石井光太&寺子屋ミシマ社

2009年12月12日に始動した「石井光太&寺子屋ミシマ社プロジェクト」。
この連載は『戦争文化』をテーマとするノンフィクションが、今までになかった試みによってできあがっていくまでのノンフィクション・レポートです。今回は、いよいよ動き出したプロジェクトの一端をご紹介します。
(まとめ:三島邦弘)

第4回 プロジェクト始動!

2010.02.23更新

石井光太氏と寺子屋ミシマ社との共同プロジェクトが、いよいよ動き出した。前回、前々回にお伝えしたとおり、「寺子屋ミシマ社」参加者と石井さんを交えた「企画会議」を経て、これからつくっていく本のテーマが「戦争文化」に決まった。
寺子屋後、「本格参加」希望者を募ったところ、15名ほどのメンバーが手を挙げてくれ、本格スタートを切った。

早速、石井光太氏からの最初の指令が出る。
「プロジェクト最初の課題は、ネタ探しです。おもしろいネタをどんどん集めてください」

というものの、初めての「本のネタ集め」にとまどうメンバーたち・・・。
学術論文なみのレポートを書かなければと力む人、戦争には関係しているものの「戦争文化」とは無関係な企画を追おうとする人・・・。
これはちとまずい。
という判断のもと、2010年1月31日にあらためて集まった。
参加できたメンバー全員が、石井さんと「個別面談」。
そのとき、石井さんからはこのようなアドバイスがあった。

・タイトル
「戦争から○○は生まれた」

・概要
○○がどのような経緯で戦争から生まれたのかを説明。
書籍やウェブサイトの引用でも可能。
また、明確な根拠がなくても、「こんな記事あるよ」的な内容でOK。


「まずは、こうした枠に収まるよう、調べていってほしい」
石井さんからは、これまで参加者が調べた内容をまとめた「具体例」まで示してもらった。

・タイトル
「戦争によって聖火リレーは生まれた」

・概要
近代オリンピック 第39回ベルリンオリンピツクにおいて、アドルフ・ヒトラーが、国家的高揚と、国の力を見せつけるために始めた。
 
 
・タイトル
「戦争によって、缶詰とレトルトパックは生まれた」

・概要
1795、フランスではナポレオンが戦に走り回っている。
→でも当時はまだ食料保存技術が発達していないので、栄養失調・壊血病などで困る
→兵士の士気を保つためにも、栄養豊富で新鮮な食料が必要だった。
→缶詰の原理生まれる

*このころはまだ缶ではなく、瓶(1804,フランス)

その後瓶詰め製法はアメリカへ。
→南北戦争における兵士の携行食料として爆発的にヒット

日本は1841年から製造始める。(フランスから伝来)
→1877年、北海道でシャケ缶製造工場営業開始→専ら欧米への輸出。(10月10日は缶詰の日!)
→日清戦争をきっかけに国内での消費規模拡大。

缶詰製造からレトルトへ(1950〜,アメリカ)
1950年から、アメリカ軍が缶詰のオルタナティブを求めて研究はじめる。
→戦時の携行品として普及
(缶詰よりもかさばらない、缶切りがいらない、軽い、調理時間早い、食べたらポイ捨てできる)

レトルトの一般向け普及(1969,日本)
日本の「ボンカレー」のほうがアメリカでの一般普及より少ない。
1969年のアポロ 計画時にも宇宙飛行士の食事となっていたためか、ブームになったとか。



・タイトル
「戦争によって、紀州の梅干しはメジャーな食事になった」

・概要
江戸時代田辺藩下において竹や梅しか育たぬやせ地は免租地となることから、
農民は重税を免れる意味もあって梅を栽培した事が本格的な梅栽培のはじまりと言われています。
梅の栽培が急激に増加したのは、明治40年以降で、これは、日清(明治27年~28年)・日露(明治37年~38年)戦争による
兵糧食としての梅干需要の増加によるものでした。
当地方ではこの時期、現在の南部川村晩稲の内中源蔵翁(1865~1946)が不毛の地を開墾して梅を植え
加工場を設けて画期的な事業を起こしたと伝えられており、
この製法が周辺に広がり南部地方を中心として一大産地になったと言われています。

