いささか私的すぎる取材後記

第42回 交錯する部屋

2015.08.14更新


 戦い終えた右手をそっと将棋盤の端に添え、高浜愛子は投了の意思を示した。
 至近距離でテーブルを取り囲む20人ほどのギャラリーからは、緊張の弛緩による吐息が漏れた。
 皆、目の前の勝負の重さを知っていた。

 感想戦が静かに始まった。
 聞き取れないほど小さな声で盤上に対する意見が交わされていく。
 ふと気が付くと、勝利した飯野愛の瞳に涙が浮かんでいた。
 嬉しくて泣いているわけではない。もちろん悔しくて、悲しくて泣いているわけでもない。
 将棋盤の先にいる同志のことを想って泣いていた。あるいは、将棋という勝負事が人に強いる厳しさについて泣いていた。

 人が棋士になるには養成機関「奨励会」に入り、昇級昇段を重ね、年齢制限を迎える前に三段リーグを突破して四段にならなくてはならない。
 一方、女性が女流棋士になるには養成機関「研修会」に入り、昇級を重ね、年齢制限を迎える前に規定の成績を残して女流3級にならなくてはならない。
 2つの制度は多くの共通点を持つが、異なる点もある。最大の相違点は、四段と違って女流3級が仮資格に過ぎないことだろう。
 女流3級になれば女流棋士として棋戦に参加できるが、2年以内に規定の成績を残して女流2級に昇級しないと、仮資格を失う。研修会に舞い戻るか、年齢制限を迎えていれば引退を余儀なくされる。30歳の高浜は昨年4月に女流3級デビューを果たしたが、まだ規定を満たしてはいなかった。

 8月1日に行われたマイナビ女子オープン一斉予選は高浜にとって千載一遇の好機だった。同棋戦の予選を突破して本戦出場を果たせば、一気に女流2級資格を得られる規定があるためだ。予選は2戦。連勝すれば全て報われる。1回戦でアマチュアの浅田奈都美さんに順当勝ちし、迎えた予選決勝が飯野戦だった。
 高浜と飯野はお互いにとって戦友だ。研修会、そして前身の育成会時代からお互いに研鑽を積み、苦労を重ねてきた。10代で女流棋士となる者が大半の中、飯野が26歳で女流3級となったのは、高浜の昇級のわずか半年前だった。
 勝った者が敗れた者の前で泣くようなことがふさわしくない行為であることは、飯野も分かっている。ただ、自らの記憶と重ね合わせた時、どうしようもなかったのだ。終了後に行われた本戦抽選会でも、対局の感想を尋ねられると「高浜さんにとって大切な一局で...」と言ったきり、堪えきれずに泣いた。軟弱だと言う人もいるかもしれないが、飯野が真の意味で軟弱ならば、まともに将棋など指せずに敗れていただろう。

 将棋界には米長哲学という思想がある。「相手にとって一生を左右するような重要な対局にこそ全力を尽くす」という共通概念を指し、故・米長邦雄永世棋聖が提唱し流布したことで知られる。
 ただ、個人的には少し違和感を覚える言葉でもある。棋士は相手にとって重要であろうがなかろうが、目の前の対局に常に全力を尽くすものだからだ。将棋まつりのお好み対局であれ、目の前に盤と駒があれば棋士は全力を尽くす。消化試合などないのだ。さらに言えば、大量リードしている時は盗塁してはならない、投手は打ちにいってはならない、といった暗黙の了解など存在しない。相手が強かろうが弱かろうが全力で勝ちにいく。築いた優勢は拡大を目指し、完膚なきまでに叩きのめしにいくのが将棋の本質である。
 飯野は高浜にとって重要な対局だから全力で戦ったわけではない。プロフェッショナルの将棋指しとして、目の前の対局に全力で勝ちにいっただけだ。己の昨日を肯定するために、己の明日に希望を抱くために。

 予選決勝13局が一斉に行われた会場は、竹橋のパレスサイドビル2階にある「マイナビルーム」という一室だった。
 里見香奈は女流棋戦史上最多となる20連勝を懸けて中村桃子戦に臨み、見事にやってのけた。
 通算118局目を迎えた清水市代と中井広恵とのゴールデンカードは、20年前と同じように盤上に火花を散らした。
 アマチュアの里見咲紀さんと佐藤陽子さんには野心があり、室谷由紀と熊倉紫野には女流棋士として守るべきプライドがあった。
 香川愛生にはタイトルホルダーとして当然守らなくてはならない誇りがあった。
 西山朋佳には奨励会二段としての自負があった。
 一目で見渡せる部屋の中で、それぞれの感情や想いが激しく交錯していた。

 高浜の挑戦は来年3月まで続く。夢を叶える瞬間に立ち会い、祝福の言葉を掛けたいと純粋に思う。
 後日、話を聞こうか、いや話すことなどないだろうと思っていたら、メールが届いた。
 「いい報告が出来る様に、信念を持って頑張ります」と。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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