本のこぼれ話

『近くて遠いこの身体』平尾剛(ミシマ社)

 2014年9月、ミシマガジンの人気連載「近くて遠いこの身体」が、ついに本になりました。「ついに」とつい書いてしましましたが、これは実感とともに口からこぼれ出た表現です。
 というのも、本書の担当編集者である私(三島)が、平尾剛さんにご依頼したのは、2011年のことでした。震災後、ミシマ社が京都府城陽市にもオフィスを開設し、関西での出版活動を本格化しようというタイミングでの依頼でした。
 「関西で出版活動をしていくにあたって、平尾さんとは、絶対にご一緒に仕事をしたい」
 そんなふうに強く思ったのでした。
では、どうしてそう思ったのか?
 私のばあい、理屈は「あとづけ」であることが多く、このときも例外ではありません。
 同じ1975年であること、同じ関西出身であること(平尾さんは大阪、私は京都)、同じような家庭環境(実家が自営業)など・・・共通の要素が多かったこともあるでしょう。
 けれど、なによりも「同じようなほう」へ向いている。
 そう感じられたことが大きかったと思います。
 「スポーツ」「出版」とそれぞれが立っている場所の違いこそあれ、むしろ、同業者よりも、目指しているところは同じ。
 そんなふうに互いに感じていたことは間違いありません。
 現に、私たちは、本づくりに向けいっきに意気投合したのですから。

さる2014年10月16日、スタンダードブックストア心斎橋店でおこなわれた対談(「失われた身体感覚を求めて」)は、私たちが日々、目指している「同じような方向」とは何かをふりかえる時間でもありました。
 おおげさにいえば、私たちは、スポーツ、出版という世界で、なによりも大切にしているものは何か?
そんな大きな問いをもちつつ、意気投合から一転、どうして発刊までこれほど時間がかったのか? というところから対談は始まりました。

(文:三島邦弘、構成・写真:新居未希、構成補助:山本ひかる)

失われた身体感覚を求めて 平尾剛×三島邦弘(前編)

2014.12.23更新


力みから解放されて

三島『近くて遠いこの身体』は、実は意外にも平尾さんの初の単著なんですよね。

平尾そうですね。はじめは書き下ろしで書く予定だったんです。でもなかなか書けなくて...。

三島「寺子屋ミシマ社」を開催し、執筆途中の著者を励まそう、なんてイベントをしたこともありましたね。

平尾はい。で、そうしていろいろ試みてもらった結果、ミシマ社のウェブ雑誌「みんなのミシマガジン」で連載をさせてもらうことになりました。

三島近くで平尾さんを見ていて、思っていた以上に辛そうだな、と感じてました。

平尾う~ん、力んでましたね。「よし書いてやろう!」という思いが変な方向に向いて、気づいたら、後悔とか、恨みつらみが後から後から湧いてくる。
2007年に原因不明の怪我の後遺症で引退してから4、5年経ってましたが、まだ自分のなかで未練というか、消化できないものがあったんですね。書いたものを読み返してみて、初めて気づきました。

三島なるほど。

平尾それが、連載だと、その時に深く考えたことを文字にしていくわけじゃないですか。これを書いたから次はこれを書こうっていう流れをあまり意識しないですむ。一本、一本で完結するんですね。つまり過去に身を置く時間が短い。「あのときのあの試合中の不思議な感じを書いてみよう」と思いながら書き出して、そこでひとつの話を完結させる。また次を思いついたら、それについて書く。

三島それが結果的に良かったんでしょうね。

平尾ええ。僕にとってはとてもよいペースでした。ただ、「単発的に書く」を続ける中ではストーリーがあまりよく見えていませんでした。どこに着地するんだろうという漠然とした不安はやはりあった。
 それを、三島さんが前後を書き換えて章立てをつくってくださったんですよね。その並び替えられた原稿を見た瞬間に、「そうそう、これが言いたかったんだよ!」って1つのストーリーが浮かび上がった。

