いささか私的すぎる取材後記

第23回 神々の集う場所

2014.02.20更新

 三浦弘行の指先は震えていた。
 2月6日午前1時過ぎ、将棋会館特別対局室。
 感想戦で指し手を再現していく右手の人さし指、中指、薬指が小刻みに揺れている。羽生善治が勝利を確信した一手を指すときの、あの激しい震えとは違った。凍りつく寒さに震えるような微動だった。
 両目は充血し、真っ赤に染まっている。
 枯れた声で言葉を発する。
「こっちも覚悟を決めないといけなかったので」
 勝ったのは三浦だった。指先だけでなく、魂を震わせる1勝を手にしたのである。

 渡辺明の声は明瞭だった。
 午前10時からほぼ15時間に及んだ勝負の疲れや、名人挑戦の目がなくなった落胆など微塵も感じさせなかった。通常、感想戦とは極めて難解なことが極めて理解し難い言語によって語られるという極めて厄介な行為である。主語述語が無慈悲に割愛され、精巧な技術がファジーなフィーリングのような雰囲気の中で語られ、ただ単純に声が小さかったりもする。
 ところが、渡辺は目の前の三浦に、さらには盤側にいる2人の観戦記者に向けて戦い終えた将棋のことを実に客観的かつロジカルに語っていた。一局の流れ、分岐点の一手、別手順が有していた可能性、敗着は何だったか。観戦記者が質問する場面はほとんどなかった。黙っていても、尋ねたいことを渡辺が汲み取り、提示してくれるのだ。そんな感想戦を私は見たことがなかった。彼の振る舞いは、喫茶店で私のインタビューを受けている時と大差はなかった。

 渡辺は見ていたはずだ。2時間ほど前、同じ対局室の2メートルも離れていない場所で戦っていた羽生善治が深浦康市に敗れ、投了を告げるシーンを。つまり、名人挑戦への望みがつながったことを知っていた。だが、千載一遇のチャンスを逃したことを悔いる様相を感じ取ることは出来なかった。


 2月5日、第72期順位戦A級8回戦一斉対局が行われた。「順位戦」とは名人のタイトルを目指すリーグ戦の総称である。クラスは「A級(10名)」「B級1組(13名)」「B級2組(定数なし、現在25名)」「C級1組(定数なし、現在34名)」「C級2組(定数なし、現在46名)」と5クラスに分かれており、勝敗によって毎年各クラスの上位者数名(基本的に2名)が上のクラスに昇級し、下位者数名(基本的に2名)が下のクラスに降級する。そして前期の勝敗によって明確にランク付けがなされる。「B級2組の20位」といったように。昇降級の妙は、この「順位」によって演出される。つまり、例えば残されたひとつの昇級枠に対し、4人の棋士が「8勝3敗」で並んだ時、最も手持ちの順位の高い者が上のランクに上がることになる。逆もまた然りだ。
 順位戦に参加しないフリークラスというカテゴリーに属するケースもあるが、基本的に棋士はデビュー時にC級2組に参加し、遥か遠くの名人の座に向かって歩んでいく。ランクによって対局料などの待遇が全く異なってくるのはもちろん大きな要素だが、棋士にとっては自らの「格」を周りに、そして自分自身に伝えるプライドの象徴でもあるのだ。

 頂点にいる棋士10人が名人挑戦権を懸け、総当たりで1年間のリーグ戦を行うA級は今期、7回戦を終えた時点で以下のような展開となっていた。

羽生善治三冠(1) 7勝0敗
渡辺明二冠 (4) 5勝2敗
深浦康市九段(7) 4勝3敗
行方尚史八段(9) 4勝3敗
郷田真隆九段(3) 3勝4敗
屋敷伸之九段(5) 3勝4敗
佐藤康光九段(6) 3勝4敗
久保利明九段(10)3勝4敗
三浦弘行九段(2) 2勝5敗
谷川浩司九段(8) 1勝6敗
カッコ内は今期順位

 名人挑戦の可能性があるのは羽生と渡辺の2人。羽生は残り2局で1勝を挙げれば3期連続の挑戦となり、森内俊之名人・竜王との名人戦7番勝負に臨むことになる。渡辺は2連勝し、羽生が2連敗した場合のみ、羽生と名人挑戦者を決めるプレーオフを戦う。
 一方、降級圏での戦いはもっと熾烈だ。17世名人の資格を持つ谷川が7回戦を終えた時点で6敗目を喫し、32年間守ったA級からB級1組に陥落することが決まった事実は、主催紙が夕刊の一面トップで報じる一大事件となった。残る1つの降級枠には佐藤、久保、郷田、屋敷、三浦が可能性を残している。

