い選手で「こんな厚い本で最後まで読破した最初の本だ」と言ってくれた人がいました。

―― 相当な分量ですもんね。二段組みですもんね。

斎藤そう。それで、「読破」なんていわれちゃって(笑)。

―― うれしいですね。レスラーの方もよく読んでくださってますか?

斎藤読んでくれてるかも。最近のレスラーたちはマニア上がり、ファン上がりの選手がわりと多い。音楽と一緒で、最初から好きなサブジャンルというか、ひとつのテイストみたいなものがあって、「自分、アメプロ(アメリカンプロレス)育ちですから」なんて言って。そういう意味では、子どもの頃からずっと"活字のプロレス""読むプロレス"と接しているわけです。いわゆる読書家というわけではないかもしれないけれど、努力して最後まで読みきる最大の本、それが『週刊プロレス』だった、とかね。

―― なるほど。その意味では、プロレスを理解するには、やはりずっと見たり、読んでないと難しいのでしょうか。

斎藤学習が必要なジャンルではありますね。ただ、プロレスそのものは金太郎飴みたいにできていて、今日から突然観はじめても今日から十分面白いんですよ。

―― はい。

斎藤だけども「え、それってそうなの?」っていうAという選手とBという選手の関係、過去のエピソードみたいなことがちょっとだけでもわかるともっともっと面白くて、それでそういう知識欲が湧いてくると、どんどん深みにはまっていくっていうかね。プロレスと付き合っていくのは、そういうことなんじゃないかなと思います。

―― たしかに、そうですね。『レスラー』なんかを観ても、主人公ランディ"ラム"の80年代の輝きを知っていればこそ、20年後のレスラーの姿が哀愁たっぷりに感じられるわけですものね。

三沢光晴選手がトリビュートに

―― でも、なんといいますか、この本はトリビュートの章だけで、200ページくらいありますが、その中にお一人加えなければいけない方が出てきたのがなんともつらいところでもあるんですけど......。

斎藤うん。ショックでしたね。三沢(光晴)選手のことは、本当にね......。
しかし、これも馬場さんが亡くなった10年前からの壮大なドラマのつづきとして捉えてる人も多いと思うんです。

―― というのは。

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斎藤つまり、99年の1月に馬場さんがお亡くなりになって、その春に三沢さんが全日本プロレスの新社長に任命された。元子さん(馬場夫人)は他の人を社長にしようとしていたんだけれど、ジャンボ鶴田さんが「三沢を社長にしなきゃダメですよ」って進言して実現したことなんです。
それで、三沢さんを社長にして、その春、ジャンボさんはオレゴン大学の客員教授になって日本から、というかプロレス界から去っていっちゃった。

―― そうだったんですか。

斎藤ところが、その翌年の2000年。全日本プロレスから三沢グループ(プロレスリング・ノア)が独立したんですね。最初、三沢さんはごく数人だけ連れて独立しようと思っていたらしいんです。でも、結果的にみんながついていっちゃった。

―― あれは結果的にそうなっただけだったんですか。

斎藤そう。三沢さんとしては、全日本に残る人はいるだろうと思ったんだけど、残ったのは川田(利明)、渕(正信)のふたりだけだった。"98対2"って言われているんですけどね。

―― ほんと、実際そういう構図でしたよね。

斎藤"空手バカ一代"大山倍達の極真会館の場合もそうだったのですが、そういう大きな組織は創設者が亡くなると必ず分裂するんですね。
分裂騒動が起こると、だいたいのケースでは6対4とか7対3くらいに割れるんですね。ところが、三沢さんの独立には"昭和の名レフェー"として知られるジョー樋口さん、ラッシャー木村さん、永源遙さんといった大ベテラン、レフェリー、リングアナウンサー、巡業ツアー・クルー、営業マンらがほとんど全員ついて来ちゃった。しかも、日テレの"プロレス中継番組"までいっしょに。

