本屋さんと私

『みんな彗星を見ていた』星野博美著(文藝春秋)

 毎年末にミシマ社メンバーにより開催される「今年の一冊」。昨年末に行われた座談会にて、ホシノが選んだ一冊が星野博美さんの『みんな彗星を見ていた』でした。本書の魅力を語るあまりの熱弁に、メンバーの投票で決めた「座談会大賞」にも選出されたのでした。

 『コンニャク屋漂流記』では「星野」の先祖のルーツ探しをされ、同じ苗字をもつ者として、以前からいつか一度お目にかかってみたいと思っていた、星野博美さん。その機会は今なのでは! ということで、思い切って、インタビューのお願いをさせていただきました。

 2001年に『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されて以来、数多の名作を生み出されてきた星野さんに、『みんな彗星を見ていた』のこと、書くこと、読むこと、たくさんのお話をうかがってきました。全3回でお届けします。

(構成:星野友里 構成補助・写真:寺町六花)

第171回 みんな見間違えているので言いたい、という気持ち

2016.03.09更新

本はあまり好きじゃないんです

―― 小さい頃、本は読まれましたか?

星野いえ、大嫌いでしたね。絵本の読み聞かせを聞くのは好きだったけれど、小学校に上がってからは国語ぎらいでした。小学生向けの外国文学も一切読んでいません。図書館は今も嫌いで、この本を書くにあたって仕方なく行っていたなという感じです。「これ」というテーマが決まってればそのコーナーだけ行って借りたりはしますけれど、何か出会いを求めて図書館に行くことはほとんどないですね。とにかく本はあまり好きじゃないので(笑)、本屋もあまり回数は行かないですね。影響を受けた本も...。考え込むくらいないですね。高校生の頃に寺山修司が好きだったくらいです。

―― なるほど。星野さん独特の文体があると思うのですが、それは本を読むことによってできたものではないのですね。

星野どういう文章を学んだのかよく聞かれるんですけれど、書いて学んだんだと思います。とくに男の人が書く旅ものは読まないです。そこの異文化を知りたいのではなくて、結局「異文化の中にいる俺ってかっこいいだろ?」という主張をしたいだけの旅行記が多いので、苦手なんです。
 旅行記は読みませんが、学術書は新聞という感覚で読みます。本という感覚では読んでいないですね。神父たちについて書かれた文献も、私にとってはそれは情報源として、新聞だと思って読んでいるんです。
 書評関係の人たちの集まりに行くと、みんな小さい頃から本が大好きな人たちばかりだから、「本当にすみません」という気持ちになります(笑)。昔から、図書室に行くような優等生っぽい行為が好きでなかったんです。たぶん、いまだに何かに反抗しているんでしょうね。


よく見ているものの中にある見えていないもの

―― 本が好きでない星野さんが、それでも本を書いていらっしゃるモチベーションは、どういったところにありますか?


星野どういうところですかね...。昔中国に行ったときに思ったのですが、中国や香港に関した本で、「これはいい、参りました」と思うものが他にあればそれでよかったんですよ。でも当時そういうものはなくて、自分が行ってみたらすごく面白いところだったので、「これはじゃあ伝えたいな」というその程度の動機でした。

 香港返還のときは、「これは世界中のどこでも起きるようなことではないので書かなければいけないな」というもう少し強い動機がありましたけれどね。でも基本的には、「なんでこんなに多く人が来ているのに、誰も香港のことわかっていないの?」という思いですよね。もしみんなが香港のことをすごくわかっているならそれ以上私は言う必要はないんですけど、みんな見間違えているので言いたい、という気持ちです。

 キリシタンの時代についても、フェアな見方がある程度共有されているなら黙っていてもいいんですけれど、だいぶ違うから書かないとな、という程度の動機です。別に、「本を、書こう!」みたいな気負いはないんです。時によって場所やテーマは変わったりしますが、基本的に同じようなことを書いているんだと思います。「私たちがよく見ているものの中に全然よく見えていないことがあって、それに気づいたんですけどどうでしょうか?」ということを提示したいです。

―― 逆に本好きの人には、見えているつもりで見えていないこともあるのかもしれないと、自戒をこめて思います。

星野本好きの人って、たぶん頭がいいんですよ。わかった気になっちゃうというのかな。私は頭がよくないので、いちど読んでも頭に入ってこないから、本当に読んだという実感が持てるようになるまで何度も何度も読みます。それでもわからないから、現地へ行く。それが基本の行動パターンです。

 いってみたら1冊の本を理解するために、もう10冊が必要なんです。「この人の名前どこで見たな」といって探すことの繰り返しで、本当に神経衰弱のような作業でした。最初は外国人たちの名前がみんな同じように思えてしまって、判別できるようになるまでけっこう時間がかかりました。少し判別できるようになると、「あれっ、この人がこんなところにも出てきている」という気づきが出てくるのでおもしろくなりました。あんまり頭がいいと、理解した気になるのがよくないかもしれないですね。頭がよくなったことがないので、想像もつきませんが。


書き終えた今でも発見がある

星野書き上げた今でも、キリシタンに関する文献や彼らが残した手紙は繰り返し読んでいますよ。「あれっ、すっごい大事なこと書いてある!」といまさら気づいたもします。やっぱりその時の自分によって発見できることや発見できないことあるがあるんですよね。
 ドン・ロドリゴの文献については、『コンニャク屋漂流記』でも読んでいたはずなのに、そのときは彼の意味について理解していなかったんですよね。いまスペイン語を学んでいる理由のひとつに、そうした文献を原語で読みたいという気持ちがあるんです。日本語に訳されているものは本当に限れられているので。

―― 星野さんのこれまでの作品を拝読してきて、すべてがつながっている壮大な物語を書こうとされているのかなと感じます。現代というこの時代に生まれた一人の人間が、歴史という縦軸と、世界という横軸と、どうつながっているのかについての、大きな絵を描こうとされているイメージがあります。

星野それはかなりかっこよく言っていただいていますが、確かにそういうことをしている気がしています。私は「抱き合わせ商法」って呼んでいるんですけど、はじめて『みんな彗星を見ていた』を読む人は、必ず『島へ免許を取りに行く』や『コンニャク屋漂流記』や『転がる香港に苔は生えない』など、他の本も読まなきゃいけないようになっています(笑)全作、何度も読み返してほしいです。すべてがどこかでつながっていますので。

―― 合わせて読んだほうが、絶対におもしろいです。今日は本当にありがとうございました。


   

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