本のこぼれ話

「文章の怖さを知っていますか?」
「読んでもらうことの大変さを認識していますか?」
「それは、誰に向かって書く文章ですか?」

(『書いて生きていく プロ文章論』より)

2010年12月14日、ジュンク堂書店 新宿店で、
書いて生きていく プロ文章論』の発刊記念トークイベントが行われました。

対談いただいたのは、著者のライター・上阪徹氏と、『R25』エグゼクティブプロデューサー・藤井大輔氏。
2004年7月の『R25』創刊時より一緒に仕事をされてきたお二人に、「今求められるライターについて」大いに語っていただきました。

「稼げるライターになる! R25世代の文章論」上阪徹×藤井大輔 対談録
2010年12月14日@ジュンク堂書店 新宿店

第12回 『書いて生きていく プロ文章論』 上阪徹さん×藤井大輔さん(前編)

2010.12.21更新

電通? 博報堂? 知りません。

『書いて生きていく プロ文章論』の発刊記念イベント

『書いて生きていく プロ文章論』

藤井今日は上阪さんの著書『書いて生きていく プロ文章論』の発刊記念イベントということで、私が進行役として、みなさんを代表して質問するかたちで話をお聞きしたいと思います。「プロ文章論」には80くらいの事細かな実践的ノウハウが詰まっていますが、そこでは書かれなかった話もでてくるかと思います。よろしくお願いします。

上阪よろしくお願いします。

藤井私も上阪さんもリクルート(株式会社リクルートおよび関連会社)出身で、本のなかで語られている「相場観」の話など、リクルートで教わったこともたくさんあったかなと思っています。そもそも、上阪さんはリクルートが最初の会社だったのですか?

上阪大学を卒業して一年ほど、アパレルメーカーに勤めました。そこからリクルートが新たにつくった制作専門会社に入社してフリーランスという流れですね。

学生時代はだいぶ鼻っ柱が強くてですね、大学1年のとき先輩と就職の話をする機会があって、「就職するのが一番難しい会社はどこですか?」と聞いたら、「電通という会社があってね・・・」と教えてくれたのですが、電通という会社の存在を私はまったく知りませんでして(笑)。

マーケティング専攻の人だったので、話を続けているうちに博報堂も出てきて、「博報堂? 知らないです」と答えていたら、呆れられてしまいましてね。それでムッとして、それならその会社に絶対に入ってやろうと。これが、最初に広告の世界を志した動機で(笑)。結局、後に見事に落ちましたが。

藤井子どもの頃から、文書を書く仕事に就きたいと思っていたのですか?

上阪それはまったくなかったです。子どもの頃は、むしろ作文は死ぬほど嫌いでした。宿題で一番憂鬱なのは読書感想文で、とにかく嫌で嫌で、文章を書くことを仕事にしたいなんて夢にも思っていませんでした。大学時代の友人も、なんでお前が「書いて生きていく」なんていう本出してるんだ、冗談じゃないという感じでしょうね(笑)。

藤井なるほど。学生時代に、電通、博報堂の存在を知り、広告に興味を持たれた。でも、実際にリクルートでやられた広告の仕事は少し特殊でしたよね。

『書いて生きていく プロ文章論』の発刊記念イベント

ライター・上阪徹氏

上阪広告のなかでも、かつて紙媒体として存在した求人情報誌の『とらばーゆ』や『B−ing(ビーイング)』の求人広告、社員募集の広告でしたから。「月給20万円 残業なし!」「いまなら楽しく働けます」といったストレートなコピーが当たり前に並ぶ情報誌で、人をちゃんと呼べる広告のコピーを毎日真剣に考えていました。ほんとに3cm四方くらいのスペースを埋める広告制作からのスタートです。

やがてだんだん大きな企業の広告を手がけていくようになりました。リクルートには結局5年間所属しましたが、書くスペースが上がっていき、カラーの広告を当たり前のようにつくりはじめたのが、3、4年目くらいでしょうか。当時は若かったですから、下積みは長かった印象でしたね。

求人誌は毎週出るので、出した広告に対して何人応募があり、何人採用されたか明快にわかるんです。営業さんはクライアントさんから応募の結果を全部聞かされますから、「お前がつくったもので人が何人応募してきた」とはっきりわかる。だから、一生懸命いいコピーを考えるんです。それを何度も繰り返して、どうすれば人を呼べるか、どうすればその会社が本当に求めているような人を採れるのか、そういうことを徹底的に訓練させられました。