〈参考サイト〉
 http://www.kawamotokk.co.jp/knows.html


このような具体的アドバイスをもらい、参加メンバーも徐々にカンをつかみ出したのであった。
おそらくこの瞬間も、メンバーがあちこちで直接取材を行ったり、文献をあさったり、本プロジェクトの成功のため動いてくれている。
今回、メンバーの一人から出てきた「途中レポート」の一部をお伝えしたい。


≪O.E.さんによるレポート≫

●戦争から、日本の公的年金は生まれた。

恩給として知られている官公吏に対する年金制度は、明治8年の海軍の退隠令に始まっている。
1875年 海軍退隠令←朝鮮半島植民地化をめざす江華島事件
1876年 陸軍恩給令←士族反乱に対する武力弾圧(神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、思案橋事件)、日本最大の農民一揆三重騒動
1884年 管理恩給令

〈参考サイト〉
・「年金制度のあゆみ社会保険労務士 川口徹
公的年金の歴史
年金-Wikipedia
長崎県 公式サイト「恩給制度の歴史」ページ
年金制度とたたかいの歴史

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●戦争から、テーピングは生まれた。

テーピングの歴史は、古くはアメリカ南北戦争の時から使われたそうです。兵士が捻挫や骨折などのケガをした際に、梱包用テープで固定して歩けるようにしたのが始まり。その後、研究が重ねられて、運動機能が損なわれないように改良された。

〈参考サイト〉
 http://taping-pro.jp/information/index.html

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●戦争から、日本赤十字社は生まれた。

西南の役の時に起こった、博愛社という救護団体が日本赤十字社のもと。
(出典:『戦争とくらし事典』、編集:小原解子、柾屋洋子、岡澤あやこ
株式会社ポプラ社、2008年3月 第1刷。P79)

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●戦争から、会社合併は生まれた。

戦前、鐘紡が山口県の防府市に作った総合化繊工場が戦時中、陸軍の爆薬工場となり、戦後、大蔵省が管理し、日本セルロース工業に貸していたものを、鐘紡が返還を要求、日本セルロース側も、当時新製品が爆発的に売れ、会社も日の出の勢いだったためこれを拒否、ついに訴訟に持ち込まれたのであった。このため、藤田氏(藤田善啓・元満州中央銀行員)は笹山委員長(持株会社整理委員会)の特命を受けて鐘紡に乗り込み、同社にも非があると首脳部を説得、訴訟を取り下げさせ、とうとう両社の対等合併にまでこぎつけたのであった。これが、独禁法制定後の大会社合併第一号だっという。(出典:『満州中央銀行始末記 ー新国家建設に賭けた男たちの夢と挫折の記録』、武田英克著、PHP研究所、1986.8.4 第1版第1刷、p198〜199)

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●零戦製造会社から、自動車メーカーは生まれた。

零戦の製造機数の半分以上は、中島飛行機で造られた。中島飛行機は、敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体された。技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。

中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており、
□富士重工業 (SUBARU)
□リズム(中島飛行機浜松工場→富士精密工業→プリンス自動車工業→分離独立・リズムフレンド製造→リズム自動車部品製造→リズム)
□富士機械(中島飛行機前橋工場→富士機器→富士機械)
□輸送機工業(中島飛行機半田製作所→愛知富士産業→輸送機工業)
□マキタ沼津(中島飛行機三島工場→富士機械工業→富士発動機→富士ロビン→マキタ沼津)
□GKNドライブライントルクテクノロジー(中島飛行機栃木工場→栃木富士産業→GKNドライブライントルクテクノロジー)
□イワフジ工業(中島飛行機黒沢尻工場→岩手富士産業→イワフジ工業)

〈参考サイト〉
中島飛行機wikipedia

〈参考文献〉
『戦争とくらし事典』、編集:小原解子、柾屋洋子、岡澤あやこ、株式会社ポプラ社、2008年3月 第1刷。P92)

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●零戦から、YS-11旅客機は生まれた。

堀越二郎(三菱内燃機製造株式会社、現:三菱重工業)は、零式鑑上戦闘機の設計主任だった。戦後はYS-11旅客機の設計に参加した。

〈参考サイト〉
堀越二郎wikipedia

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●戦時中発行された「妊産婦手帳」から、母子健康手帳は生まれた。

