いささか私的すぎる取材後記

第45回 賢者、そして勇者がいた一日

2015.11.13更新



 10月26日午後1時。
 甲府市、山梨大工学部の講義室。
 大村智さんは穏やかな笑顔を浮かべている。
 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まり、母校の山梨大から特別栄誉博士の称号を受けた後の壇上。学生たちに向けた挨拶の終わりに「みなさんに4つの言葉を贈りたいと思います」と言った。ふと懐かしさを覚えてしまうような優しい声で。
 「まずは『一期一会』。茶の湯の精神ですね。良い縁があっても気付かない人がいる。袖触れ合う小さな縁も大切にしてほしいです」
 「続いて、私がいつも心掛けている言葉で、あまり辞書には出てきませんが『至誠惻怛(しせいそくだつ)』ですね。山田方谷という江戸末期の学者の言葉で、真心を持って慈愛の心を忘れないでいれば物事は必ずうまくいくという意味です」
 「3番目は、韮崎の先輩で宝塚と阪急を興した小林一三の『金が無いから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間』ですね。お金はなくても、志すことがあるならば志すことに向かって行動を起こすことが大切、ということだと思います」
 そして、声のトーンを落として遠慮がちに言い添えた。
 「最後に私の言葉を若い皆さんに贈りたいと思います。『幸運は高い志を好む』。ご静聴、どうもありがとうございました」


 10月26日午後9時半。
 甲府市、常磐ホテルの対局室。
 感想戦の羽生善治王座は笑ってはいない。
 昨年、そして一昨年と同じように。
 第63期王座戦五番勝負第5局。最強の挑戦者となって初タイトルを奪いに来た27歳のA級棋士・佐藤天彦八段との最終決戦で羽生は完勝し、防衛を果たした。喜びや安堵の笑みを見せることはなく、口調は淡々としている。
 「2、3局と負けてカド番になって非常に苦しいシリーズでしたので、結果が出せて良かったと思います。佐藤さんは若くて勢いがあり、充実している印象でしたので厳しいシリーズになると思っていました」
 大盤解説会場に移動し、両対局者がファンに来場の御礼をする。途中、鮮やかなボルドー色の羽織について問われた佐藤は「秋色を採り入れようと思いまして...。そんなことを考えているから、きっとダメなんですね」と笑った。誠実な人柄が伝わる言葉だった。悔しさを押し殺し、冗談めかしたように語った言葉に対して会場から笑いが起こると、羽生もようやく頬を緩ませた。

 どんな窮地にあっても、決して失われることのない武器が羽生にはあった。
 振り駒で先手を引くと、後手の誘導に乗った。8割以上という驚異の勝率を誇る佐藤の後手横歩取りに真っ向から勝負した。「佐藤さんは他の形も強いことが分かっているので。良くなる成算はなかったですけど、もう一度やってみようと」
 午後8時。羽生は、控室の読み筋にはなく、コンピュータのみが示していた▲5五桂から一気の寄せへと走った。直後、藤井猛九段は「13時半の時点で現局面を読んでいたとしか思えない指し手が続いていますね」と言った。「羽生さんの中にはコンピュータがあるから」
 羽生は強かった。
 追いつめられると、羽生は本当の羽生になる。素知らぬ顔をしたままで。
 
 中村太地六段、豊島将之七段、そして佐藤天彦八段。20代の最強棋士と三度、フルセットの激闘を演じ、三度勝った。
 「これだけの年数をやっていると(年下と指すのは)自然なことだと思いますが、20代の相手がここまで続いたのは初めてでした。カド番の連続で来年も簡単にはいかないと思いますが、一局一局楽しんで、ファンの方にも楽しんでもらえるように頑張ります」
 棋士となって30年の節目に、羽生は23期目の王座となった。45歳。生涯の半分以上の月日で「王座」を名乗っていることになる。

 最終の東京行各駅停車に乗り込む。
 2時間。車両には3人の乗客しかいない。断続的に突入するトンネルが夜の闇を深くする。
 窓の奥の暗闇に、ふと浮かんできたのは2年前の記憶だった。
 今夜、佐藤が座っていた場所にいたのは中村太地六段だった。同じ対局場で、同じ対局室で、同じ畳の上で、やはり羽生と盤を挟み、そして同じように敗北を受け入れた。
 あの時、胸を襲った思いは今も心の奥底に眠り続けていた。

 中村にメールを送ると、すぐに返信があった。
 彼もまた見つめていた。土壇場での羽生の強さを。2年前の自分を。

 列車は東へと向かっている。
 ノーベル賞受賞者と史上最高の棋士が目の前にいた一日は、ひとつの言葉を残して終わろうとしていた。

 幸運は高い志を好み、運命は勇者に微笑むのだと。


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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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