―― はい。あれにはびっくりでしたよね。

斎藤ノアの方舟って、お猿さんから鳥までみんな連れていくわけでしょ。
だから、全員でノアの方舟に乗ってディパーチャー(出航)していった。

―― はい。

斎藤三沢さんが亡くなったのは6月13日ですよね。実はその6月13日っていうのは、9年前、三沢さんグループが全日本を退団して新団体の旗揚げを発表した日なんです。独立の発表とまったく同じ日なんです、命日が。

―― それはまたすごい因縁ですね。

ジャンボ鶴田の死、緑色のリングの誕生

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ジャンボ鶴田イラスト © 鈴木順幸(『みんなのプロレス』所収)

斎藤そして、三沢さんが全日本プロレスから独立する少し前の5月13日、ジャンボさんも49歳の若さで亡くなった。

―― オレゴンへ行って大学教授になって、これから第2の人生かと思った矢先でしたよね。

斎藤そう。でも、ジャンボさんは最後の最後まで誰にも告げなかったけれど、その時にはもうガンは進行していたんですね。すでにガンが体じゅうに転移していたので、胃袋の一部を縛って、そこを壊死させて、それ以上周りに転移させないようにしたりとか、すごい荒療治をしていたらしいんです。

―― 荒療治ですか......。

斎藤やっぱりそれはね、どんなことをしてでも必死に生きようという姿勢......。
最後は肝臓移植のためにフィリピンまで行ったんですが、手術中に出血多量のショック症候群みたいなかたちで。

―― 最後の死因はそうなんですか。

斎藤はい。マニラの病院で。
そしてその後、三沢さんたちが全日本から独立して、世界でただひとつの緑色のリングができたんです。

―― そうなんですか。

斎藤プロレスのリングって、大体ブルーか純白か薄いグレーなんです。緑のマットは世界じゅうどこを探してもほかにはないんです。

―― ああ、そういわれるとそうですね。全然気づかなかった。

斎藤三沢さんも、姓名判断とか占いとかをわりと気にしていたみたいで、それでそっち方面の先生に確かめてみたら、エメラルド・グリーンは三沢さんとその仲間たちを守ってくれる色だった。

―― 守護色だと。

斎藤もともとオリジナルのイメージカラーはエメラルド・グリーンのタイツでしょ。それで自信を深めて、リングごと緑にしちゃったんですね、ロゴからなにから全部。 

―― へー そうだったんですか。

斎藤グリーンは三沢さんを守ってくれる色だったはずなんです。だから、そのキャンバスで頭を強打して死んでしまってはいけないんですよ、絶対に。

90年の春に三沢さんがタイガーマスクを脱いでね。

―― フミさんと三沢の接点というのは何かありましたか?

斎藤ありましたよ。彼が19歳で、ぼくも19歳のとき......。

―― あ、同い年なんですか。

斎藤昭和37年生まれで同い年なんです。当時ぼくは『週刊プロレス』の前身の『月刊プロレス』『デラックス・プロレス』の編集部になんとなく出入りしていたアルバイトの小僧で、学生記者みたいな感じで取材のお手伝いのようなことをしていたんです。81年の夏、いちどだけ新人時代の三沢さんと一緒に写真を撮ってもらったことがありました。

―― へー そうなんですか。

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三沢選手と同じ歳

斎藤昭和37年生まれのプロレスラーは三沢光晴、武藤敬司、それから高田延彦。すごい人たちばかりなんです。だから、ぼくはぼくなりに彼らの成長というか、プロレスラーとしての進化とそのストーリーをずっと観察してきたつもりなんですね。

―― ほほぉ そうですか。全員、一時代を築きましたよね。

斎藤築きました。全員、一国一城の主だし。
そして、90年の春でしたね、三沢さんがタイガーマスクの覆面を脱いで。試合中に自分でマスクを脱いで観客席に投げちゃうっていうマスクマンってそれまでいなかったので、あれはプロレスファンのみんなに衝撃を与えましたよね。