藤井電通さんがつくっているものは「イメージ広告」、リクルートがつくっているものは「アクション広告」といわれますが、コピーの質もまったく違いますもんね。糸井重里さんの「おいしい生活。」(1983年、西武百貨店)みたいな商品広告と違い、求人広告は、クライアントが欲しい社員をいかに集めるか考えなくてはいけない。

上阪商品広告で、何人反応があったかなんて捉えようがないと思いますが、採用の広告は、数字がもろに出てくるので、緊張感はひとしおでした。

藤井20代の頃の成功体験というと、どんなものがありますか。

上阪反応ゼロの広告はまずなかったです。だから、逆にうまくいかなかったから覚えていることがあります。

当時、働きはじめて一年ほどたった頃(24歳くらい)でしたか。少し表現がわかりはじめてきた頃。社長の話を聞いてターゲットをイメージして、この会社には何を言ってあげればいいかまで決まったのですが、そこから先に少し変わった表現にしようと冒険しちゃったんです。家族経営の、小さな事業主の求人広告だったんですが、そこのお母さんをクローズアップしてみたんですね。

藤井クリエイター魂が出てしまった。

上阪そうしたら、思うような反響が得られなかった。もう、そのときは、営業さんと一緒に、ひたすら頭を下げて謝りました。広告費を払ってもらっているクライアントさんになんていうことをしてしまったんだ、というショックは大きかったです。そのとき、文章によって人を傷つけてしまったり、損をさせてしまうようなことがあり得ることを学びました。文章の怖さを認識すること。それ以来、広告をつくるときに、表現に絶対に自分を入れてはいけないと、思い知らされました。

キャリア転換しようと思ったら・・・

『書いて生きていく プロ文章論』の発刊記念イベント

リクルート・藤井大輔氏

藤井リクルートに5年在籍して、それからすぐフリーランスになられたんですか?

上阪当時、リクルートの制作マンのモチベーションは、自分の考えたコピーで効果を上げることと、もうひとつ、社内の広告賞にランクインすることがありました。

入社当初は鼻っ柱も強かったので、これから常に上位にランクインして、華々しいクリエイター人生が待っていると思っていたのですが、現実はなかなか賞がとれないわけです。かろうじて3位までいったと記憶していますが、制作マンも数百人いますから、1位や2位を獲るのはとても難しかった。

それで、若かったこともあり、キャリアを転換するのも早いほうがいいだろうと、シンクタンク系のベンチャー企業に移りました。言葉を換えれば、賞も思うようにいかなくて、逃げたんですよ。28歳くらいの頃です。当時の上司に誘われて、情報誌の編集職でしたが、給料も上がり条件もよくて。

藤井編集者になられたんですか。

上阪ちょっとだけね。でもその会社、3カ月で資金に行き詰まり倒産してしまうんですよ。倒産の修羅場を見ました。債権者や危ない人が押し掛けてきたり、怪しい電話がかかってきたり役員がいなくなったり(笑)。そこで、急に社会に放り出されることになってしまったんですね。

資金繰りが悪化した原因のひとつが、新卒採用をその年、一気に20人くらい採ったことでした。ありえないですよね(笑)。バブルもはじけた後でした。僕が入社したのも4月で、一緒に入った中途採用者もかなりいて、20人新入社員で、さらに新しいビルに引っ越したんですよ。えらく羽振りがいいなと思ったんですけどね(笑)

藤井その羽振りのよさが3カ月後には資金がつきた。

上阪どういう経営やねんって思いますよね(笑)。いまから思えば、社長の面接を受けているときに、少し危うさを感じてはいたんですけどね。笑顔なんだけど笑ってない。

いま、取材で何千人とお会いしてきて感じるのは、人の内面は全部顔に出る、ということです。20代の当時もけっこう取材していたので、それなりにピンとくるものがありまして。人間は基本的に本能で動いているところがあると思うんです。そのときも、本能的に「やめておけ」と背中を引っ張られていたような気がします。

藤井でも、待遇がよかったから行ってしまった。

上阪そうなんです。こういう目に遭ったのは、ひとつは自分から逃げようとしたことだと思いました。やっぱり逃げたらダメなんですよ。そしてもうひとつは、本能に逆らって転職したからでしょう。人間の本能というのは、意外にすごいんだと思います。それで、会社が倒産した後、そうこうしているうちに、夏が来て、秋が来て・・・。ふと気がつくと「あれ、職ねえぞ。金もねえ。どうしよう」という状況になっていた。地位も名誉も財産も、職までなくしたところまで落ちたんです。そんなとき、リクルートの人が電話をくれて。

