インタビュー・ミシマガ「人」

24時間いつでも自殺志願者からの無料相談電話を受けつけている住職がいる。千葉県成田市にある曹洞宗の寺「長寿院」の、篠原鋭一氏(66)だ。

1995年より「自殺志願者の最後の防波堤」となった彼は、相談電話、面会、講演会などの活動により、15年間で約6千人の自殺志願者を救済した。

昨年5月に出版した『もしもし、生きてていいですか?』には、生きることに迷い、苦しみ、疲れた人々のさまざまなエピソードと、宗教者としての立場から「生」への強いメッセージがしたためられている。

住職自身も42歳のときにくも膜下出血で倒れ、後遺症に苦しみ、入院先の屋上から身を投げようとしたことが二度もある。思いとどまったのは家族と友人の支えがあったから。だからこそ、住職の「あなたはひとりではないのです」という言葉は、ストレートに心に響く。

その住職が、「自殺防止」というライフワークと同じくらい真剣に取り組んでいることがある。他国への「教育支援」だ。そこに目を向けたきっかけは何か? なぜ他国なのか? そして教育の必然性とは? 
2つのライフワークに奔走する住職の熱き想いを聞いた。

(取材・文:堀 香織 写真:永田理恵/『女性自身』編集部)

第22回 長寿院・篠原鋭一さん―自殺防止と教育支援、2つのライフワークに命を懸けて(前編)

2011.02.21更新

 1979年、篠原はカンボジアとタイ国境にあるカオイダンキャンプにいた。同年1月のポル・ポト政権の崩壊により、カンボジア国内での内戦は激化。その前後から虐殺を逃れたカンボジア国民は、地雷原やポル・ポト派兵士による攻撃・暴漢などに遭う危険を冒し、陸続きのタイ国境を目指し始めた。ニュースを聞いた曹洞宗の若き住職たち数人は、急遽ボランティア団体を結成、キャンプを訪れた。

 79年ですからもう30年以上も前のことになります。私は「曹洞宗東南アジア難民救済会議」のメンバーのひとりとして、カオイダンキャンプに駆けつけました。

©永田理恵/『女性自身』編集部

 曹洞宗の住職たちがなぜカンボジア難民の救済に立ち上がったのか。それは仏教国であるカンボジアの危機に居ても立ってもいられなかったから。そしてもうひとつ、私たち日本人はカンボジアに"恩返し"をしなくてはならない立場であったからです。

 日本が1945年に敗戦を迎えたとき、アジア諸国は日本に賠償責任を問うてきました。その際、カンボジアの当時の国王であったシアヌーク国王は「ここまですべてを失った国に何を請求できるだろう」と日本に賠償責任を求めなかったのです。
「戦争は終わった。ノーサイドだ」という考え方、つまり勝者敗者ではなく、同じ地球上の人間としてこれから平和な道を歩むためにはどうしたらいいだろうか、という考えをシアヌーク国王は示しました。しかも「日本は被爆国である」と擁護までした。その声明を受けて、スリランカの首相も「私たちも賠償請求をしない」と続きました。
 つまり、このような崇高な姿勢に救われた私たち日本人が、やっと彼らに対して恩返しできる日がやってきたのです。

 カンボジアは気質の穏やかな民が農耕を営む、たいへんに平和な国でした。しかしそれがポル・ポト政権によって無惨に破壊されてしまった。虐殺された人の数は100万とも200万とも言われています。私自身もその現場に行ったのですが、あちらこちらの道端に黒い油が浮いていた。あとで殺された人の油だとわかりました。その光景はいまも忘れられません。

 さて私たちがカオイダンキャンプに入ったとき、働き盛りの男性はまったくおらず、多くは女性と子どもと老人でした。もちろん教師や僧侶や政治家など、社会を物質的にも精神的にもリードしていく「知識人」と呼ばれる人たちは、残念ながらひとりも残っていませんでした。
 そのキャンプには世界各地からNGO、NPO、ボランティア団体が来て、医療支援と食料支援は充分行われていました。しかし、「教育」は壊滅していた。母国の文字や言葉を読み書きできること、そして計算ができること、日本で言うところの「読み書きそろばん」という最低限の基礎教育がなければ、人は生きていけません。
 それで私たちは残る教育支援に目を向け、キャンプのなかに学校をつくろうと動き始めたのです。