1942(昭和17)年、厚生省が発行。この手帳を示すと、脱脂綿やガーゼ、栄養食品などを優先的に買うことができた。戦時下においても物資の優先配給が保証されるとともに、定期的な医師の診察を促すことを目的とした。

〈参考サイト〉
母子健康手帳wikipedia

〈参考文献〉
『戦争とくらし事典』、編集:小原解子、柾屋洋子、岡澤あやこ、株式会社ポプラ社、2008年3月 第1刷。P44)

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●軍用道路から、高速道路は生まれた。

近代道路における高速道路の歴史はまだ百年程度であるが、高速道路の原形ともいえる、くるま専用の高規格道路の歴史は、古く、紀元前のペルシャ時代までさかのぼる。
前六世紀半ばに築かれたペルシャ帝国は、西はヘレスポントス(ダータネル海峡)から東はインダスまで、北はコーカサスから南はナイルまでの広大な地域をその支配下に入れた。これは歴史上初の大帝国であった。この広大な帝国を運営、管理するための交通・通信体系としてペルシャの王たちが造ったのが、領土内の主要都市を結ぶ高速道路網であった、バビロンやアッシリアの時代から受け継がれた道路も領土内にあったが、より高規格な道路を必要としたのである。
ペルシャ時代の拘束道路は、純粋な軍用・行政道路であった。(出典:『道との出会い[道を歩き、道を考える]』、佐藤清著、山海堂、1991.10.25 初版、p138〜139)

【その他】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●戦争兵器は、現在のショッピングゾーンでも作られた。

【風船爆弾】
 風船爆弾は、東京有楽町の日本劇場(日劇、現・商業ビル「マリオン」)でも製作された(開発は、神奈川県の陸軍登戸研究所)。

これは、気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査するもの)のために、天井が高い建物が必要とされたため。日劇の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館でも製作された。他にも毒ガスの製造施設があり、機密性の高かった瀬戸内海の大久野島などでも製作が行われた。

風船爆弾(材質・材料は、和紙とコンニャク糊、苛性ソーダ液、水素)は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとした兵器である。太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、日本陸軍が用いた兵器で、「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。効果は僅少でほぼ無誘導であったものの、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった。

※風船爆弾の作戦終了後、余剰の和紙から、海軍の本土決戦用防毒マスクが作られた。これは、江戸時代の紙製雨合羽を国防色に染めたものであった。
※材料として、コンニャク芋が軍需品となったため、おでんのネタからコンニャクがなくなったという。
※水素ガスは、横浜、川崎の昭和電工で製造され、ボンベで郵送された。

〈参考サイト〉
風船爆弾-Wikipedia

※以上、提出されたレポートの主なものを抜粋した。

どれも目からウロコの情報である。
私たちの日常の周りにあるものが、こんなにも戦争から生まれているとは・・・。

戦争文化、とひとことで言ってもさまざま。
ウェブ雑誌という性格上、すべてを掲載することができないのが残念だが、O.E.さんのレポートでは、この何倍もの戦争から生み出された文化が記載されている。
どれもすぐれたものばかりだ。
O.E.さんの鋭い分析に感服する。

今後も、参加者からのレポートをどんどん掲載していく予定。
これを読んだ方で、「これも戦争が生んだものだよ」という情報があれば、一つや二つでも構わないので、ぜひお送りいただきたい。
また、途中参加のメンバーもひきつづき募集しているので、どしどし応募してほしい。
詳しくはこちらをご覧いただきたい。

次回も、鋭い途中レポートをお伝えする。

お便りはこちら

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石井光太(いしい・こうた)

プロジェクト主催者

1977年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部文藝学科卒業。
海外ルポを初めとして、国内外の文化、歴史、医療についての文章を多数執筆。
また、本や映画などについてのコラムや批評も手掛ける。執筆以外では、TVドキュメンタリの製作、写真活動、漫画やラジオ番組のシナリオなども手掛けている。

主な作品に、
『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』(新潮社)
『物乞う仏陀』(文藝春秋)
『絶対貧困−世界最貧民の目線』(光文社)
その他、共著に『ベストエッセー2007 老いたるいたち』(光村図書)などがある。
ペンネームでの著書は多数。

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