本屋さんと私

第17回 山陽堂さんを訪ねて(表参道 山陽堂書店さん編)

2009.11.05更新

本屋さんと私 山陽堂書店さん

現在の山陽堂書店さん

東京、表参道――。日本中の「おしゃれ」と「かっこいい」をかき集めたようなこの地に、老舗書店・山陽堂はある。待ち合わせ場所によく使われる「表参道交番」のすぐそば。表参道交差点の一角にぽつんと佇む一軒の古い建物がそれだ。外壁に描かれた谷内六朗さんのモザイク画は町のシンボルにもなっている。
知る人ぞ知る表参道一の古い建物、表参道の歴史が凝縮した場所、山陽堂書店とはそういう本屋さんなのである。

今月の「本屋さんと私」では、作家さんから見た本屋さんではなく、本屋さんから見た本屋さんの話をご紹介します。
お話は、山陽堂書店の三代目、故・万納和夫氏の妻・万納幸江さんと幸江さんの長女・遠山秀子さんにうかがいました。
今の表参道からは想像もつかないような昭和の表参道と書店の風景がそこにはありました。

今回は、そのお二人のお話の前に、「山陽堂物語」の基礎編として欠くことのできないエピソードを紹介します。

エピソード1 創業は明治24年

今から119年前。
明治24年、岡山より上京した万納孫次郎氏が、青山五丁目に店をかまえました。「山陽堂」の誕生です。名前の由来は、創業者の孫次郎氏の地元・岡山にちなんだもの。当初は、青山五丁目あたりに門をかまえていたようです。

昭和6年。
周りはといえば、平屋がほとんど、せいぜい二階建てがちらほら立つ程度。しかも、ほとんどが木造家屋だった時代。そこに突如、鉄筋3階立て、地下一階のモダンなビルが登場したのです。街行く人にとって、青山のど真ん中に、「近未来」がぽっと降って沸いたような感覚だったのではないでしょうか。
山陽堂の原型です。

ただし、当時はいまの建物の約3倍の広さがありました。
というのも、東京オリンピック前、道幅拡張にともない、3分の1の大きさに縮小することを余儀なくされたためです(詳しくはのちほど)。
いずれにせよ、昭和6年から今につづく「青山一古い建物」は、こうして生まれました。それは、流行を先取りするという後の青山のスタイルを先駆的に表現した建物でもあったのかもしれません。

本屋さんと私 山陽堂さん

1931年の山陽堂書店さん

エピソード2 山の手空襲 1945年5月25日

ふだん東京を歩いていて、戦争の跡を感じることなど少ないのではないでしょうか。
ところが、それは僕たちの無知なるせいで、実はいたるところに、戦争の記憶は宿っているのかもしれません。山陽堂さんを訪れ、そんなことを考えました。

1945年5月25日、表参道一帯が火の海と化しました。「山の手空襲」と呼ばれる四回におよぶ大規模空襲の4度目は、渋谷、赤坂などの住宅地が標的でした。
午後10時22分から約二時間にわたって爆撃はつづきます。その夜、山陽堂書店は、逃げ場を失った人たちの避難所となっていました。

青山墓地に逃げる――。それは、近辺の住人たちにとって約束事でした。ところが、急な事故、家財を守るため...などの理由でわずかの時間を逃げ遅れた人たちが出てきます。
山陽堂創業者の万納孫次郎さんの孫・清水浜子さんもその一人でした。

「表に出た途端、痛いほどの熱風に身動きできなくなった。四方から炎が迫っていた。店の前の電車通り(青山通り)を渡ることすらできない。・・・・・・染物屋だった隣家に飛び込むとすうっとした空気が体を包んだ。ホッと安堵したのもわずかな間だった。木造の店舗はすぐに炎に包まれ、バキバキと音を立てて崩れ落ちた。「ああ、死ぬんだ」。どこか冷静に受け止めながら、「死ぬなら自分の家で」という強い気持ちがわいた。熱風にあおられ、1メートル進むのにも、気が遠くなるほど時間がかかった。...細長く狭い店内には100人以上がすし詰めになっていた。「水...、水...」とうめく声が聞こえた。壁際に積んだ雑誌を踏んで二階に上がると、父と弟が、窓のすき間から入り込もうとする炎を防ごうと躍起になっていた。やはり青山墓地への避難をあきらめ、店に引き返し、逃げ遅れた人たちを受け入れたのだった」(「記憶 戦後60年・山の手空襲 上」『東京新聞』2005年5月22日付より)

翌朝、安田銀行(現みずほ銀行)前には、二階の窓まで遺体がつみ上がっていたといいます。その日の死者は約3700人にものぼります。
一夜にして東京から多くの人が消え、建物が廃墟と化した瞬間でした。
しかし、山陽堂は外壁こそ焼け落ちたものの、「鉄筋」の建物は無事でした。そして、100人もの被災者の命を救ったのでした。

今、山陽堂さんの一階に行くと、新刊書籍や雑誌がみっしり並べられています。そこからは、64年前のある日、人がすし詰めになっていたとは夢にも想像できません。
ですが、本たちに隠れて見えない壁面には、まぎれもない「そのときの」記憶が宿っているのです。

エピソード3 東京オリンピック

1964年(昭和39年)、戦後復興の象徴・東京オリンピックが開催されます。
その国家的大イベントにあたり、国は高速道路の敷設、新幹線の開通工事など、交通インフラの大改革に着手します。東京都内でも、いたるところで「道路拡張」の工事が行われます。
表参道が、現在のような片側三車線の大きな道になったのも、東京オリンピックを機にしたものでした。

当時は、現在のガードレール付近までお店や住宅が軒を連ねていたのです。山陽堂書店も例外ではありません。青山通りの両側の商店、住人たちは強制的に立ち退きを命じられました。選択肢はありません。当時、山陽堂の二代目店主をしていた万納和夫氏は、苦渋の末に、建物を切断し、三分の二を売却することを決断します。こうして現在の山陽堂は存在しているのです。骨組み自体は昭和6年のもの、そのままに。

本屋さんと私 山陽堂さん

現在の山陽堂書店さんの一階

幸江さんが、万納和夫さんのもとに嫁いでこられたのは、この工事前の1959年(昭和34年)。皇太子・皇太妃ご成婚パレードに沸いた10日後、オリンピック開催の5年前になります。

つまり、結婚して数年後には、道路拡張に伴い、建物切断工事がもちあがるわけです。そして、文字通り嵐のような生活が始まることになります。
次回は、万納幸江さんによる、1960年代山陽堂さんのリアルなお話の始まりです。
「住み込み店員の食事に追われ」――現在からは想像もつかない「本屋さんの日々」がよみがえります。

(つづく)

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

ミシマ社編集チーム

バックナンバー