いささか私的すぎる取材後記

第17回 お千代さんの手

2013.11.20更新

 島倉千代子さんが亡くなったという一報を耳にした瞬間、思い出したのは彼女の手の温度のことだった。9年前、私の右手を包んだ両手のあたたかさは、脳の片隅にある記憶ではなく、手のひらの皮膚に残る確かな感覚だった。だからこそ瞬時に、鮮明に甦ってきたのだと思う。

 入社3年目の新米記者だった2004年、半年間だけ芸能の音楽担当をしたことがある。人生いろいろ。男も女もいろいろ。記者人生だっていろいろ咲き乱れるのである。島倉さんが所属するコロムビアレコードの演歌部門は、たまたま私の担当だった。言わば、いろいろ起こる人生が生む縁のひとつだった。

 04年は島倉さんの歌手生活50周年記念の年だったこともあり、たびたび取材の機会があった。最初に挨拶をしたのは千葉県松戸市のコンサートホールの楽屋でのこと。各紙の担当記者の中で取材に訪れたのが私だけだったからなのか、わざわざ宣伝部員の方が連れて行ってくれたのだ。
 艶やかな着物姿の島倉さんは、鏡に向かってメイクをしていた。宣伝部員に声を掛けられると、化粧の途中にもかかわらずクルリと振り返り、はたはたとした足取りで私の元へと歩み寄った。帰省した孫を出迎えるような笑顔を浮かべている。
「まあまあ、どうもこんにちは。今日はよろしくお願い致します」
 ペコリと頭を下げる。芸能人を取材することに多少慣れ始めていた私だったが、島倉さんのような空気をまとう人は初めてだった。

 ちょっと経った後、願い出てインタビューをした。取材中、50周年記念ツアーの「人生よありがとう」というタイトルについて、私は何の気なしに尋ねた。「島倉さんにとって『人生』という文字は『うた』とも読めるんじゃないですか?」。ほんの軽い思いつきを言葉にしたに過ぎない。「とか思っちゃったんですけど・・・」
 すると、彼女は「まあ・・・」と言ってうつむいて、何秒間か黙ってしまった。あれ、何かマズイこと言っちゃったかなと思った次の瞬間、彼女は顔を上げて「すごい言葉を聞いてしまいましたね・・・ありがとう・・・」と言った。そして、私の右手をつかみ、両手でキュッと握りしめた。


 数日後、会社に戻るとデスクの上に一枚のハガキがポツンと置かれていた。美しい文字が連なった文末には「島倉千代子」と書かれていた。戦後間もない50年代、美空ひばりとともに日本人の生活に彩りを添えた国民歌手が、ほとんど初見の24歳の記者に直筆の手紙を宛ててくれたのだ。
「先日は取材、どうもありがとうございました。あれから、人生と書いてうた、という言葉について考えています。本当にありがとうございました。これからのコンサートツアー、66歳の声を探して頑張って歌っていきたいと思っています」
 一字一字を追って、何度も読み返した。

 それからほどなくして、私はアテネ五輪の取材班に加わることになり、芸能担当を外れてしまった。同じ年の大晦日、島倉さんにとって8年ぶり36回目の、そして最後となった紅白歌合戦を取材することは叶わなかった。そして、二度と会えなかった。


 葬儀のニュース中継を見る。遺影の中の島倉さんは、私が初めて会ったときと同じように小さく笑っている。亡くなる3日前に自宅でレコーディングしたという新曲が流れている。もちろん若い頃の伸びやかな歌声ではないが、優しくて可愛らしい声だ。島倉千代子の声だ。

 最期の時を迎えるまで、お千代さんは歌った。人生と書いてうた、と読むべき一生だった。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

透明の棋士

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