石井光太&寺子屋ミシマ社

2009年12月12日に始動した「石井光太&寺子屋ミシマ社プロジェクト」。
この連載は『戦争文化』をテーマとするノンフィクションが、今までになかった試みによってできあがっていくまでのノンフィクション・レポートです。参加者からぞくぞく届くレポートに編集部もうなるばかり。「あの文化」も戦争から生まれていたとは・・・。
(まとめ:三島邦弘)

第6回 プロジェクト始動!(3)――主婦レポート!

2010.03.16更新

力作レポートがめじろおしです! 今回は、お二人の主婦から届いたレポートです。

まずは途中参加ながら、興味深い調査をしてくださったS.A.さんから。
調査途中のものもありますが、おもしろい内容なので、このまま掲載します。

「○○は戦争から生まれた!」の○○に、こんなものが当てはまるとは!?
ぜんぜん知りませんでした。

≪S.A.さん(30代女性)のレポート≫

1. 文化・風習

●ねるとん(=集団見合い)
第2次世界大戦後、結婚適齢期の男性の激減、戦争で婚期を逸した男女の増加が社会問題となり、集団見合いが開催されるようになった。昭和22年11月6日、当時の結婚雑誌「希望」の発行元・希望社が読者のために多摩川畔で行った「花嫁・花婿の見合い大会」が初めての集団見合いといわれている(参加人数386名)。参加者は番号のついた札をつけ、気に入った相手の番号を書き留めて、後程事務所でその相手の学歴や財産を確認し、お見合いに持ち込むという手はずだったという。昭和23年4月8日の第二回目には4362名が参加するほどの人気だった。
尚、集団見合いを提言した日高孝次氏(海洋物理学者、1903年11月生-1984年8月没)は、昭和21年から昭和53年までの間、自宅を開放して若い男女の交流会(通称"日高パーティー")を行っているが、この交流会を「集団見合い」と認識するかについては見解が分かれている模様。

<参考資料>
・新人物往来社「戦後社会風俗史データファイル」
47NEWS
Wikipedia「日高孝次」

●遺影
明治中期には既に過当競争で廃業に追い込まれる写真屋もあった中、日露戦争で出征する兵士達が軍服姿の写真を「遺影」として家族に残していったことで、写真撮影の需要が急増した。
※もともと、日本には家族の肖像画や写真を飾る風習は無かったものが、日清・日露戦争のあたりから遺影を飾る文化が出来てきたようです。このあたりはこれから別の本を読んで確認します。

<参考資料>
・吉川弘文館「モノと子供の戦後史」天野正子・石谷二郎・木村涼子著

●西部劇
1945年11月17日、GHQにより「チャンバラ映画は軍国主義的である」との理由から上映禁止となる。その間、チャンバラに代わって上映されたのが白人が活躍する西部劇だった。


2. 保健衛生

●紙オムツ
第2次世界大戦末期のスウェーデンで開発。ナチスの経済封鎖によって綿花の輸入が止まり、綿布不足陥った為、政府指導の下自国の豊富な資源のパルプから紙オムツが考案された。

<参考資料>
・吉川弘文館「モノと子供の戦後史」天野正子・石谷二郎・木村涼子著

●使い捨て生理用ナプキン
第1次世界大戦において、包帯が血の処理に適していることに従軍看護婦が気づき、そのアイデアを1921年に米国Kimberly-Clark社が「Kotex」という名前で商品化したのが使い捨てナプキンの第1号。日本では、第2次世界大戦前までは脱脂綿や布を何度も洗って使っていたが、戦争により綿が不足した為、紙綿が代用として使われるようになった。日本製の使い捨てナプキンが登場するのは1961年。

<参考資料>
社団法人日本衛生材料工業連合会「ナプキンについて」


3. 日用品

●ランドセル
幕末に西洋式軍隊制度が導入された際、布製の背嚢が輸入され軍用に供された。それを、明治18年に学習院が生徒の学用品入れとして使いはじめた。「ランドセル」という名称はオランダ語で背嚢を意味する「Runsel(ランセル)」が訛ったものと考えられている。
現在のような箱型ランドセルは、明治20年に当時の内閣総理大臣、伊藤博文が大正天皇の学習院入学を祝して特注で作り、献上したものが始まりといわれている。

<参考資料>
・吉川弘文館「モノと子供の戦後史」天野正子・石谷二郎・木村涼子著
社団法人日本かばん協会ランドセル工業会「ランドセルの歴史」


4. 産業

●大阪府堺市の自転車産業
戦国時代以降、堺市は鉄砲鍛冶職人の町だった。明治時代に自転車が輸入されるようになると、修理や部品製造に鉄砲鍛冶の技術が生かされたことから、堺市は自転車製造で有名な町になった。現在は全国の生産量の約4割を占めている。

