本屋さんと私

『京都ごはん日記』いしいしんじ(河出書房新社)

 作家のいしいしんじさんが、ミシマ社京都オフィスのご近所さんらしい――
 そんな噂を耳にしたのと、『京都ごはん日記』(いしいしんじ著、河出書房新社)を手にしたのは、ほぼ同じタイミングでした。

 2014年6月末に築年数不明の一軒家に引っ越したばかりの京都オフィス一同は、周りのお店にも疎く、ご近所づきあいもまだまだこれから。そんなときに読んだ『京都ごはん日記』には、見覚えのあるお店や、ずっと気になっていた焼き鳥屋さん、おうどんやさんなどが多数登場。とっても参考にさせていただいています。

 そして京都オフィスのトリイ・アライ共々、昔からいしいさんの本を読んできたこともあり興奮がおさえられず、ぜひお話をうかがいたい......! と依頼書を直接ポストイン。ご近所のよしみでお引き受けくださったいしいさんに、深遠なる小説の世界、そして京都のお話をうかがいました。

(構成・写真:新居未希)

第133回 最前線には先は見えない(いしいしんじさん編)

2014.12.26更新


夢物語に逃げてる場合じゃなかった少年時代

―― いしいさんは幼稚園くらいの小さいころにお話を書かれていたということですが、それからは本を読むのはお好きでも、あまりお話は書かれていなかったとか。

いしいそうですねえ。でも小学校4,5年生のときとかは、プリントが配られたら全部違う名前を書いて提出したりしてました。「今日はこの名前でいこう」と。あと、テストの問題が気に食わなかったら全部問題を書き換えるとか、そういうことを(笑)。僕はすごくひねくれてたんですね。先生と日記を交換するのも「ニューヨークに行った。亀に乗っていきました。なんで住吉神社の亀が海を泳げるのかわからなかったのですが、地下を通っていったからです」とか書いて。それに先生が「良かったね」とかコメントしていたりしてね、それに次の日「なにが良かったんか書いてください」とか書いて返すっていう。

――(笑)

いしいなんだか過剰に反応していますよね。幼稚園の4,5歳の頃には普通にお話を作ってたんですけど、純粋にお話をつくって「面白いなあ」というのは、小学生のときにはもうなかった。なにがあったのかは覚えてないですけど、それまでの幼児教育の現場と、大阪の中でも一番ガラ悪いくらいの公立小学校との現場の差に、一生懸命対抗しようとしていたのか、夢物語に逃げてる場合じゃないという感じやったんかな。小・中・高と絵を描いたりはしていましたが、物語を創作するということはなかったです。
 ただ旅行に行ったら絵日記を書いていて、土産物をあげるのは嫌いだったので代わりにそれを人にコピーして渡したりしていました。それが後の旅日記などにつながるんですけどね。


読んでもらうことは、自分の言葉が成仏するということ

―― あの、自分が書いたものを、誰かが読んでいる、それも小説という創ったものを読まれているというのは、どのような感覚なのでしょうか。

いしい書いたものというのは、読まれて一周するんです。これは雑誌でも本でも同じです。どんなときでも書いてるときには他者の存在が前提なんですよ。他者がいなくても書ける人はいますけども、それはヘンリー・ダーガーとかそういう、他者と個人との関係がすこし壊れている人たちです。一般に言葉を書いて生活している人は、どれだけわがままで「読者のことなんていっさい知らん、書きたいことだけ書くんや」と言っていても、他者の存在がないと成立しないですね。書くということは、読むということと対の作業やから。
 書かれた本というものを読んでいただいて、感想をいただくというのはうれしいことで、どんなご感想でも読んでいただいたということは、自分の言葉が成仏するということです。書いただけのものは、ふわふわと浮遊しているんですよね。読まれることによって、そのふわふわしたものが落ち着くということですから。
 ただ、感想をいただくのはありがたいことやけども、書いているときに、ここをこうしたら面白いなとか、こうしたら喜ばれるやろうな、ということは一切考えないです。書いているときはその言葉が伸びていくのを見守って進んでいくだけです。変な曲がり方してるなあ、と思ってもね。

―― なるほど。

いしい書くという作業と本を送り出すという作業はまた違っていて、書くという作業が終わって本という形になったときには、今度は読者に届けるものになるんです。本をより多くの人に届けたいという気持ちは出版社の方も持ってくれているし、それを僕がお手伝いすることでさらに多くの人が読んでくれるんやったら、イベントでもサイン会でもなんでもやります。けど、それと書くというときの他者は違うんです。書くときの他者と、送り届ける読者とは違います。

―― 書くときと話すときとは、どのように違うのでしょうか?

