いささか私的すぎる取材後記

第49回 知の巨人が教えてくれた

2016.04.08更新


 
 巨大な猫の壁画が来客を出迎えるから、彼の事務所は通称「ネコビル」と呼ばれている。
 黒いドアを開けると、地面から天井まで本、本、本の山。文字通り、足の踏み場もない。人1人がなんとか通れる螺旋階段さえ、半分は書物に占拠されている。本を踏まないように注意しながら上階に上がり、ノックをし、ドアを開ける。視界全体が書架に覆われた。
 「あーどうも。いらっしゃい」
 主の声は聞こえたが、本に遮られて姿は見えない。
 「このへん、座ってください」
 机を中心に回り込んで、ようやく拝顔した。
 このへん...。遠い昔にはベッドとして機能していたと思われる場所に積まれた本を一部分だけパタパタと片付けて、ようやく腰掛けるスペースが生まれた。
 「知の巨人」に向かい合った。無知の凡人だけど。

 最も影響を受けた書物は何か? と問われた時は、沢木耕太郎の「一瞬の夏」と即答している。
 ならば、書物に書かれた文章の中で最も影響を受けたものは何か?
 ノミネート数が多すぎて回答は困難だが、影響された「長さ」という観点で言えば、立花隆が「青春漂流」のプロローグに書いた文章は、高校時代に初めて読んだ時も今も、変わらないざわめきを心に生み出している。

 迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに恥も多く、失敗も多い。恥なしの青春、失敗なしの青春など青春の名に値しない。自分に忠実に、しかも大胆に生きようと思うほど、恥も失敗もより多くなるのが通例である。  迷いと惑いの挙げ句、生き方の選択に失敗して、ついに失敗したままの人生を送ってしまうなどありふれた話だ。若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。その時「あらゆる可能性」には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。  先に述べた「精神だけが老化した青年」とは、実は、あらゆる失敗の可能性を前にして足がすくんでしまった青年のことである。彼は、口を開けば人生にチャレンジしない自分の生き方についていろいろ聞いたふうのことを言うかもしれない。しかし真実は、彼は人生を前にして足がすくんでしまっているというごく単純なことなのだ。  また、あらゆる失敗の可能性を忘れている人は、いかに大胆に生きようと、無謀に生きたというだけである。  あらゆる失敗の可能性を見据えつつ大胆に生きた人こそ、よく青春を生きたと言うべきだろう。                         「青春漂流」(講談社文庫)


 立花と初めて会って、彼に伝えた。あの文章に極めて重要なことを教えられたこと。教えられながら今も、あらゆる失敗の可能性を見据えつつ大胆に生きることなど到底出来ていないということ。
 彼は破顔一笑して、私に告げた。
 「あなたが存在することに誰も感心がない、なんていう人生はそんなにはない。〆切りが毎日あるのはいいことですよ。つまらない会社で、つまらない仕事をして、毎日が日曜日、なんていうのはかわいそうだからね」
 
 これからも「宇宙」と「死」は大きなテーマで在り続けるのか、と問うと、彼は意外なことを言った。
 「もう、齢になるともったいないですね。残りの人生いくらもないですから、過去にも論じたことのある話をまたやるのはもったいない。もうちょっとリアルな、自分がやるべきことを考える方が自然ですね」
 「宇宙と死なんて、どうせ分かんないんだから、あんまり悩んだってしょうがないじゃない? っていう考え方もあるんです。哲学という営みのほとんどがそういうものなんです。どこかに書いてあるものを読めばいいというものじゃない。だから、随分と無駄な時間を費やしてきたな、というのが後期高齢者としての私の心情ですね」
 そして、最後に言った。
「分からないということが分かったんです。今、あっさり自信を持って『分かりません』を言えるようになりました」
 
 分からないということが分かった―。
 「知の巨人」の言葉は、無知なる頭の奥底に響いた。
 青春という単語がリアルタイムに、目の前にあった頃と同じように。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

透明の棋士

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