 既に5敗を喫している三浦にとっては絶対に落とすことの出来ない一局となった渡辺戦。終盤まで難解すぎるほど難解な将棋となったが、三浦は控室の棋士たちの検討を上回る好手を連発して死闘を制した。
「私にしては良い将棋を指せたかなと思います。模様は良さそうかなと思っていましたけれども、ちょっとした緩手で簡単に吹っ飛んでしまうような良さなんですよ。さすがに渡辺さんですからね。楽に指させてはくれません。厳しい勝負手を繰り出してきますので...。結果はともかく、良い将棋を指せたことに満足はしています。 順位戦では5連敗していたので逆に開き直れました。結果はしょうがないので、良い将棋を指したいと思っていました。恥ずかしい将棋は指せないと思っていました」
 優等生すぎる言葉にも聞こえるが、三浦の場合はたぶんすべて本音だ。印象的だったのは、私と顔を合わせるなり「ほ、他の対局の結果は言わないで下さいね」と言ったこと。さすがに星勘定が気になるところだろう、と思ったが、意図は別にあった。「すべての棋譜を先入観なく見たいので...」。戦い終えたばかりの三浦が早くも研究に取り組んだのは、以下の8人の将棋である。

【羽生善治三冠(43)A級在位通算21期(連続21期、名人7期含む)】
 羽生の強さはいまさら語るまでもないが、やはり順位戦でも滅法強い。名人から陥落して以降のA級3期の通算成績は24勝1敗...。笑うしかない。
 1月、本紙主催の女流名人位戦第2局の対局前日にゲストとして駆けつけてくれたことは今年になって最も嬉しかったことのひとつだ。直前にお願いしたのだが、ふたつ返事で快諾してくれた。当日、里見香奈女流名人、挑戦者・中村真梨花女流二段による羽生への質問タイムを設けたのだが、羽生は「いやいやいや、私から聞きますよ」と笑顔を見せ「抱負はいかがですか?」などと両対局者へのインタビュー役を買って出た。明らかに「主役は2人ですから」という配慮だった。相変わらず優しい人である。ただ、翌日の本紙の見出しは「羽生記者!が激励」と主役扱いになってしまったのだが...。

【深浦康市九段(42)A級在位通算5期(連続2期)】
 将棋界に名言は数あれど、深浦の「羽生さんと殴り合いのケンカをしたらボクが勝つと思う」に勝るものを見つけるのは難しい。絶対的な力を持つ者を相手に回した時の克己の言葉である。棋士の内面の烈しさをよく現している。
 ただ、誤解なきように記しておくと、実際の深浦は控え目で穏やかな人柄だ。本紙主催の女流アマ名人戦の立会に来てもらったときは、私のしつこい写真の絵づくりに笑顔で応じてくれた。

羽生● 深浦〇
 本局は深浦が24勝1敗男を早々に屠った。盤上で殴り、盤上に沈めたのである。ただ、渡辺が三浦に敗れたことで、既に帰宅していた羽生に名人挑戦権獲得の一報が届けられた。

【行方尚史八段(40)A級在位通算2期(連続1期)】
 デビューから実力者で在り続ける行方だが、昨年度から派手に勝ちまくり、今年度の王位戦で羽生王位への挑戦者となって悲願のタイトル戦初登場を果たした。将棋へのストイシズムと軽やかなファッションセンスのギャップが魅力の棋士である。先日、酒席をご一緒するチャンスがあったのだが、夜勤で行けず。今年になって最も悔しかったことのひとつだ。

