本屋さんと私

尾原史和さん。1975年生まれ。高知出身。デザイン独学。『R25』『Transit』などのデザイン。SOUP Design代表。PLANCTONの挑戦。デザイン界では珍しい新卒採用・・・。次から次へと新機軸を打ち出す、今をときめくデザイナー。
そんな尾原さんの「すごさ」に迫ってみました。
ちなみに、ミシマ社では『アマチュア論。』『謎の会社、世界を変える。』などの装丁を手がけてくださいました。必ず「度肝を抜く」アイディアがデザインに盛り込まれています。
(聞き手:三島邦弘)

第21回 やれるところまでやってみよう(尾原史和さん編)

2009.12.03更新

「全員40代のデザイン事務所になったらアウト」

―― 「新人を二人採用した」と聞いて驚きました。その意図は?

本屋さんと私 尾原史和さん

尾原そうですね。デザインの業界ではあんまり新卒採用とかってないので、意義があるな、と。それと、なんというか、僕の場合、安定したシチュエーションをつくるよりは、状況的にいろいろ差があって、その中でお互いやりあっていく方が環境としてはいいかなと思うところがあります。

―― はい。

尾原メンバー全員ができる人の集まりだと、その中だけの戦いになってしまうし、その差が狭いと、細かいところにばかり気が向いてしまうんですね。そうなると、ダイナミックさがなくなってしまいますし、伸びなくなってしまう。

―― 確かに。全員が優秀だとかえって飽和状態になってしまうと。

尾原「差がある方が伸びる」ことが体感できると、それは上のスタッフにとっても刺激になりますしね。自分も頑張ろうという気持ちになります。
本当は、2年に1回ぐらい人が入れ替わっていけるような状態にしていけたらいいと思うんですよね。デザイン事務所としては、あまり人が固定してしまうのもよくないですから。やっぱり入れ替わって、どんどん変わっていかないと。

―― 新陳代謝をよくするわけですね。

尾原デザイン事務所は、全員40歳とかになったらけっこうアウトかなと思っていて。

―― そうですか。

尾原発想としてはやっぱり若い人の方が、時代に対しての感度が高いわけですから。いまうちは、平均年齢28、9歳くらいですけど、今のまま後10年いったら、単純に平均年齢30代後半になってしまいますからね。そうなったらね、それは問題だし。
だから、実はそれも含めて会社の中のルールを少し考えないといけないなと、今思っているところです。

―― 人が回転していく仕組みをつくるということですね。

尾原そう。そういう回転する状態をつくらないといけないなと。

―― ということは、5年なら5年で自分の道をつくっていくっていうことですよね。それは、デザイナーとしてはまっとうな生き方になりますよね。どこかに寄りかかった状態というのではなく。

尾原そうそう。やっぱり、事務所で働くにしても、自立して目的をもって期間を過ごすことが重要なことだから。だから、この事務所の中でお互いが得をする状態をつくれるといいなと思うんですね。
だから、そのためにも、スープ自体は一回壊す気分でいるんですね。

―― そうなんですか!?

尾原もっと緊張感があっていいと思ってます。

何かと戦ってこそデザイナー

―― 「楽しく仕事をする」ということと「緊張感をもって仕事をする」っていうことはまた別ですもんね。本当は、高いレベルであれば、ふたつを同時並行でやれると思うんですが、ややもすれば一方だけのほうへ流されていきがちですよね。

本屋さんと私 尾原史和さん

尾原そうそう。空間に重しとなる人がいなくなることによって、締まりがなくなるところがある。仕事中に雑談するのは別にいいけれど、メリハリをきちんとつけないといけない。
だから、いっそのこと、いったん規則をガチガチに決めて、こぼれるのはこぼれるので仕方がないかなと思っているくらいです。

―― そうですか。じゃぁ、いまは尾原さんからすると少しゆるいデザイン事務所という位置付けですか。

尾原ゆるいと思います。

―― それって、何が原因なんだと思います?