 学校に必要なのは、教師と教科書である。篠原たちはまず「母国語の読み書きができる教育」を目指し、カンボジアの母国語であるクメール語で書かれた本を教科書にしようとした。しかし、命からがら国境を目指した難民たちが本や辞書など持っているはずもなかった。

 私たちは、護衛と南方仏教の僧侶に隣に乗ってもらい、タイ軍のトラックで国境線上にある寺を訪ね、クメール語で書かれた本を集めました。
 あちらこちらでゲリラが応戦し、弾薬が飛ぶわ、地雷は破裂するわ、変な話だけど立ち小便もできないような(笑)、そんな危険な日々のなか、肝心のクメール語の本は3日に一冊見つかればいいほうでした。

©永田理恵/『女性自身』編集部

 それでもなんとか集めた貴重な本をキャンプに持ち帰り、次は教師探しを開始しました。もちろん知識人はキャンプにはひとりもいませんから、ほんの高校生くらいの若者に「これを読めるか?」と本を見せ、読めるという若者には即席の教師になってもらったのです。
 また、謄写版(ガリ版)を一台日本から持ち込んで、若者たちに使い方を教え、本を複写して教科書もつくりました。こうして難民キャンプの子どもたちに対する「授業」が始まったのです。

 あとは、日本全国から必要のなくなった絵本を集め、クメール語訳を手貼りし、図書館もつくりました。ベニアで囲っただけの、床は土という簡易図書館に、子どもたちは毎日何時間も入り浸って、むさぼるように絵本を読んでいました。その姿を見て、「学ぶということは人間にとって本当に必要不可欠なことなのだ」とあらためて確信しました。
 私たちもそのような子どもたちの希望に応えるべく、新しい教科書や図書館用の本をと、日本で中学生レベルの童話や本などを集めて、クメール語訳を手貼りし、何度もキャンプに持参しました。

 「曹洞宗東南アジア難民救済会議」は、その後「曹洞宗国際ボランティア会」と名称を変え、現在はSVA(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)として、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー、アフガニスタンに対して教育支援を行っている。また篠原自身は1994年、カンボジア国王より小学校建設活動に対して「国家建設功労賞」を受賞している。

 私たちが最初の世代とすると、現在のスタッフは4世代目です。各国に事務所があって、現地の人たちもボランティア活動のスタッフとして働いている。全部あわせると600人ほどの大きな団体に成長し、国内外で活躍しています。

 カンボジアに話を戻すと、1991年に内戦が終結、93年には国連監視の下で民主選挙が実施されました。同年、カオイダンキャンプが閉鎖、33万人の難民たちがカンボジアに戻ることとなり、今度はカンボジア国内に学校を作るボランティア活動が進められました。
 当時、学校は兵隊たちの倉庫や豚小屋になっていました。私たちは日本の方々に支援をお願いして、まずは道路事情のいいところから小学校をつくりました。教室を5つ、職員室、図書館、そしてくみ上げ式の井戸がワンセットです。これまでに建てた学校は、160校くらいあるのではないでしょうか。

 いずれにしろ、30代半ばから50歳まで、そういう環境に身を投ずることができたことは、自分自身の世界観を広げる、ありがたい好機だったと思います。教育支援をさせていただいているつもりだったけれども、結果的には私たちが教育された。これは本当に素晴らしい経験でした。

 篠原は「本質をきちんと見つめないといけない。そうでないと、ボランティア活動すら、やはり人事に終わってしまう可能性がある」と言う。

 海外への教育支援で学んだことはいくつかありますが、やはり「貧困」というテーマは人間にとってとても大きいと思います。貧困ゆえにさまざまな苦悩が次々に襲ってくる、という事実は、はっきりと学びました。

 以前、ネパールの山岳地帯に小学校を建てたことがあります。
 そのとき私たちは子どもたちの父兄に「賃金を出すから小学校建設を手伝ってほしい」と申し出ました。
 その仕事当日、SVAの責任者が集まった父兄にその日の分の賃金を渡し、自分は街に出て材料を買い出しに行き、午後に現場に戻ってきたところ、そこには誰もいませんでした。怒った責任者が父兄たちを探し出して、「なぜ働かないんだ?」と言い募ると、彼らは声を揃えて言いました。「私たちにもやらなきゃいけない仕事がある」と・・・。
 さらに、その学校が完成したとき、あるシューズメーカーの代表取締役が素足の子どもたちにジョギングシューズをプレゼントしてくださったんです。子どもたちに配ったら、もう大喜び。でも翌日になって履いている子どもはひとりもいない。ビックリして「靴はどうしたんだ?」と訊ねると、「お父さんが昨日街に売りに行った」と言う。