「どうしてるんだ? 大丈夫か?」
「お金がありません」
「とりあえず銀座に来い」
「銀座に行くお金も微妙です」
「バカ、歩いて丸井に行って金借りてこい! 丸井のカード持ってるだろ」

当時、目白に住んでいたので、歩いて新宿の丸井に行きました。本当は池袋のほうが近かったんですけどね(笑)。なぜか新宿の本館に行って、20回払いで20万円借りたんですよ。それが僕の独立資金です。

藤井リクルートの人はなんてアドバイスをくれたんですか。

上阪「困っているならとりあえず来い」とは言ってくれたものの、当時はリクルートを辞めてから半年間は、フリーランスとして正式な契約ができなかったんです。まだ辞めてから5カ月も経ってなかったので、仕事をもらえるようになるまでだいぶ時間があった。なので、それまでお付き合いのなかった編集部の人を紹介してもらって、時給850円でバイトさせてもらいました。制作のフロアだと、顔見知りも多いしアルバイトじゃ恥ずかしいだろう、と気を遣ってもらって。だから、隠れるように本社ビルに出入りしていました。

1カ月くらいバイトして、ようやくフリー契約ができるころになって、広告と編集の仕事をさせてもらえるようになりました。当初は広告の仕事が9割くらいでしたが、徐々に編集の仕事も増えていきました。

『書いて生きていく プロ文章論』発刊記念イベント

不思議なんですけど、制作じゃかわいそうだから、と気を遣ってもらって最初に時給のバイトをしたのが編集部だったので、それまではご縁のなかった編集部の人とつながりができて、その人が隣の編集部を紹介してくれたり、隣の編集部の編集長さんが自分の部下を紹介してくれたり、その部下の人が違う編集部に異動して・・・とつながって。

藤井編集わらしべ長者みたいですね。

上阪まさにその通りでした。私は営業をしたことが一度もないんです。当時はとにかく食べるのが精一杯だったので、とにかくなんでもやろうと思っていました。仕事をいただけることがうれしかったし感謝していました。将来何になろうとかではなく「いただける仕事を精一杯」、目の前にある仕事をとにかくやっていこうと。それだけでした。

締め切りは死んでも守る

『書いて生きていく プロ文章論』 上阪徹×藤井大輔(前編)

『R25のつくりかた』(藤井大輔、日本経済新聞出版社)

藤井この本には、「書いて生きていく」と副題でありますが、書いて生きていける自信を感じはじめたのはいつ頃ですか?

上阪フリーになって5年ほど経った2000年くらいでしょうか。その頃から週刊誌や月刊誌でインタビューの連載が始まり、いろんな仕事をもらえるようになったんですね。『R25』も含めてですが、それまで連載というか、決まった仕事は何もなかったので大きかった。

藤井上阪さんは仕事を断らないと聞きましたが。

上阪取材がバッティングするか、これは徹夜をしなければ受けられないというような仕事はお断りしています。仕事の量が自分のキャパシティーを越えて、クオリティを保証できないものも絶対に受けません。ただ、締め切りは必ず守ります。

広告の仕事をしてきたせいか、締め切りに対する意識はすごく厳しいですね。広告は自分だけの話で終わらないんですよ。デザイナーさんが僕のコピーを待っていて、営業さんがクライアントにプレゼンする日時は決まっている。もしそれまでに原稿を持っていけなければ、クライアントが激怒してすべて終わりになりかねないですから。それは絶対にやってはいけない。常に逆算して仕事していく癖はつきました。

ずっと広告制作の仕事をしていたせいか「締め切り」と言われたら、その日を遅れて提出するなんてあり得なかったんですね。
いまでこそ、出版の裏事情もわかり、編集者は基本的にサバを読んで締め切りを指定してくることも知ってますが、当時は締め切りにサバを読んでいるなんて思いもしなかったので、そのまま素で受けて提出していました。

でも、それが逆によかったかもしれません。今でも締め切りは守ります。あるとき一度も締め切りを破ったことがないことに気づき、「こうなったら何が何でも守ってやる」と、もう意地になってますね(笑)。

藤井プロ野球の鉄人、金本か衣笠みたいな感じですね(笑)。記録更新みたいな。

上阪書籍はきついですけどね(笑)。

テクじゃなくて真顔で聞く

藤井一番最初の連載は覚えていますか?

