いささか私的すぎる取材後記

第47回 長距離走者が描く色

2016.01.08更新


 襷が重いのは染み込んだ汗のせいではなかった。
 大手町に近づくほど、沿道の声は大きくなった。
 伴走車から監督の檄が飛んだ。
 「北海道のお父さんとお母さんも見てるぞ!」
 吹き抜けていく風の中を駆けた。
 鼓動が激しく脈打つ。
 己の足がアスファルトを叩く音が聞こえる。
 長距離走者は思った。
 僕は走っている。
 本当に走っている。
 あの箱根路を。


 1987年1月3日。
 第63回箱根駅伝復路10区。
 創部2年目で初出場を果たした山梨学院大の1年生アンカーは、少し遠慮がちに両手を上げながらゴールテープに飛び込んでいった。
 区間11位。
 1時間11分5秒。
 1人、抜いた。

 レースが終わった後、打ち上げの席で学長から労いの言葉を掛けられている途中、気付いたら倒れていた。
 燃え尽きた。肉体にはもう何も残ってはいなかった。あるいは当然なのかもしれない。もう何も残っていないと思える瞬間まで走り果てるために、今日まで1年間生きてきたのだから。
 
 来年はもっと輝いてやろう。
 日体大で3年連続区間賞を獲得した谷口浩美に憧れ、山下り6区のスペシャリストを目指した。まだ谷口がバルセロナ五輪男子マラソンを走り終えた後に「こけちゃいました」と笑う前のことだ。
 ボロボロになるまでスピード練習に取り組んだ。長距離を走ることは苦しいことだ。限界まで自分を追い込んで初めて前に進める。近道はなかった。

 でも、箱根を走るランナーには、もうなれなかった。
 2年生の時も。
 3年生の時も。
 4年生の時も。
 選手として走れない代わりに、スパートを苦手にしていた留学生ランナーに自分のスピードを伝える練習に励んだこともあった。
 もちろん悔しい。こんなに悔しいことなんてない。
 悔しいけど、自分のためだけに走るわけじゃない。
「僕ら」で成し遂げたいことがあるから。
 
 4年の夏。
 練習を終えた後に漫画を描くことが日課になった。
 走ることと同じくらい、描くことが好きだった。
 監督に頼まれ、チームTシャツのイラストを描いてみた。
 透き通るような絵は他大学のランナーの間でも話題になった。

 僕は漫画家になる。
 就職課の職員に言われた。
 「就職して働きながら漫画を描く道だってあると思いますよ」
 長距離走者は思った。
 いや、それじゃダメなんだ。
 仕事をすれば、仕事を限界まで頑張ってやってしまうだろう。
 自分のことはよく分かっている。
 だから、専業の漫画家を目指すべきなんだ。
 才能とかは分からない。
 でも僕は知っている。
 今、漫画家を目指している人の中で、僕ぐらい頑張った奴はいないはずだ。肉体的にも精神的にも、人間ここまで出来るんだ、というところまで僕は走ったのだから。北海道から何も分からずに山梨までやってきて。
 きっと出来るはずだ。
 長距離を走ること、箱根路を走ったこと、箱根路を目指したことが僕に教えてくれたんだ。
 大学を卒業した1990年。
 第11回スピリッツ賞受賞。
 長距離走者は、新しい道を走り始める。

 2016年1月3日。夜。
 〆切り直前、私のメールに漫画家・高橋しんからのイラストが送られてきた。
 箱根駅伝の往路復路を観戦して最も印象に残ったシーンを描いてもらった。
 彼が描いたのは栄光のゴールシーンではなかった。
 走者に選ばれなかった同学年の仲間からエースランナーが給水を受けるシーンだった。描かれた2人は笑っている。
 高橋の絵だと思った。

 依頼を了解してもらい、駅伝を観戦してもらい、遠い日の記憶について語ってもらい、一枚の絵を描いてもらう過程の中で、どんな瞬間においても高橋は穏やかで優しかった。
 生まれながらの資質に、長距離を走り続けることで培われた資質が加わったような穏やかさで、優しさであるように思った。


 翌朝。新聞媒体には似つかわしくないような美しいブルーが紙面を彩った。
 長距離走者にしか描けない色だと、私には思えた。


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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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