いささか私的すぎる取材後記

第57回 77.2gの夏

2016.12.09更新

写真提供:アメアスポーツジャパン

 あの夏の日、松沢猛は泣いていた。
 人々の熱狂の中で1人、泣いていた。
 8月18日、ブラジル・リオデジャネイロのリオセントロパビリオン4の片隅にいて、涙が止まらなくなった。

 センターコートではリオ五輪バドミントン女子ダブルス決勝の最終ゲームが土壇場を迎えている。松友美佐紀・髙橋礼華組はデンマークのペデルセン・リターユール組に3連続でポイントを奪われ、16―19のビハインドを負った。次の次がゴールドメダルポイントになる。
 スポーツブランド「ウイルソン」のラケット担当者として松友をサポートするためにリオの地を訪れていた松沢は、コート上を直視できなくなった。
 あいつはあんなに頑張ったのに、金メダルを獲れないなんて...。
 あんなに金メダルのことしか考えていなかったのに、金メダルを獲れないなんて...。
 そんな思いが胸を駆け巡ると、どうしようもなく涙があふれ出た。

 歓声が響いた。
 会場の声は、連続する度に大きくなっていった。

 
 
 
 
 松友が日本ユニシスさんに入社した2010年の末くらいに初めて会いました。ユニシスさんとはウェアの契約をしていたので、練習の合間にサイジングをしたりするのですが、待ち時間がすごく長いんですよ。あまりに手持ち無沙汰だったので、新作のラケットを持っていって選手たちに「興味あったら振ってみて下さい」って渡してみました。ちょっとした時間つぶしの会話みたいなものでした。
 でも、2日後に松友から電話があって「使ってみたいです」って言うんですよね。もちろん彼女は高校3冠を達成したり、既に有名な選手でしたけど、最初は「了解了解。何本か送るから使ってみて」みたいな軽い感じでした。
 当時はトップアスリート用の軽量モデルがなかったんです。バドミントンのラケットは85~90グラムを3U、80~85グラムを4U、75~80グラムを5Uと分けますが、トップの選手で5Uを使う人はほぼいません。でも、松友は5Uなんです。軽ければ当然、パワーは出ない。松友はパワーがあまりないですから、短所を補うためには本来なら5Uは使わない方がいいんです。でも、彼女は前衛でのゲームメイクという長所を伸ばすための選択をしました。
 作り始めたモデルは競技者用としてはダントツに軽いものでした。79グラムから始めて、77グラムに減らしました。78グラムにしてみたり、79グラムに戻したりして、行き着いたのが77・2グラムでした。
 同じ重さで作ってもらって渡しても「何か違うんです」っていう感想が来ることもありました。調べに調べてみると、ラケットの素材であるカーボンの劣化率が新品と使用品ではわずかに変化していた、ということもありました。匠と呼ばれている中国の方に製作していただいているのですが「そんな差が人間に分かるわけないよ」なんて言われたり。
 とにかくプレーヤーとして感じたことを伝えてもらいました。「もうすこし(ガットに)いてほしいのに、行ってしまう感覚なんです」といったような言葉を、僕なりに解釈して制作側に伝えていく作業です。何十本、何百本とダメにしましたよ。
 バドミントンの国際大会は通常、現地のストリンガー(張り手)がガットを張りますが、松友のラケットは常に日本で張ったものを持っていくようにしています。国によってストリンガー、マシン、電圧が変われば微妙な狂いが生じてしまうものなんです。
 だからリオには、出国の3日前に職人さんに一夜で張ってもらったものを持っていきました。張ってからの期間はもちろん、長時間のフライトが与える気圧の影響も考えました。南米ですからトランクをロストしてしまう事態も考えて、一緒に行った佐々木翔選手のご家族の荷物に分散して入れさせてもらったりしましたよ(笑)。
 でも、松友がこだわっているのはラケットではないんです。勝つことです。勝つことへの思いは本当にすごいと思います。100点のラケットだと仮に思ったとしても、勝つためにいかにして120点に出来るかと。常に勝つことを考えているように感じます。リオの前も、五輪の決勝で勝つことしか頭になくて、ファイナル以降のことは何も考えられないとずっと言っていました。
 僕のような一般的な感覚だと「休むのも練習」なんて思ったりしますけど、松友は休まない。海外遠征から帰ってきても、翌朝には走っている。いや、天才肌の選手だと思うんです。天才肌だけど、ものすごく努力をする。本当にオンオフなく、ずっと練習をしています。ちゃんと切り替えをして、というのがトップアスリートっぽいと思いますけど、あんまり切り替えていないように感じます。ずっとバドミントンのことを考えている。
 食べることが好きなようですけど、一緒に焼肉に行って、ファミレスでパフェを食べた後の帰り際に「今日、もうちょっと練習していきます」「これから走ります」なんて言ったりする。理解しがたい努力をしていました。だからこそ結果を出せたんだと思います。
 いちおう僕もバドミントンをやっていたんですよ。関東一高では全国制覇もしましたけど、チームメイトに佐々木、佐藤翔治って後の五輪選手が2人もいたので、僕はただ居ただけなんです。いや、本当に。

 
 
 
 
 リオセントロパビリオン4に金色の歓声が轟いた。
 松友・髙橋組は、5連続ポイントで世界の頂に立った。
 夢の瞬間を迎え、しゃがみ込んだ松友の手には、松沢との足跡の結晶が握りしめられていた。

 試合後、松沢はメディア対応に追われてもみくちゃになったゴールドメダリストと一瞬だけ会話を交わすことが出来た。
「もうダメかと思ったよ!」
「私もダメかと思いました!」
「ほんの欠片でも金メダルのサポートをできて俺は本当に幸せだよ」
「わがままばっかり言ってすいませんでした。でも、本当にありがたかったです」

 表彰台に上がった松友は、首から金メダルを掛けられると「重い」と言って隣の高橋に微笑みかけた。当然かもしれない。リオ五輪のメダルはオリンピック史上最も重い500グラムなのだ。77・2グラムにこだわった彼女には途方もない重さに感じられたに違いない。

 
 冬、12月4日。
 松友は高橋と代々木第2体育館のセンターコートに立っていた。
 全日本選手権決勝。前衛の松友を徹底的に後方へと追いやろうとする米元小春・田中志穂ペアのゲームプランに手を焼き、第1ゲームを失う。
 ペースを握り返せない中、なんとか第2ゲームを取ると、最終ゲームは一気に走った。途中、オン・ザ・ラインに見えた自分のショットをアウトと判定されても、松友はクスッと笑っただけだった。
 別にいい。勝てばいい。自分は勝つのだ。
 5度目の優勝が決まった瞬間も松友は一瞬だけ笑ったが、3秒後には無表情に戻っていた。


 夏を越えて、松友は松沢に言うようになった。
 勝ち続けたい。
 来年からは、蜘蛛の糸の成分を含んだ繊維を素材に用いたラケットが新しい武器になる。
 もう這い上がりたい場所など、世界のどこにもないはずなのに。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年、石川県生まれ。学習院大学在学時に雑誌「SWITCH」で編集を学び、2002年に報知新聞社入社。以来、記者として編集局勤務。運動第一部読売巨人軍担当などを経て、文化社会部に在籍。2010年より主催棋戦の女流名人戦を担当。2014年、NHK将棋講座テキスト「第63回NHK杯テレビ将棋トーナメント準々決勝 丸山忠久九段 対 三浦弘行九段『疾駆する馬』」で第26回将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞受賞。シリーズ「コーヒーと一冊」にて初となる単著『透明の棋士』を著す。

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