<参考資料>
堺市ホームページ


石井さんコメント
「力作ですねー。これほど面白いネタがあるとは!
遺影などの写真については、僕も別の本で読んだことがあるので、間違っていないと思いますよ。
たしか『工藤写真館の昭和』という本だったと記憶しています。カメラの普及とともに広がっていったんでしょうね。
生理用ナプキンも驚きです。そういえば、アフリカで戦争の取材をしていた時、面白い証言を聞いたことがあります。

その国では、ゲリラが村を襲って食べ物などを略奪するのですが、ゲリラたちは食べ物なんかと一緒に「布ナプキン」や、その代用品も略奪していったのだとか。
なぜかというと、ゲリラの中には、女性の兵士が多く交じっているんですよね。しかし、ゲリラとして生きていると、なかなかナプキンを手に入れることができない。それで村を襲った時、一緒に盗んでいくのだとか。

これを聞いた時、「なるほど、こういう面でも、女性は戦争に不向きなんだな」と思いました。ゲリラとして密林で暮らしている時に、ナプキンだの、生理痛だのに悩まされていたら銃撃戦なんてやってられませんからねぇ。
次回も、これに匹敵するほどのレポートを期待しています! 以前、戦争とお化けというネタでレポートを書いてくださった方がいましたが、それと同じく目の付けどころがすごく面白いです!」


つづいてN.K.さん(女性)が「戦争から生まれた食文化」というテーマでレポートをつくってくれました。かなりの力作ですよ!

≪N.K.さんのレポート≫

~戦争から始まった食文化~


[Part1:海外→日本]

●餃子
今や、外食チェーン「餃子の王将」を始め、居酒屋やラーメン屋の単品料理としても家庭惣菜としてもおなじみの餃子であるが、一般に普及したのは意外にも最近で、戦後からだという。
日本で初めて餃子を食べた人物は江戸時代の徳川光圀と言われており、また、大正時代までにも餃子を出す中華料理店もあり、料理書でも作り方は紹介されている。しかし、呼び方はチャオツなどで、「メリケン粉に包んだもの」や「焼いた豚饅頭」などという解説を付けなければならないほど、庶民には縁遠い存在であったようだ。一般の日本人が食べられるようになったのは満州で作り方を習得した人たちが戦後引き揚げてきて日本で作りだしてからであり、満州族の調理法である焼き餃子が主流となった。

また、焼き餃子の作り方も日本独自の方法が編み出されていて、日本式の焼き餃子では肉の臭みを消すためにニンニクを入れることが一般化しているが、中国ではニンニクを入れることはほとんどない。日本に餃子が伝わった当時は物資不足の為、豚肉ではなく羊肉(マトン)を使用していたため、臭みの強いマトンの臭い消しとしてニンニクが用いられた。その後豚肉がメインで使用されるようになってからも風味の良いニンニクが餃子とも相性がよく好まれたためか、今日も多くがそのまま具材として使用され続けている。

*宇都宮の餃子・・・ 全国でも餃子消費量No.1を誇る栃木県宇都宮市の餃子の始まりは、補充担任を宇都宮師管区とする陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれる。

*渋谷駅前に引き揚げ者マーケットが誕生。日本における餃子発祥の地。・・・ 「戦後はじめて、東京に出来た店に、ギョーザ屋がある。ギョーザ屋とは、餃子を食わせる店。むろん、これもシナ料理の一種だから、戦前にだって、神戸の本場支那料理屋でも食わせていたし、又、赤坂の、もみぢでは、焼売と言うと、これを食わせていたものである。尤も、もみぢのは、蒸餃子であったが。然し、それを、すなわち、ギョーザを看板の、安直な支那料理屋ってものは、戦後はじめて東京に店を開いたのだと思う。僕の知っている範囲では、渋谷の有楽という、バラック建の小さな店が一番早い。餃子の他に豚の爪だのニンニクたくさんの煮物だのが出て、支那の酒を出す。此の有楽につづいて、同じ渋谷に、ミンミンという店が出来・・・・。もともと支那料理だから、東京にも昔からあったものであるが、これは、高級支那料理とは違うし、又、所謂ラーメン看板の支那そば屋とも違って、餃子を売り物の、デモクラティックな店なのである。」(『ロッパ非食記』)

*有楽は戦前、重慶、北京にいて、敗戦によって引き揚げてきた日本人と中国人の夫婦が始めた餃子屋。 餃子屋の大半は中国からの引き揚げ者、日中の結婚組であった。

<参考資料>
Wikipedia 餃子
・『近代日本食文化年表』小菅桂子(雄山閣) P.186-187

●ランチョンミート(沖縄)
現在の沖縄料理に強い影響を与えているのが戦後24年間続いたアメリカ統治。戦後、アメリカ本国から続々と送られてくる大量の物資や食材を通して、アメリカの食文化は沖縄のこれまでの食習慣を大きく変えてしまった一面がある。