尾原責任感じゃないかなぁ。
社内の中で期限を決めてあげなければなかなか出てこないからね。その期限に間に合わせた上でいくつもいくつも考えるべきですが、間に合わせるだけになっていることがあったりします。やはり意識レベルが足りないと思います。

―― それは、昔からそんなもんだったんですかね。20代のデザイナーに感じることはありますか。

尾原全般的にはやっぱり「何がしたい」っていうのがないんじゃないですかね。別に戦ってなくて、その場をやりすごしているだけっていう状況のほうが圧倒的に多いと思う。

―― なるほど。

尾原何かに勝負しようとは思えてないと思う。
本当は、社会に対して自分がどういう存在なのか考えてみないといけないはずなんだけど、多分そういうことも考えてなくて、自分の身のまわりのところだけで社会ができている。
遊ぶことと仕事。切り離されてる部分もあるし、一緒になっていたとしても結局向かう先はそれ以上の輪ではない。

―― なるほど。尾原さんの場合は、アジールにいらっしゃって、1年もたたずに独立されましたよね。その当時、ある種独立はするもんだという思いはありました? 

尾原いや、もともとね、働く前から自分は会社ではやっていけないと思っていて(笑)。1人じゃないときっと無理だなと思っていましたから。

―― うんうん。

尾原多分、つくったものが直接自分に対して還元されるというか、反応がないとモチベーションとしてはもたないだろうなと。

―― なるほどね。

尾原もともと自分はそういう感じだったけれども、きっとそういう感覚がね、ないんだろうな・・・・・・。

東京で自分がどうなるかを自分で楽しもう

―― どの段階で、「デザイナーとして行く」と決められたんですか?

本屋さんと私 尾原史和さん

尾原僕ね、高知県の田舎の専門学校を卒業して、印刷会社で2年働いたんですよ。地元で2年働いて、1年くらい経ったときくらいですかね。「これでやれるところまでやってみようかな」と思ったのは。

―― へー。そのとき、最初の1年目は何をされたんですか?

尾原そこはね、印刷会社のデザイン部だったんですけど、デザイン部というよりは組版部ですよね。3人くらいで、おばあちゃんとかがいるような。
そこで、名刺とか封筒とかそういう同じものをつくってたんですけど、僕が入って、新しくつくる名刺とかは、新しくデザインしていこう、っていう状況になったというか。

―― なるほど。仕事をつくっていったわけですね。

尾原僕が主体でしたから、それに対して教えてもらう人はほとんどいない。いないっていうか、デザインに対して教えてもらう人はいなかった。

―― すごいですね。そのときは、もうDTPは主流でしたか?

尾原基本的にはMacでしたね。ただ、僕らの会社は小さかったから版下も製版も全部自分でやってましたね。

―― へー。

尾原下の階にいって、印刷機をいじくったりとか、全部自分でその流れをやっていた方でした。

―― ちゃんと色の出かたとか、調整するところまで。

尾原そうそう。それを、二十歳ぐらいでやってました。

―― その現場の体験は、やっぱりいまのデザインに活きてますか?

尾原影響していると思います。だって、勉強しなくても勝手に覚えてたからね。紙も倉庫にたくさんあって、好きな紙を好きなように印刷できましたから。どういう紙があって、どれが高いとか値段も含めて経験できたのはやっぱり相当大きいと思います。

―― デザイン部にいながらして、それはすごいですね。

尾原印刷物に対しての紙の存在ってすごく重要な役割を占めているんですね。紙を変えるだけで、既にそこに「もの感」が生まれますしね。そこら辺のことがわかるようになったので、表面的なデザインをしても全然おもしろくなくてね。

―― そうですよね。

尾原だから、画面に向かって見栄えだけつくって、後のことはわからない、っていう考え方とは大きな違いは出てると思う。

―― 紙によって色の沈み方とか全然違いますもんね。

尾原そうそう。それによって存在感が変わるわけだし。

―― なるほど。それをある種実験できたわけですね。

尾原それで、2年経って辞めたんですね。田舎でやりきったらある程度のところまでいけるのは大体想像ついたし。

―― 想像つきましたか。おもしろいな。

尾原だから、東京に出てみようかと。東京に来たらどうなるかわからないし、東京の状況もまったく見えない。どういうレベルなのかもさっぱりでした。

―― なるほど。

尾原刺激がほしかったというのもありますね。東京に出ることで、自分がどういう道を辿るのか自分で楽しみだったし、自分がどうなるかを自分で楽しもうと思っていました。


次回、「地図を片手に東京へ」、尾原さんのデザイナーとしての本質に迫ります。

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