いささか私的すぎる取材後記

第4回 「もうひとつの時間」への飛行

2013.05.22更新

第4回 「もうひとつの時間」への飛行

 アラスカを舞台に生きた写真家・星野道夫(1952~96)が生前、繰り返し語り、繰り返し書いたことに「もうひとつの時間」という概念がある。
 星野は中学生のころ、電車に揺られているとき、人込みの雑踏にもまれているとき、なぜか北海道にいるヒグマのことを考えていた。
 今、自分が東京で生きているのと同じ瞬間、北海道の原野では確実にヒグマが生き、倒木を乗り越えながら力強く歩んでいる。自然とは、世界とは、なんて広くて深くて面白いのだろうと。そんな当たり前なことの不思議さを、彼は思い続けた。そして伝え続けた。
 彼の仕事は、ベーリング海の灰色の空を舞うザトウクジラの写真も、星灯りの雪原を走るオオカミについての文章も、極端に言えば「もうひとつの時間」の存在を人々に伝えるためにあった。

 高校生のころに星野の写真や文章と出会って以来、私は何かに付け「もうひとつの時間」について思うようになった。
 今こうして原稿を書いている瞬間も、ふと思い描いてしまうのはヒマラヤ・エベレストの8000メートル付近の氷壁に取り付いている1人の男のことである。
 風の中にいる登攀者は、アイゼンの刃を氷面に効かせ、滑落の危険を慎重に削ぎながら前進している。一歩ずつ、しかし確実に。
 東京は気温20度を超え、私はポロシャツの軽装だが、彼は氷点下20度の世界を総重量20キロに及ぶ装備を背負って歩んでいる。無数のクレバスが口を開けるアイスフォールを幅30センチほどの梯子で渡り終えたかと思えば、標高の上昇に伴い、空気中の酸素濃度は平地の2分の1から3分の1程度に減少し始めている。
 男は80歳。もうすぐ世界最高齢で世界最高峰の頂に立つところだ。


 3月下旬、カトマンズに旅立つ直前の冒険家・三浦雄一郎に話を聞いた。

「エベレストを登ってる時ってどんな気分なんですか?」
 私の小学生みたいな質問に、伝説のプロスキーヤーは
「そうですねえ・・・そうだなあ・・・」と真摯に考えながら答えてくれた。

「岩壁や氷壁を登っているときは、宇宙に向かって歩き続ける旅しているような感覚なんですよね。今は不安はありません。大きな旅に出る楽しみばかりが胸の中にあります。
 もちろん、はたして80歳で登れるのだろうかという好奇心はあります。でも、還暦の時は『3回目のハタチ』と言っていたので、今回は『4回目のハタチ』として行ければと思っています」

 含羞、という言葉がこんなに似合う表情はない。
 三浦はいつもテレているように見える。少年のようにクリクリとした瞳の下にある頬を、常に赤らめているような印象なのだ。自ら歩んできた足跡について過分に胸を張るようなところも、冒険という単語に気負うところもない。
 なんだか「冒険なんて言ってさ・・・、旅をさせてもらっちゃってね・・・」みたいな感じ。
 それでも、夢を語ることには真っすぐで衒いがない。

「青春を取り戻します。夢と希望に燃えていますよ。夢が力を与えてくれる。人間は生きている限り可能性がある。人生はいつだって可能性からスタートさせればいい」

 ふつうの人なら胡散臭く感じる言葉も、三浦の場合はストレートな響きを持つ。

「猿は冒険をして、人間になったんだから」

 私が今思い描いている映像の中には、頂上直下にある垂壁ヒラリーステップがそびえる。三浦が地図でエベレストの登攀ルートを説明してくれているとき、強調していた最後の難所だ。

「我々も(エベレストに世界初登頂を果たした)ヒラリーとテンジンが登ったルートを辿ります。植村直己さんとも同じかな。
 ホラ、ここにヒラリーステップというのがあるでしょ。ここを越えれば、もう頂上」
 
 明日23日、三浦はアタックをかける。
 私は想像する。きっと今頃は、ヒラリーステップを見上げて攻略ルートを練っているころじゃないかな。思えば思うほど、鼓動が脈打ってくるのがわかる。あの日、手を伸ばせば触れることのできた三浦が今、ヒマラヤにいて、エベレストにいて、雲を遥か越えた天空にいて、頂上を見据えて胸を躍らせていること。
 ただ、それだけのことに。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

透明の棋士

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