 実に笑えない話です。しかし、誰がこの父兄たちや父親たちをひどいと言えるでしょう。貧困というのはそういう面を持ち合わせているのです。

 もっと悲惨な例もあります。
 中国や、タイのバンコク、ラオスのゴールデンなどで子どもたちが人身売買されている事実がある。とんでもない話です。でもそこにも貧困というのがすごく大きく横たわっている。
 たとえば「バンコクの宝石工場で働かないか。三食保証、給料も出るから両親には仕送りができる」と言われれば、貧しい子どもにとっては夢のような話。書類を見せられてももちろん読めない。「ここにサインしろ」と言われ、「文字が書けない」と言えば、「私がキミの手を握ってサインを書いてあげるから大丈夫だ」とサインさせられる。しかし肝心の書面の内容はというと、「私自身を三万円で売ります」というもの。そうやって貧しい子どもたちは売春や臓器売買の対象となるのです。
 それはまさしく、「教育」の欠如という現実が招いた悲劇なのです。

 篠原自身、子どものころは貧しかった。彼が自身の成長のなかで感じた、教育の原点とは?

 私は1944年、兵庫県豊岡市に生まれました。
 寺の子でしたが、あまりにも貧しい寺だったので、父は数学の教師をしていました。そして太平洋戦争から帰ってきてすぐ亡くなりました。私はまだ3歳で、母はこのままではとても子どもを育てられないと悲観し、一度は私を背負って川に飛び込もうとしたそうです。しかし周りの人に助けられ、生き直すことにしました。

 その後、4歳か5歳で別の寺に弟子入りすることになりました。そして高校卒業までその寺の師匠に厳しく僧侶の道を教えていただきました。
 しかし、学校から帰るとお寺の修行という日々なので、思春期のころはもちろん辛く、「友達は毎日遊んでいるのに、なんでオレだけこんな生活なんだ」と思っていました。毎日逃げ出そうと思いながらも逃げ出さなかったのは、高校時代の友人たちのおかげです。

 近所の人たちの存在も大きかった。
 その寺は山間の中腹にあり、階段だけでも500段ありました。禅寺だったから肉も卵も御法度です。でも運動会の日の朝に、近所で農家を営んでいるおばあさんがその階段を上ってきて、私を木の陰につれていき、目の前で生卵を割って「今日、走るんだろう。飲んでけ」と言ったのです。忘れられない思い出です。
 昔の日本はそうやって地域の人みんなで子どもたちを育てていました。みんなで育てよう、みんなで伸ばそう、という、村社会の良さがあったのです。いまの日本にはそのような良さ、関係性が失われてきている気がします。これはとても残念なことではないでしょうか。

「教育支援」とは何か・・・? そうですね、教育支援の本質的なテーマというのは、「いかに貧困から抜け出すか」だと思います。
 教育がなされていれば、目の前のビジネスチャンスをつかむことができる。なされていなければチャンスをつかむどころか、もっと恐ろしい社会に身を埋没させる怖れが出てくる。
 貧困からの解放には教育が必要だし、自分自身の人生を生き抜くための手段としては教育は欠かせない。そういうことを私は海外でのボランティア活動を通して学ばせていただいたと感じています。(文中敬称略)

来週の篠原鋭一住職インタビュー後編では、氏が取り組む、アジア各国から来た留学生たちへの教育支援についてご紹介します。

©永田理恵/『女性自身』編集部

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篠原鋭一(しのはら・えいいち)

千葉県成田市名古屋 曹洞宗「長寿院」住職。1944年兵庫県豊岡市生まれ。駒沢大学仏教学部卒業。曹洞宗人権啓発相談員、同宗千葉県宗務所所長を歴任。「できることからボランティア会」代表。生きることをテーマとした全国での講演も多数。現在NPO法人「自殺防止ネットワーク風」理事長。著書に『みんなで読んでほしい本当の話』(興山舍)、『もしもし、生きてていいですか?』(ワニブックス)など。
長寿院 
電話:0476-96-2204/HP

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