―― 普通は逆ですものね(笑)。マスクを剥がされないように押さえるところを。

斎藤そしてその後すぐ、ついにグリーンとシルバーのツートンのロングタイツをはいて日本武道館でジャンボ鶴田さんとメインイベントでシングルマッチをやることになって。その時点では「でもまぁ、ジャンボ鶴田さんには勝てないだろう」ってみんな思ってて。
いままでのメインイベンターはショートタイツがふつうだったけれど、三沢選手はロングタイツを選んだ。じつは三沢選手の左ヒザから左大腿部にかけて、すごく大きな手術の痕が残っているんですね。それで馬場さんが「あのキズはお客さまにはみせられない」といって、ロングタイツが製作された。

―― そうなんですよ。あれも衝撃的でした。三沢があのジャンボ鶴田からフォール勝ちって。

斎藤衝撃的だったでしょ。

―― 時代は変わったなって。

斎藤まったく新しいスター誕生の瞬間でしたね。

「プロレスとテレビはあざなえる繩のごとし」

斎藤ところで、馬場さんのいたころの全日本プロレスは、全日本スタイルっていうんですけど、各レスラーのタイツやシューズの色とか髪の毛の長さとか、キャラクター設定といったらいいのかもしれないけれど、会社サイドがすべてを決めるんですよ。「小橋くんは蛍光オレンジ」「秋山くんは青」って。

―― へぇー、選手個人の好みでは決められないんですか。

斎藤ジャイアント馬場さんは必ず「赤のでかパン」でしたね。変えちゃいけないんです。

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ジャイアント馬場さん。ガウンを紐解けば、「赤のでかパン」 © 鈴木順幸(『みんなのプロレス』所収)

―― ある種、ブランディングをやっていたわけですね。

斎藤そうなんです。ジャンボさんは若手のときは青と赤で星がついてるタイツ。エースとしてストロング・スタイルになると黒に模様替えするんです。

―― なるほど。

斎藤つまり、テレビを見たとき、緑色と蛍光オレンジが闘っていないといけないんですね。三沢光晴と小橋建太です。そういうふうに視覚から入っていくんですね。タイツの色は、お相撲さんのまわしの色っていう感じですね。

―― なるほどなるほど。力道山の大相撲と、馬場さんの読売ジャイアンツ出身っていうある種の考え方をちゃんと踏襲していたのでしょうか。

斎藤日本のプロレスの歴史はまず、街頭テレビと力道山からでしたからね。 
日本テレビの重役の方がいみじくも「プロレスとテレビはあざなえる縄のごとし」ということを言ったのですが、テレビによってプロレスがメジャースポーツになった面もあるけれど、じつはプロレスがキラーコンテンツだったから、日本じゅうにテレビが普及したということでもあるんですね。

―― はいはい。

斎藤実際、プロレス黎明期にはファンは「ちょっとプロレス見せて下さい」といってご近所さんにお邪魔していたわけですから。それで、力道山、馬場さん、ジャンボさんときて、日本テレビは三沢さんと独立したNOAH(株式会社プロレスリング・ノア)を選択したんですね。

プロレスは"スポーツ芸術"だ

斎藤でも、なんていうか、プロレスというジャンルそのもののおはなしというか、プロレスの定義みたいなおはなしになると、学校の先生や親、近所のおじさん、親せきなんかはほとんど必ず「あんなものは、ショーだ、八百長だ、インチキだ、くだらねえ」って判で押したようなことを言うでしょ。

―― 確かに。

斎藤大なり小なりですけど、プロレスを一生懸命見ている少年ファンって、まずまちがいなくそういう罵詈雑言を浴びせられるんですね。それも何度も何度も。でも、そうやって言われながらも、葛藤しながら、自分自身との対話をくり返しながらプロレスを観つづけて、少し大人になってくると「ショーだ、八百長だ、いんちきだ、くだらない」って言っていたオトナたちは、じつはプロレスのことなんかなにも知らない、こんなにマジメにプロレスを観ているぼくたちよりプロレスについてくわしいはずがないっていう事実に気がつく日が来るんですね。