三島そう言ってもらえると嬉しいです。
僕自身そうでしたけど、毎回連載を読んでいただいていた方も、単行本を読んだときに「えっ」って思われたんじゃないでしょうか。「全然違う!」と。

平尾本というのは著者ががんばって書いて、一冊に仕上げる、という程度の理解でしかなかった。もちろん編集者がいるってことはわかってましたが、その仕事内容について、頭ではわかっていても実感が伴ってはいなかった。見事にストーリーが浮かび上がったのをみて、これが「編集」という仕事なんだなって。それでテンションが上がって加筆しました(笑)。

三島平尾さんのノってくださってる感じがすごく出ていますね。駆け抜けてる感が、この本のなかに詰まったなって思います。

平尾いいパスが来たので、気持ちよくトライできたんです。


主観的に感じている時間はバラバラだ

平尾僕の本って理路整然としていないと思うんです。ぼくが表現しようと目論んでいるのは、「感覚的なこと」なんですよ。ラグビー選手としての経験から言うと、グラウンドのなかって、勝ち負けといった単純な基準だけでプレーしているわけではない。勝利を目指すそのプロセスにはひとつひとつのプレーがあり、その一瞬一瞬に選手はいろんなことを受容しているわけです。時間感覚が歪んで、短く感じたり、長くなったり。あるいは、極度の集中状態になったら音がなくなったりとか。

三島うんうん。

平尾けれどそういう経験って、何もアスリートだけに起こることではなく、みなさんも身近で感じたことがあると思うんですよね。会議や授業はゆっくりだけど、好きな映画はすぐに見終わるとか、麻雀なら徹夜してもあまり疲れないとか(笑)。あっちこっちに時計がある社会に生きてると、たえず目で見て確認して、時間は誰にしも平等に流れているように感じるけれども、主観的に感じている時間はバラバラやと思うんですよ。

三島時間の流れ方が変わる。実は、それってすごく合理的なんじゃないかなと僕は思っています。スポーツの勝ち負けにしても、データ的に分析して、こうしたら確率が高くなるとか勝ちへの道が近くなるとか、それがすごく合理的な理由のようにして語られがちですよね。けれど、それは根本的に違っているんじゃないか、と。

平尾うんうん。

三島じゃあ何でそういう語られ方をするのかというと、みんなが「納得しやすい」から、だと思うんです。たとえば、チームを運営しようと思ったら、選手を獲得しなくてはいけない。選手を獲得するためには、資金を集めなくてはいけない。それで、スポンサーやすべてを納得させようとしていくと、数字をみて、これをたどっていったらこうなる、じゃあそれでいこう、というふうに、とても単純化された、誰もがわかる基準を置く。そういうことが、スポーツだけでなく、いろんな現場で行われているんだと思います。


合理的であるかどうかは、その後にしかわからない

三島合理的な説明というものへの違和感、とでもいいましょうか。
平尾さんは研究者の立場で、ぼくは出版人という実践者の立場で、そうした違和感を大切にしているように感じます。

平尾身体や運動は、その本質からして合理的に説明できるわけがないんです。自然科学的に解明された理想のフォームをなぞるだけで上達が可能なら誰もがアスリートになれます。でも現実にはそうではない。なぜならすべての動きには感覚が伴うからです。コツやカンをつかまないことにはイメージ通りに動くことなどできません。たとえウエイトトレーニングを積み重ねてトップアスリートのような体型になれたとしても、同じように動けるかというのは別問題です。コツやカンのような本人にしかわかりえない感覚には、数値目標は掲げられないし、外形的な基準で測定することもできない。わからないなりに身体を動かしてみるしかないんですね。「まずはやってみる」、つまり頭ではなく身体から始める。これ、本当に大切です!

