本屋さんと私

 日本のピアノ学習者で知らないものはいない、というほどの知名度を誇るピアノ教則本「バイエル」。幼稚園や小学校の先生の募集要項などでは、ピアノをどのくらい弾けるかのひとつの基準にすらなっています。しかし、この教則本を作ったフェルディナント・バイエルという人物は、長年謎に包まれていました。その人を追い、この教則本「バイエル」がなぜここまで日本に普及したのかを追った本書は、その名も『バイエルの謎』。ミシマ社でもお世話になっている最相葉月さんの解説も絶品です! 著者の安田寛先生に、本のことに音楽のこと、そして本屋さんについてを伺いました!

(構成、写真:田渕洋二郎)

第177回 就職したのは30歳です。

2016.05.04更新

―― 当時、声楽で音楽大学に入られたのは珍しいですよね。

安田そうですね、もう本当に勉強しなかったんです。ただ合唱をやっていて、声はいいってことは自分でわかっていたので、3年生の9月に「音大行きたいんですけど」って先生に言ったら「半年で入れるわけないだろうって...」怒られました。でも時代もあって、声楽科を受ける男は人数もそんなにいなかったからそれで入れたんですね。

―― おお、そうだったんですか...。

安田でも入ったら入ったで、ふらふらしてましたね。もちろん就職できるはずもなく、ドイツに留学したかったので、給費留学生を受けたりして、26歳〜29歳くらいは、ふらふらしてました。その頃は、アルバイトで夜警の仕事とかしながら、とにかく本を読んでましたね。ぎりぎり食える状態でしたけど、マルクスの本なんかも原著にチャレンジしたりして、楽しかったですよ。ああいうのは若いころしかできないから。

 でも、そうこうしているうちに親父ががんになって、故郷の山口に帰ったんです。そうしたらそこで先生が一人必要だというので、一応教員免許ももってましたから、初めて就職したんです。だから就職したのは、30ですね。

―― なるほど。そこから本格的に研究の道に入られたと...。

安田そうそう。でも研究するにも、やっぱりふらふらしてたときの蓄積が後で活きるんですよね。無駄というのはないです。一応教鞭もとっていたんですけど、退職した今だから言えますが、教授をやっていてもほとんど教えない先生でした(笑)。飲みたくない馬を水場に連れてっても飲まないのと一緒で、その人がその気になってないときに、教えたって意味はないですからね。


当時の彼女に影響されて...。

―― 読まれてきた本で他に印象に残った本はありますか?

安田大学のときにつきあっていた彼女が文学少女だったんで、けっこう影響されました。ボーヴォワールとか、フランソワ・サガンとか。
 高校時代に文芸部にいるようなやつは嫌いだったけど、彼女が文学好きだってなったら。それは読みますよね。

―― わかります(笑)。

『ミラノ 霧の風景』須賀敦子(白水Uブックス)

安田あと、絶対に自分で書けない文体だから憧れているのは、須賀敦子さん。デビュー作の『ミラノ 霧の風景』で講談社エッセイ賞した方です。彼女の文章は文体から、リズムから語彙の選び方から、どこをとっても100点満点ですね。本当にお手本のような日本語です。

 ミシマ社の「コーヒーと一冊」シリーズも好きですね。『バイエルの謎』の解説を書いてくださった最相葉月さんの『辛口サイショーの人生案内』も楽しく読ませていただきました。


小さな出版社、小さな本屋さんが好き

―― ありがとうございます。先生の好きな本屋さんなどはありますか?

安田そうですね。京都に仕事場があるので、京都の本屋さんはよく回りますね。恵文社とか、市内の小さい古本屋さんも好きです。この前初めて行ったんですけど、レティシア書房さんもいいですね。アメリカのフォークの凝った選曲なんかされていておもしろかったです。あとは、三月書房さんとかですかね。文章を書くとき、自分の脳みそを刺激するために回ったりします。

『井田真木子 著作撰集』井田真木子(白水Uブックス)


 こういうところだと、井田真木子さんの本なんかも目立つところにあって嬉しくてね。彼女は、僕の最初に出した本『唱歌と十字架』の書評をしてくださったんですよ。でも若くして亡くなってしまって忘れさられてしまいそうだったんだけど、彼女の著作選集なんかが大きく取り上げられてて嬉しかったですね。

―― 先日はミシマ社の本屋さんにもいらっしゃっていただきありがとうございました。

安田そうそう。あそこもよかった。畳が気持ち良くて、ほんとにいつまででもいられますよね。ぼくね、小さな出版社が好きなんです。なんか密かに、反体制的なところがあって。私たちの時代で「反体制」っていうと、声を荒げて暴力的なイメージになってしまうんですけど、彼らはそんな感じがしないのがいい。肩肘張らずに、自然にひょいとやってのける。そこがすごいなあって思うんです。

―― 言われてみればそうですね...。

安田阿部謹也さんが『「世間」とはなにか』という本のなかに書いてらっしゃいますけど、日本を牛耳ってるのは国でも政府でもなく、「世間」の論理なんですよね。小さい出版社はあんまり世間を気にしていないというか、振り回されてない気がします。そういうところが好きで、こっそり熱く応援しています。


   

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安田寛(やすだ・ひろし)

1948(昭和23)年山口県生れ。1974年国立音楽大学大学院音楽研究科音楽美学修士課程修了。2001(平成13)年奈良教育大学教授。2013年定年退官し現在同大学名誉教授。2001年放送文化基金賞番組部門個別分野「音響効果賞」、2005年社団法人日本童謡協会日本童謡賞・特別賞受賞。主な著書に『唱歌と十字架 明治音楽事始め』『日韓唱歌の源流 すると彼らは新しい歌をうたった』などがある。

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