上阪雇用をテーマにした連載を、『B−ing(ビーイング)』で一年ほどやっていました。編集者にこだわりがあって、おもしろかったですね。取材相手は雇用の専門家の方とか、いわゆる固い仕事だけじゃなく、サブカル系も含め、右から左まで本当にさまざまな人たち。そこで編集記事のおもしろさを教えてもらって、翌年から後に「プロ論。」と名称が変わるインタビュー連載が始まりました。

藤井インタビューって生ものなのですごく難しいですよね。ご自身で、編集者に評価されてインタビューの仕事が続くポイントはどこだと思いますか。

上阪ひとつはインタビューが好きというのがあるんじゃないですか。人の話を聞くのが好きなんです。30代前半の頃ってまだ若輩者ですから、単純に普段会えないような人に、「あなたはどうしてこんなに成功したんですか?」と聞くのがたまらなくおもしろかった。

「なんでこの人はこんなに成功しているのか」「なんで俺はこんなにうだつがあがらないのか」。それを比べるだけでも相当に興味深いわけですよ。
「どうやったらうまくいくんですか?」「どうしてそんなこと思いついたんですか?」って思いっきり真顔で聞いていました。テクじゃなくて真顔ですね。
そうするとみんないい人なので、けっこうしゃべってくれるんですよ。こっちも構えずに、思い切り質問をぶつけていました。

もうひとつ、インタビューされる側の立場に立って考えることは意識していましたね。たとえば映画のプロモーションで話を聞きにいくとする。その日が取材日だったら、相手は映画の話を何時間も聞かれ続けていると思うんです。それを考えたら、違う質問をしてあげたほうが、きっと楽しいでしょうし、「みなさんにたくさん聞かれていると思うんですけど」と、相手の事情がわかっていることを伝えるだけでも相手の反応は違ってきます。

よく考えてみたら、はじめて会う人に根掘り葉掘り話を聞かれるって嫌じゃないですか? 話をする相手がどんな性格で、どんなバックグラウンドを持っているかわからないわけですし、いろいろと前提がそろっていない時点で話をしなければいけない。そもそもインタビューって、そんなに簡単にうまくいくわけないと思っているんです。それが前提としてありますよね。

僕の場合はもともと広告の仕事から始まりましたから、相手からしたら「こっちは金を払ってるんだ。俺が満足するように話を聞け」と言われても仕方がない状況にずっといたわけです。だから、時間をもらうことへの感謝の気持ちというのは、すごくあるんです。ところが、編集記事の場合は必ずしもそうではないということが次第にわかっていって。

あるとき某経済新聞社系列の仕事でインタビューに伺ったんですが、広告の仕事で取材するのと、受け手の対応がまったく違ったことがありました。某経済新聞さんなので、社会的な影響力も大きいということもあるんでしょう。広報さんの対応がまるで違うんですね。

『書いて生きていく プロ文章論』発刊記念イベント

なるほど、広告の仕事で厳しい対応をしてもらっていて、むしろよかったな、と思いました。感謝の気持ちを持って取材をすることができたし、間違っても取材者としてふんぞり返って話を聞いたりすることは絶対にありえなかったですから。だからこそ、気づかされたことは多かったです。こっちがちゃんとしていれば、向こうもしゃべってくれるんだなとか。それから、やっぱり記事でも自分もちゃんとしていこうと思うようになりました。相手の気持ちに立っていこうと。

(後編に続きます!)

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上阪徹
藤井大輔

上阪徹(うえさか・とおる)
1966年兵庫県生まれ。89年早稲田大学商学部卒。 アパレルメーカーのワールド、リクルート・グループなどを経て、95年よりフリー。 経営、金融、ベンチャー、就職などをテーマに、雑誌や書籍などで幅広く執筆や インタビューを手がけている。 インタビュー集に『プロ論。』(徳間書店)シリーズ、『外資系トップの仕事力』(ダイヤモンド社)、 『我らクレイジー☆エンジニア主義』(中経の文庫)。 著書に『新しい成功のかたち 楽天物語』(講談社)、 『600万人の女性に支持される「クックパッド」という ビジネス』(角川SSC新書)、 『「カタリバ」という授業』(英治出版)などがある。

藤井大輔(ふじい・だいすけ)
1973年生まれ。95年大阪大学経済学部卒業後、株式会社リクルート入社。 「ゼクシィ」「AB-ROAD」「ダ・ヴィンチ」「都心に住む」などの媒体に携わる。 2004年「R25」創刊に関わり、2005年より編集長。ウェブ、R25式モバイルなどの クロスメディア展開に携わり、2006年「L25」創刊。 現在、リクルートR25エクゼクティブプロデューサー。

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