三島たとえば、出版や活字の世界はどんどんしんどくなっている、というのが一般論として語られる。実際に本が売れている冊数などをグラフにして、「売り上げ下がっていますよね」「これの打開策はどうですか」と、すごく単純に話を進めていくんです。だけど、それではこぼれ落ちてしまう話というのがいっぱいある。そういう考えから出される案っていうのは、結局は、実感の伴わないものしか出てこないような気がします。
本来、言葉というのは、実感や感覚をともなわないで存在するものではない。出版は、そういう言葉を仕事にしているものなのに。

平尾ラグビーでも同じことが言えますね。ラグビーのようなゴール型の競技では、ある情況を打開するためにその策をじっくり練る時間などありません。そんなことしてたらタックルされてしまいます。だからまず動き出さなければならない。一歩を踏み出す必要がある。頭で考えている場合ではないんです。どのようなコースにどれくらいのスピードで走り込む必要があるのかがわからないままに、とにかくプレーする。そうしてとにかくプレーしながら、ひとつひとつの選択が積み重なって試合が成り立っています。その都度、実感を得ながら、それを次のプレーの判断材料にしつつ最適なプレー選択をしているんです。

三島それが合理的であるかどうかは、あとにしかわからないと思うんです。ラグビーでも、たとえばパスが繋がっていって、トライしてって、後になって最高峰で合理的な動きをしてるってわかるじゃないですか。あれを分析的に積み上げていっても、ああいう動きにはならないですよね。
同じく、見ていて面白いものとか、関わっていて面白いものは、ばっと動いてしまってからしか生まれないと思うんですね。出版の場合、面白いと感覚的に震えるものがなければ、どうしようもないんじゃないかなあと。


隙間風が吹く

平尾ラグビーって、簡単に言うと陣取りゲームなんです。相手の陣地の奥深くまでボールを運べば得点が入る。ディフェンス側は一列に並んでそれを阻止する。大まかにいえば、そのやりあいがラグビーです。アタック側はパスを繋いだり、キープしたり、自らボールを持って右に左にステップを踏みながら、あるいは正面から体当たりをしたり、ディフェンスラインを突破しようと試みるわけですけれど、現役当時の僕は相手選手の隙間を見つけてステップを踏んで躱すプレーが得意でした。いざボールがまわってきたときに、「こっち空いてるからこっち行こう」って頭で考えている、考えているうちにタックルされる。
ボール持った瞬間に判断して動き出さないと突破できない。
そのときぼくには、「隙間風が吹いている」ように感じられるんですよね。

三島それ、面白いですね。

平尾冬の寒い日なんかに、障子や扉が開いてて隙間風を感じることってあるでしょう? あれに近い感じです。吹いてきている方向に進路をとれば、抜ける(突破できる)んですよ。
「あれ、こっちちゃう?」っていうこの感覚が、大事な判断をするときのも合理的な判断基準になるんちゃうかなと思うんです。

三島うん、そうだと思います。

平尾三島さんの本(『失われた感覚を求めて』)に、直感的に城陽来て、京都市内に移ったことが書いてありましたが、そのときはたぶんそうですよね? 「隙き間風」が吹いてたんじゃないですか?

三島移ったときはそうでしたね。移るまでは、ぼく的には長かったんです。もっと早く判断できたかな、と思います。でも、動く瞬間は隙間風を感じていますね。

平尾大事なときの判断って、数字やグラフをたどって...とかではないですよね。そういう合理的なデータって、一旦どこかで身体に入ってはいるんですけど、意識の奥のほうにある。今まさに判断するときには、ぱっと浮かぶんだと思うんですね。それがまさしく直感というか。だから何も考えなくて、何も勉強しなくていいわけではない。それまでにはいろいろ考えるけれど、いざ動くときは、ただ動くしかないんですよね。

三島そうですね。

平尾スポーツの楽しさって、ぼくはそこにあると思うんです。もちろん、こういうふうに言語化できるのは動作が完了した後に振り返るからで、その瞬間ときは頭の中は真っ白なんです。言葉が浮かんでいる状態では動けませんからね。


(つづきます)

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ミシマ社編集チーム

平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退し、現在は神戸親和女子大学発達教育学部で講師を務める。共著に『合気道とラグビーを貫くもの――次世代の身体論』(朝日新書)。「SUMUFUMU LAB」でコラムを連載。

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