―― うん。絶対そうですね。

斎藤プロレスって、ファンだけじゃなくて、じっさいにそれをやっているレスラーたちもその定義について常に考えつづけてるジャンルなんです。「どこまでがプロレスなんだろう?」「これはプロレスなんだろうか」「これはプロレスじゃないんだろうか?」ってね。そういう不思議なジャンルなんです。

―― そうですよね。

斎藤不思議っていうか、こんなにテクノロジーが発展した地球上で、ヘビー級の大男たちが裸になって、闘いのシミュレーションを見せてくれるんですよ。
基本的に、お客さんに見せるために闘うスペクテーター・スポーツだから、鍛えた肉体を使って相手が仕掛けてくる技を全部受け止めるわけです。プロフェッショナルとしての受け身の技術がたいへん重要なんです。でも、プロレスは決して相手を殺すためのものではないし、本当には相手をけがさせたりはしない。武藤敬司は言いますよ、「けがはしてもさせてもいけないんだ」って。

―― なるほど。

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「プロレスはスペクテーター・スポーツだ」

斎藤だからといって、本気で殴っていないのかといったら、やっぱり殴ってるわけです。だけど、相手の骨をボキッと折ってやろうっていうふうにはやっていない。シミュレーションの限界までもっていくっていうことですね。根本的にはスポーツなんだけど、ぼくは"スポーツ芸術"だと思ってる。だけど、三沢さんみたいに現実にリングの上で命を落としてしまうケースもある。

―― はい。

斎藤「あんなの全部八百長なんでしょ、インチキなんでしょ、痛くないんでしょ」って知ったかぶりしている人たちに対しては、なんだろう、そんなときは反対に「プロレスはインチキだったんじゃねえのかよ。そういってたじゃねえかよ。お前ら、プロレスをわかってるんじゃなかったのかよ。三沢光晴はだれのために闘ってたと思ってんだ?」って言い返してやりたいよね。

―― 確かに。

斎藤だから、そのあたりをできる限りきっちりとコトバにしていくことがぼくらプロレス・マスコミ、プロレス・ライターの役目なのかなっていう気はしますね。 
プロレスって、やっぱり本気になって一生懸命かかわっていくだけの価値のあるジャンルだと思うし、そういう自分のなかでの自問自答っていうのかな、わかったと思ったらわからなくなっちゃったり、追いかけ過ぎたらプロレスが逃げていっちゃったり、こっちが逃げようとしたらプロレスのほうからこっちに近づいてきたりとか、そんなことをくり返しながら10年も20年も30年も観つづけちゃうもんなんだと思いますね。

プロレスは文学的なんです。

―― 今後そういうプロレスの面白さってどうやったら伝わっていくと思いますか?

斎藤ぼくはもっともっと書きつづけますよ。プロレス・ライターですから。試合はやらないんだけど、試合をしない人としては一番近くまでは近づきたいっていう願望はありますね。触らないけど、触るくらい近くまで近づいていってプロレスを目撃しよう、プロレスラーがぼくに話してくれることは全部ちゃんと聞いておこうって。

―― そうですね。

斎藤プロレスの人気が落ちちゃったのは、K-1とかMMA(総合格闘技)っていうものにお客さんをとられたことも事実なんだけど、プロレスの方はプロレスの方で「ちょっと待った、みんなプロレスってそんなカンタンにはできていないから、もうちょっと辛抱づよくプロレスを見て」「自分の中でしっかり定義づけをしながらリングの上を観ていこう」っていう作業を怠っちゃった部分があるんじゃないかと思うんですね。
ぼくみたいに、なにを目撃しても大好き、なにがあっても愛情も情熱も揺るぎないっていう人ばかりじゃないからね。

―― はいはい。

斎藤プロレスを大好きな人だって、揺れ動きながら、疑問を抱きながら接するのがプロレスだから。でも、プロレスって長ーい歴史をふり返ってみると、1850年代くらいから2009年まで見事にストーリー(物語)がつながってるんですよ。

―― いや、ほんとに。プロレスって見ていくと、人生深まると思うんですよね。格闘技っていうのはすごく単純で、強いか弱いか、一秒でもはやく相手を倒すことだけが目的ですけど、プロレスってもう少し多面的で、多様ですよね。

