いささか私的すぎる取材後記

第36回 彼の中の失われない部分

2014.12.12更新



 8×8マスの盤上中央、中心から点対称の位置で2つのビショップが睨み合っている。
 羽生、そしてカスパロフの指先によって操られた駒と駒は、互いを牽制するように小刻みなステップを踏んでいく。
 カスパロフ、羽生、カスパロフ、羽生...。
 手が進むにつれ、大盤解説会場の空気は緩んでいった。解説担当で、いずれもチェス元日本王者の塩見亮と小島慎也が「スリーフォールド・リピティション」となることを確信し、局面を語り始めたからだ。つまり、将棋で言う千日手模様だ。両者が同一局面を指し続け、ドローになると結論付けたことで、直前まで保たれていた緊張は一気に弛緩した。
 選択権を持つカスパロフにとって、ドローは異存のない結果だったはずだ。白(先手)での第1局では羽生に圧勝しており、第2局をドローとしても1勝1分で「羽生に勝った」ということになる。チェスは引き分けの割合が多いゲームで、国際的プレイヤー同士の対局では、黒(後手)はまずドローを目指すとされている。事実、第2局の羽生は元世界王者を相手に互角以上に渡り合っていた。
 事後のムードが会場全体を覆い始めた時、解説の2人が「信じられない」と驚く事件が起きた。
 ニヤッと小さく笑った後、真顔になったカスパロフは、ビショップではなく自陣のコーナーにいたルークをつかむと反対側の戦場へと旋回させた。自ら動いて千日手を打開していったのである。王者が望んだのは2勝0敗。パーフェクトな勝利だった。
 
 11月28日、将棋の羽生善治四冠とチェスの元世界王者ガルリ・カスパロフ(ロシア)によるチェス対局が行われた。ハンディはなし。エキシビジョンマッチではあったが、ファンの胸を躍らせたのは夢のような顔合わせの実現だけではない。勝負の行方である。端的に言えば「羽生ならばもしかしたら勝てるかもしれない」という期待感だった。
 カスパロフは1985年に史上最年少の22歳で世界王者となり、2000年まで史上最長の15年間にわたって王座を守り続けたチェス界のスーパースター。何より、今も語り草になっているのはIBMのチェスコンピュータ「ディープブルー」との死闘である。96年は3勝1敗2分で勝利。しかし、翌年は1勝2敗3分で歴史的な敗北を喫し「コンピュータの頭脳が人間を超えた」と世界的な話題となった。2005年の現役引退後は民主化運動を行う政治家として活動している。対する羽生は、実はチェスでも国内トップのプレイヤーで、レーティング(実力を数値化した指標)は日本ランキング1位を誇る実力者だ。

 第1局は序盤で羽生のポーンを奪ってペースを握ったカスパロフの完勝。そして第2局、千日手を打開した局面は羽生有利とも見られていたが、終わってみれば元世界王者の圧倒的な勝利だった。
 両者による対談後の会見で、私はカスパロフに尋ねた。
 なぜ千日手を打開したのか。ドローを選んでいれば1勝1分で勝ちだったはずだが、なぜ選択しなかったのか。危険ではなかったのか―。
 彼は言った。
 「2つのプロセスがあります。ひとつは、大きな危険を背負うことなく勝ちを目指すことが可能だと分かったからです。もうひとつは、もし危険が過ぎ去っているのだとするならば、プロフェッショナルなチェスプレイヤーとして全てのチャンスを使い切らないのは見ている人々に対してアンフェアだと思ったからです」
 あの一手の背景には、打開しても敗れることはないというクールな分析と元世界王者としての熱いプライドがあったのだ。
 
 羽生には、今まで対局してきた各国のトッププレイヤーたちとカスパロフの差について聞いた。
 「指されてくる一手一手がこちらにとって大きなプレッシャーになっていることが多かったです。追いつめられていくような感覚は、今まで対戦してきたどんなプレイヤーとも違いました。指し手の組み立て(の特異性)なのかもしれないですが、私の方からはどうしてそのようなことが起きるのか、よく分からないというのが実感です」
 
 カスパロフは来日するにあたり、羽生の棋譜を研究し、序盤から定跡を変化させ、力勝負に持ち込む策略を取った。
 「単純に今回の対戦は私にとって大きな重圧でした。負ければ失うものは多かった。傍目からは私が勝つだろうと見られていたと思いますが、現役を退いて長い時間が経って多くのことを忘れてしまっています。だから、序盤の記憶力勝負ではなく、中盤以降のチェスへの理解度で勝負を仕掛けようと思いました」
 人類の威信を懸けてコンピュータと戦った現役時代と同じように、彼はチェス界のプライドを懸け、他のゲームにおける最高の天才を迎え撃ったのである。
 来日すると聞いた時、私の頭に浮かんだ人物像は完全に間違っていた。カスパロフは過去の栄光にすがり、安住の余生を緩やかに生きるようなタイプではないだろう。目の前の勝負に勝つために何をすべきかを考え、最高の力を実際の盤上に表現することの出来る真の勝負師なのだから。
 カスパロフは今も王者だった。王座を失っても、現役を退いても、決して失われることのない何かを心の中に抱き続ける王者だった。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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