いささか私的すぎる取材後記

第3回 長嶋からの電話を待つ午後

2013.05.08更新

第3回 長嶋からの電話を待つ午後


 時代が昭和から平成へと移った直後の1989年2月、詩人・ねじめ正一は長嶋茂雄邸に電話を掛けた。

プルルルルル・・・。

 ・・・ドキドキしていた。出るかな。出てくれるかな。出たらなんて話せばいいんだろう。二度目までは不在だったけど、粘った。三度目、あの声が聞こえた。

「もしもーし、長嶋です」

 5月5日、長嶋が松井秀喜と共に国民栄誉賞を受賞した。われら報知新聞にとっては、言わずもがな十年に一度あるやなしやのビッグイベントである。当然のように関連取材に奔走した私は、当然のようにねじめ正一に会いに行った。
 なぜか。ねじめ以上に長嶋を語るにふさわしい長嶋ファンなどいないと思ったからだ。小学四年生だった1958年、デビュー戦で金田から四打席連続三振を喫した長嶋をバックネット裏から目撃し、十冊もの長嶋本を著し、2001年の監督勇退試合のプレーボール直前に監督室を訪ねた男など、他に存在しないのだから。

 ねじめに話を聞くのは三度目。会う度に私は、中学校時代に国語の教科書で読んだ「六月の蠅取り紙」という短編の話を、つい本人にしてしまう。直木賞を受賞する自伝的小説「高円寺純情商店街」所収の物語なのだが「あれ、ボクが好きになった最初の小説なんです」「やっぱりあれ好きなんですよねー」などと伝える度に、ねじめはちょっと恥ずかしいような、嬉しいような顔で恐縮する。

 長嶋の話をするねじめの顔も、やはり嬉しそうな表情には違いないのだが、いつもとどこか違う。目がマジなのだ。

「人生最高の宝物は長嶋茂雄に出会えたこと。詩や小説や、ある意味では家族よりも大切な存在と言えるのかも知れないね」

 長嶋をめぐる秘話は尽きなかったが、とりわけ心に残ったのは冒頭の電話の話。当時、草野球チーム「ファウルズ」を率いていたねじめは、とんでもないことを思いついてしまう。「レロン・リーの引退試合を俺達の手で東京ドームでやろう」。リーはロッテで活躍し、歴代最高の生涯打率・320を残した助っ人だったが、なぜかファンに別れを告げる機会すらなく日本を去っていた。これはおかしいのではないか。いち野球ファンは、妄想のあまり行動に走る。そして勢い余って、さらなる夢想を始めてしまう。

「長嶋さん、来てくれないかな」。
頼んでみようかな・・・。去年、NHKの対談で一度会っただけだけどさ・・・。

 電話に出た長嶋は言った。

「あー。ねじめ先生。どーもどーも」
「なっ、長嶋さんっ。じっ実は、かくかくしかじかで・・・」
「なるほどー。ちょっとスケジュールを聞いてみますので待っていてください。こちらから電話を掛けさせていただきますね」

 ねじめは待った。電話の目の前で待ち続けた。長嶋茂雄からの電話を待つ冬の午後。詩人は、それだけで幸福だった。数時間後、手元の電話が鳴った。

「あー。ねじめ先生、長嶋です。大丈夫でした。リーの引退試合、行かせていただきますよっ」

 89年4月1日。なぜかランディ・バースまで駆けつけた夢の一日。リーにとってはもちろん、ねじめにとって忘れられない日になった。義理も責任も、報酬も当然ない長嶋が試合終了までいてくれたこと。レフトからノーバウンドでバックホームした選手を
「いや~いいプレーだ~。すごいね~」と称え、拍手を送ってくれたこと。

 2013年5月5日。超プラチナチケットをゲットできず、自宅でのテレビ観戦を余儀なくされたねじめは、栄光の背番号3を背負って打席に入る長嶋を見ていた。そして思い出していた。25年前、あの東京ドームに長嶋と一緒にいたことを。いつだったか、長嶋は詩人に対して詩のようなことを言ったことがある。

「ねじめ先生、ベースボールはポエムですよ。フラフラッと上がった打球がヒットになるバッターは、ポエムのあるバッターなんです」。

 憧れ、追い掛け続けて55年目の春。始球式で見せた長嶋のフルスイングは、1958年の開幕戦でのフルスイングと同じように、ねじめの胸を打った。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

透明の棋士

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