斎藤重層的というかね。それでまた、プロレスラーって、時間をかけてお客さんの前で成長していってくれるんですよ。それがね、うれしくてね。その選手を観察しているだけですぐに10年くらい経っちゃうし。

―― ほんとですね。

斎藤だって、三沢さんがグリーンのタイツに変身したのが90年でしょ。ついこないだ緑のロングタイツにイメージチェンジしたっていう印象を持っている人もわりと多いのに、じつは19年もあの緑のタイツ姿で闘っていたんですよ。だから、小学校のときに初めてグリーンのタイツの三沢さんのファンになった人たちはもうすでに30代ですよ。
それにね、現在のノアの若手選手、やっぱりすごいんです。小橋(建太)の若手時代みたいな選手が5、6人いるような感じなんです。

―― そんなレベル高いんですか。

斎藤潮崎(豪)、鈴木鼓太郎、伊藤(旭彦)とか青木(篤志)とか。小学校から高校卒業までの12年間、通信簿はずっと"体育5"が絶対条件。そもそも、三沢さんのおメガネにかなわないと入門できないから。森島(猛)あたりはもう完成したレスラー。何人かすごいの出てきちゃったんですよ、ここ数年で。丸藤(正道)とKENTAはだれが見ても天才ですからね。

―― はいはい。それはそうですね。

斎藤やっぱり、新しい世代の選手と新しい世代のファンがいっしょに出現するといいですよね。

―― そうですね。だから本当に、地上波のテレビ放送が消え、ますます活字で伝えるプロレスの重要性が出てきましたよね。それにやっぱり、プロレスって想像力をかき立てますしね。

斎藤文学的だからね、プロレスは。

―― はい。ぜひ、フミさんには今後もどんどん書いていただきたいと思います。

プロレスの歴史小説を書く定め

斎藤それこそ1850年から1900年くらいまでのはね、プロレスがプロレスとしてなりたっていった時代。"プロレスの父"ウィリアム・マルドゥーンからフランク・ゴッチ、ジョージ・ハッケンシュミットあたりまでのヒストリーは、ぼくがその歴史小説を書く定めなんだろうなと思っています。

―― おおっ!

斎藤うん。つまり、プロレスがプロレスとしてのかたちをなしていった50年ってあるんですね。1850年くらいから1900年まで。1900年あたりから1950年あたりまで。それと1950年から2000年まで。50年ずつのブロックが少なくとも3回ある。
日本のプロレスっていうのは、この1950年から2000年までのブロックから派生しているだけなんです。だから、そのまえの2回の50年間のループをちゃんと紐解いていけば、これからの50年のことは予想できるんじゃないかなってぼくは考えている。

―― ほぉ。

斎藤ループ(周期)ですから、プロレスっていうのは。下がるところまで下がって、こんどはゆっくりと上がりつつある段階にはいると思うんです。もう一周しないとダメなんです。いまが暗黒の10年の最後のカーブってことで。

―― 確かに。

斎藤もう1回、オトナのファンだけじゃなくて、子どもたちにもプロレスは面白いんだよということをきっちりと伝えていかなきゃなって思いますね。

―― そうですよね。ぼくたちも、いろんなかたちでそれができるように頑張っていきたいと思います。

今日は本当にありがとうございました。

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斎藤文彦先生(さいとう・ふみひこ)

1962年1月1月、東京都杉並区生まれ。オーガスバーグ大学教養学部卒業。スポーツライター。コラムニスト。専修大学、帝塚山学院大学、大正大学で非常勤講師として教壇に立つ。在米中からプロレス記者として活動。主な著書は『テイキング・バンプ』『デケード』『シーズンズ・グリーティングス』『レジェンド100』(以上、ベースボール・マガジン社)、『プロレス大事典』(小学館)、『ボーイズはボーイズ』(梅里書房)、『スポーツで楽しむアメリカ英語』(岩波書店)など。

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