いささか私的すぎる取材後記

第29回 真っ白な灰に

2014.07.11更新


 デッドライン上を彷徨う夜は長く、そして苦しい。
 昭和48年4月、漫画家ちばてつやはペンを握り、机に向かいながら苦闘していた。どうしてもアイデアが浮かばない。描くべきものが分からない。どうしたらいいのだろう・・・。
 それでも、締切に間に合わせるための妥協など出来るわけもなかった。目の前にある空白のページが待っているのは「あしたのジョー」のラストシーンだったからだ。

 今、この瞬間も日本中の若者が夢想しているに違いないのだ。それぞれのエンディングを。ジョーが向かう運命の行方を。
 思わずアシスタントたちに告げた。
 「懸賞金を出すよ。いいシーンを思いついてくれたら採用するからね」
 半分はジョーク、半分は本気だった。
 そんな様子を見つめていた担当編集者は意を決して言った。
 「ちば先生、ジョーと紀子が公園で会うシーンを読み返してみて下さい。僕にはあの場面にストーリーの核があるように思えるんです」
 余計な後悔を抱かないように普段は自作を読み返すことのないちばだったが、藁をもつかむ思いでページをめくった。

 主人公・矢吹丈を淡く想う紀子は、デートの語らいの中でボクシングを続ける理由を問い掛ける。ちばが「どうしても入れたかった」と回想する静かで美しいシーンである。
 「矢吹君は・・・さみしくないの? 同じ年頃の青年が海に山に恋人と連れ立って青春を謳歌しているというのに」
 「・・・」
 「矢吹君ときたら、来る日も来る日も汗とワセリンと松ヤニの匂いが漂う薄暗いジムに閉じこもって縄飛びをしたり柔軟体操をしたりシャドー・ボクシングをしたりサンドバッグを叩いたり・・・。たまに明るいところへ出るかと思えば、そこは眩しいほどの照明に照らされたリングという檻の中。煙草の煙が立ちこめた試合場で酔っ払ったお客にヤジられ、座布団を投げつけられながら闘鶏や闘犬みたいに血だらけになって殴り合うだけの生活・・・。しかも、体はまだどんどん大きく伸びようとしているのに体重を抑えるために食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず・・・。惨めだわ、悲惨だわ、青春と呼ぶにはあまりにも暗すぎるわ」
 「ちょっと言葉が足らなかったかもしれないな・・・。俺、負い目や義理だけで拳闘やってるわけじゃないぜ。拳闘が好きだからやってきたんだ。紀ちゃんのいう青春を謳歌するってこととちょっと違うかもしれないが、燃えているような充実感は今まで何度も味わってきたよ・・・血だらけのリングでな・・・。そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんの瞬間にせよ眩しいほど真っ赤に燃え上がるんだ。そして後には真っ白な灰だけが残る・・・。燃えカスなんて残りやしない・・・。真っ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやる前には無かったよ。分かるかい紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘が好きなんだ。死に物狂いで噛み合いっこする充実感が、わりと俺、好きなんだ」

 ちばは確信した。描くべきラストシーンは、ここに隠されていると。それから数時間、一寸の迷いもなく描くことに没頭した。
 ジョーは世界王者ホセ・メンドーサとの究極の燃焼に登りつめるファイトを終え、コーナーの椅子に腰を下ろしたまま瞳を閉じ、微笑みを浮かべる。そしてあの独白に至るのだ。
 
 「燃えたよ・・・真っ白に・・・燃え尽きた・・・真っ白な灰に・・・・・・」

 漫画史における金字塔となる名シーンが生まれてから41年後、あのエンディングについてちばに尋ねた。まず聞きたかったのは、長年の定説になってきた「ジョーは死んだ」という見方は正しいのかどうか、ということ。
 「描いている時は死ぬとか生きるとか考えませんでした。描いた本人が言うのも変なのですが、不思議なシーンなんです。死んでしまったのかなと見える時もあるし、立ち上がる前の姿勢に見える時もある。ただ間違いなく言えるのは、燃え尽きて何も残っていないということですね。世界最高の男と戦い、自分を燃え尽きさせることが出来た彼は幸せだったと思います。だから微笑んでいるんです」

 公園で紀子が語った言葉のモチーフには、ちば自身の人生観の変化を投影していた。「ジョー」を描く以前から人気漫画家としての地位を確立していたが、ちばは己の生活や人生に疑問を抱いていた。
 「時代は高度成長期で、みんないろんな場所へ遊びに行ったりして楽しんでいる中で、僕だけ机に毎朝毎晩しがみついて、目を真っ赤にしてクマをつくって。テッちゃんはこんな人生でいいのかなって」

 そんな思いは「ジョー」が社会現象を巻き起こしていく中で変容していった。
 「力石徹のお葬式があったり、若い人からたくさんの手紙をもらったり。自分が描いた漫画を、読んだ人が感動してくれている。すると、すごい仕事をしているのかもしれない、もしかしたら誰にも出来ないような仕事をしているのかもしれないと思うようになっていったんです」
 長年の無理がたたり、十二指腸潰瘍を患って休載に追い込まれもしたが、覚悟は決めていた。
 「まだ34でしたけど、死んだっていいじゃないか、死んでしまったとしても十分に充実した人生じゃないかと思い始めました」

 そんな思いの中で到達したラストシーンは、過去に経験したことのない感覚をちばに与えた。
 「漫画家はいつも、これでいいのかなぁと思いながら描くものなんですよ。ベストだ、と思えることなんてまず無くて、必ず悔いが残るものなんですけど、ジョーのラストを描き上げた時はこれしかないと思えました。自分の力だけじゃないような感覚で、命懸けで一生懸命やると神様は何かを与えてくれるのかなと。青春の終わりに、青春の全てを賭けたんだと今では思います。でないと、命のこもった絵にはならなかった」
 ジョーとともに真っ白な灰に燃え尽きて、ちばはあのシーンを描いたのだ。

 それにしても「真っ白な灰に燃え尽きる」という表現が持つ麻薬的な魅力とは、いったい何なのだろう。
 沢木耕太郎の初期の短編ノンフィクションに「クレイになれなかった男」という作品がある。「真っ白な灰に燃え尽きる」というモチーフを、才能がありながらも煮え切らないファイトしか演じることの出来ないボクサー・カシアス内藤に投影した物語だ。中学生の頃に読んで以来20年にわたって、私の人生の主題には「いつか真っ白な灰に燃え尽きる」というテーマがそびえている。

 今時、性別に分けてものを語るのはナンセンスかもしれないが、そんなにも「燃え尽きる」ことに惹かれるのは私が男の端くれだからだろう。どれだけ女々しくとも男は男なのだ。
 努力もせず、覚悟もせず、苦労もせず、失敗を恐れ、全力疾走を忘れ、流すのは脂汗と冷や汗だけになり、好きなだけコーラを飲んでいるような男であっても、いつか真っ白な灰になるまで燃え尽きる刻を持ちたいと、心のどこかで希求し続けている。願う資格もなく、どれだけ滑稽かと分かっていても。

 
 ふう・・・。
 わけの分からないことを書いてしまった。
 きっと夜のせいだ。締切を迎えた夜のせいなのだ。
 原稿のデッドライン上を彷徨う夜は長く、そして苦しいものなのである。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

透明の棋士

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