【谷川浩司九段(51)A級在位通算32期(連続32期・名人5期を含む)】
 谷川の偉大さはいまさら語るまでもないが、上記の数字は間違いなくアンビリーバブルな記録と言えるだろう。最短距離で相手玉を詰ます棋風は「光速流」と称される。高貴でありながら気さくという稀有な人柄の持ち主でもある。日本将棋連盟会長の顔も持ち、女流名人位戦の現場に来ていただくときは朝食をご一緒したり、バスの中でシレッと横に座ったりさせていただいている。いずれも至福のときである。プチ自慢になってしまうが、上記の「羽生記者!が激励」新聞を読んだ谷川に「羽生さんを連れてくるとは...。さすがですね」と声を掛けられたことは今年になって最も心が快哉を叫んだ出来事のひとつだ。
 今期ついに陥落となってしまったが、谷川には「A級」の響き以外は似合わない。史上最年少名人として目指してほしいのは、史上最年長名人である。

行方〇 谷川●
 本局はずっと谷川優勢と控室では言われていたが、行方の終盤力が逆転勝ちを呼び込んだ。

【久保利明九段(38)A級在位通算8期(連続1期)】
 A級唯一の振り飛車党、唯一の関西所属である。両方の看板を背負って戦っている。ニックネームは「さばきのアーティスト」。昨年の今頃、女流名人位戦の立会を務めていただき、B1からA級への即年復帰を祝福したところ、本当にうれしそうな顔をしていたことを覚えている。

【郷田真隆九段(42)A級在位通算11期(連続8期)】
 将棋担当になった直後の2010年5月、郷田を取材した。デスクから「対局に遅刻したことのペナルティーとして一般ファンに指導対局をしているから取材してくるべし」との指令を受け、新宿将棋センターに赴いた。恥ずかしながら郷田の名も存在も知らず「A級っていうくらいだからスゴイんだよな...。初対面でいきなりコレ取材に行くのって失礼じゃね...?」と思い、カチカチに緊張しまくってセンターの門を叩いたのだが、当の本人は「わざわざ取材に来ていただくとは...。恐縮です。なんだか申し訳ないですねえ」と受け入れてくれたばかりか「前は目覚まし時計2個でしたけど、今は6個です」という秀逸な談話もくれた。もしあのとき「取材!? こんな姿さらしたくないッスよ! カンベンしてくださいよ!」といった当然の対応だったら...私はこんなに棋士や将棋に心酔していただろうか...と思ったりもする。

 久保〇 郷田●
 郷田の構想には破綻があったようで、感想戦で自嘲の笑みを浮かべ続けていた。

【屋敷伸之九段(42)A級在位通算3期(連続3期)】
 以前も書いたが「忍者屋敷」「オバケ屋敷」というニックネームとは程遠いニコニコな人柄である。18歳でのタイトル獲得は今も史上最年少記録だ(ちなみに羽生は19歳で竜王、谷川は21歳で名人)。これも以前書いたが、初対面の挨拶をしたとき、名刺を忘れていた彼から当日夜に「本日は大変失礼いたしました。連絡先は~です」とのメールをもらった。素敵すぎる。

【佐藤康光九段(44)A級在位通算17期(名人2期含む)】
 かつて「1億と3手読む男」「緻密流」と称されたが、現在は「誰も真似してくれない」と本人も嘆く? 独創的な将棋を指す。昨期の王将戦第3局で、裸のままの自玉を中段まで上げながら渡辺の攻めを受け切った一局には震えた。棋士会会長ということで取材をお願いすることも多いのだが「いつでも言ってきて下さいね」と笑顔を絶やさないフランクな好人物である。

屋敷● 佐藤〇 
 大きな1勝を挙げながら、感想戦で眉間に皺を寄せ続ける佐藤の表情が印象的だった。


 8回戦の結果を受けた成績は以下の通り。
羽生善治三冠(1) 7-1 名人挑戦
渡辺明二冠 (4) 5-3
深浦康市九段(7) 5-3
行方尚史八段(9) 5-3
佐藤康光九段(6) 4-4
久保利明九段(10)4-4
三浦弘行九段(2) 3-5
郷田真隆九段(3) 3-5
屋敷伸之九段(5) 3-5
谷川浩司九段(8) 1-7 降級

 3月7日、最終9回戦が行われる。
 ちなみに8回戦は麻雀用語から派生した「ラス前」と呼ばれるが、不思議なことに9回戦を「オーラス」とは誰も呼ばない。
 頂点の10人が集い、最後の死闘を繰り広げ、ファンが深夜まで勝負の行く末を見守る一日には、いつしかこんな呼称が与えられた。
「将棋界のいちばん長い日」。
 三浦は久保に勝てば連続13期維持してきたA級の地位を、今年も守ることになる。


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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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