いしい話すときの他者は、目の前にいて実在する他者でしょう。目の前にいるその人たちのために話している。けれど書くときの他者は、その人がいるから書けるという存在です。他者がいるという根拠のない信念によって支えられて書ける。その人たちのために書いているのではないんです。その人たちがいるから書ける。
 トークイベントのときなんかだと、お金もいただいているわけやし、その人たちに面白いと思っていただきたい。でも、書くときは他者がどうだということではないです。他者がいることを信じさせてもらっているというのが大きいですね。


読者のほうがよく見えている

―― 書いているときに、「こうしたら面白いやろな」とは思わないとおっしゃっていたのがすごく印象的です。最近では、「こうしたら読者は面白いと思うだろう」と意識的に作っていることが、読み手に伝わってきてしまう作品も多いような気がしていて。

いしいそのような言葉の使い方は、パズルを解くだけのようなものですよね。迷路に入って、「あ、ゴールした嬉しい」というだけのような。それだとずぶずぶとそれの中に入っていって、ここがどこだかわからない、というような体験は起こらないです。明治期の小説なんて、「日本語ってこんなんでいいのかな」という実験に読者が付き合っているんですよね。3行ごとぐらいに落とし穴に落ちたような感覚になります。それが、小説を読むということの基本なんです。
 書いてる側は、わからないから書いているんです。わかるかな、わからないかなという、それこそ「あわい」のようなところを通っています。最後も、ああやっぱりわかりませんでした、で終わるんですよ。ところがね、それで読者に読んでもらって感想を貰うじゃないですか。そのときにはじめて「あ、そういうことやったんや!」って思うんです。そればっかりです。

―― 「わからへん」を辿っていって、結果ここまで来たけど、わからへんかった。

いしいたとえて言えば、道のない黒々とした山が続いている、そこに鎌を1本だけ持って「よし行くぞ」と自分で決めて進んでいくようなもんです。どんどん進みながら、あ、こんなんあった! お、ずるっとこけた! サクサク進むけどなんか悪い予感する...、あ! 沼地や! 入ってしもた! みたいなものをたくさん越えて、ふと気づいたらてっぺんに来ていて、見下ろしたときに「あ、こんなふうに辿ってきたんや」とわかる。それが書くということです。他者の存在というのはその山です。山があるから進めるんです。
 本を読むということは、その作った道を辿っていくことなんですね。本があるので、読者は「ひとまず道は最後まであるんやな」ということはわかってる。一緒にこけたり沼地にはまったりもするんですけど、書き手と大きく違うのは、読者はちゃんと先を見ながら歩いているということです。書いている人よりも読者のほうが、小説がよく見えてるんですよ。だからほんまに教えられることばっかり。書いてる側はわからないんです。最前線には先は見えないんですよね。


小説は、一番お手軽な合法ドラッグ

―― よく国語のテストで「このときの主人公はどういう気持ちでしょう」という問題がありますが、お話を伺っていて、それはどの答えも全部答えだなあと思いました。山の登り方は、ひとによって違いますし......。

いしい自分の書いた文章がテストになるということがあるんですけど、僕もやってみたら全間違いでしたよ。惨憺たるものでした。おっしゃるとおり、どの選択肢も全部答えなんちゃうかなあと思います。そのときはすごい怒ってても、後で気づいたらあれは照れてたんやなあ、っていうこともあるじゃないですか。だから試験にするということも、ある意味感想ですよね。
 本をパラパラッと見ているだけなら、鴨川を見て橋の上から「綺麗やな」と思ってるだけです。読むということは、鴨川の中に入っていくこと。たとえば谷崎潤一郎の作品なら、気づいたらぶくぶく溺れていたりする。水の中で呼吸していても不思議だなあと思わず水の中の生き物を見ているという、そういう経験のことを小説と言うんやと思うんですよ。その感想を読者の方から別の言葉で聞かせてもらえると、僕も書かれた小説の深さのようなものを知れて、ホッとしますね。

―― 最近は小説が売れなくなっている、と各所でよく目にします。どうしたらいろんな人に、その鴨川の中に入っていくような小説の面白さを伝えられるんだろうかと、小説に生かされてきた身として、切々と感じているのですが......。

いしい小説は、一番お手軽な合法ドラッグですからね。たとえば「我輩は猫である。名前はまだない」というのは、誰も「猫はしゃべらへんし!」なんて突っ込まへんでしょう。みんな猫がしゃべってると思ってるんですよ。おかしいでしょう、ええ大人が。簡単に、その境界線をピッと越えられるんです。こんな気軽なもんなかなかないですよ。持ち運びもできるし、場所も選ばへんしね。


読書は、ものすごく能動的な創作活動

―― 私は中学生のころにはじめていしいさんの小説に出会ったのですが、それ以来節々で読み返してきました。そして読むたびに、まったくちがうところが気になるし、感じ方がちがうんです。それはどの小説もそうかもしれませんが、いしいさんの小説はとくにそれが強い気がして。

いしいいくつのときに読むかで感じ方が変わるというのはよく言われますね。
 たとえば「朝、窓を開けたら青い馬がいた」という文章があるとします。「朝」「窓」「青い」「馬」この4つは、読む人によって全部違うでしょう。朝の気配、青さ、窓の形、馬の様子......。それはその人がこれまでに持っている記憶や印象や経験が、全部出てくるんです。夢や無意識が全部ぶわっと集まって、それを組み合わせてその人がその瞬間に創作してる。凄いことです。たとえば「青」だったら、中3のときと大人になってからは、イメージが違うんですよ。それは、その人が経験した青の情報がどんどん溜まっていくからです。だから読書っていうのは、ものすごく能動的な創作活動なんですよね。

―― 小説を読むとき、私たち読者は小説を創作しているんですね。

いしいそうですね。書き手の僕らが提出するのはあくまで山の地図で、歩くのは読者です。その山の形も葉の匂いも一人一人違う。読者は、その旅をつくるんです。

―― 旅をつくる......。今日、改めて小説っていいなあと沁沁感じました。


   

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