そのひとつがランチョンミート。沖縄県では「ポーク」と呼ばれて多用されている。チャンプルーなどの惣菜にはこのランチョンミートが使われることが多い。いわゆるポーク缶詰であるが、豚肉のミンチを加工したもので、ハムやソーセージのこま切れをうすい塩味でこねて、かたまりにしたようなイメージの食材だ。このポーク缶、沖縄県内では大変な人気ぶりで、日本に輸入されているポーク缶詰の実に9割を沖縄県内で消費しているという。沖縄家庭料理の定番食材としてどの家庭でも常に数缶は常備されているという万能缶詰なのである。

「ポーク」は戦後食糧難のころ、豚肉の代用品として米軍経由で広まったとされている。もともと豚肉好きという食文化を持つ県民性に支えられて、日常のおかずにも多用されるなど、現代沖縄料理では欠かすことのできない食材となった。
代表的なレシピに「ポーク玉子」がある。沖縄では大衆食堂の定番メニューで、薄切りにしたポークの両面を焦げ目がつく程度焼き上げたものに玉子焼きとサラダを添えただけの、きわめて簡単な単純メニューである。

この他には、ゴーヤーチャンプルーなどの炒め物に肉の代用として使われてみたり、両面を焼いたポークをパンにはさんでポークサンドに、ご飯ではさめばポークおにぎりのできあがり。細かく刻んでチャーハンの具に、短冊切りにして味噌汁に入れるなど、実にさまざまな料理に使われることが多い。

本土では、沖縄物産店や輸入食料品店などの店頭には並んでいるが、一般的な食材としては定着していない。また、米軍からの配給が元となって、日本(特に沖縄)や韓国などのアジア諸国にも利用する地域が増えているという。

<参考資料>
Wikipedia ランチョンミート
沖縄のポークランチョンミート

●タコライス(沖縄)
1980年代に沖縄県で誕生したいわゆる「ご当地メニュー」。急速に県内に広まり、レトルトメニューが開発されたりコンビニメニューになったり、1990年代からは学校給食に採用されるなど、非常に一般的な料理となっている。

第2次大戦後にアメリカ軍の統治下に置かれた際、米兵達が持ち込んだ文化の一つにメキシコ料理があった。メキシコ料理をアメリカ人好みに食べやすくした「Tex-Mex料理」は、アメリカのテキサス州やカリフォルニアなどで非常に人気があり、その「Tex-Mex料理」のひとつであるタコスが、米軍統治下時代の沖縄に持ち込まれ、米軍基地周辺のレストランを中心に、次々とメニューに加えられていった。

タコスは、スパイシーに味付けしたひき肉、野菜、チーズ、サルサソースなどを「トルティーヤ」と呼ばれるトウモロコシを原料としたシェル(皮)にくるんだりはさんだりして食べる、伝統的なメキシコ料理。そのタコスの皮の代わりにご飯の上にタコスミートやチーズなどの具材をのせたものが「タコライス」である。
タコライスは、1984年に沖縄県金武町キャンプハンセンの第1ゲート前に広がる、新開地繁華街という飲食店街に軒を連ねていた「パーラー千里(せんり)」で生まれたといわれている。
「パーラー千里」でタコライスが生まれた背景には諸説があり、

① 若い軍人は手軽に食べる軽食のタコスでは山ほど食べないとお腹いっぱいにはならない。それなら、思い切って「ごはん」の上にタコスミートとチーズなどをのせてみてはどうだろう? と、冗談半分で話したことがキッカケになり、「タコライス」が誕生したという説

② 「タコス」は皮を作ったり具材を入れたりするのに、どうしても手間や時間がかかってしまう。忙しい軍人相手に、手早くできて、ボリュームがあって、なおかつ安上がりなメニューはないものかと考えて、主に調理のスピードアップとコストダウンを狙って出来たという説

③ 「タコス」を販売していた従業員の「まかない食」として誕生。最初はお店に出す予定はなかったが、従業員の間であまりにも好評だったのでメニューに加えられて、その後定番になった.という説

④ 当時は円高経済で、今まで外食を楽しんでいた米兵が節約志向により外食を控える傾向にあったため、「パーラー千里」ではタコスミートを利用してメキシコ料理のタコスよりもボリュームを出してコストパフォーマンスのよいメニューを考えた結果生まれたものという説
などがある。

<参考資料>
タコライスとは[タコライスタウン]
タコライスファン
Wikipedia タコライス

●マカロニ、パスタ類
喫茶店、学校給食や学生食堂、社員食堂などでも広く親しまれているパスタ料理。日本国内でパスタ類が家庭でも食べられるようになったのは戦後から。学校給食が大きく影響しているという。
日本で初めてパスタが作られたのは明治16年(1883年)頃、フランス人宣教師が長崎にマカロニ工場を建設し、製造したのが最初といわれている。昭和初期から国産化が進んだが、当時はまだ珍しく、ホテルや一流レストランでしか口にできない高級料理であった。

昭和21年末、アメリカ軍の占領地域救済援助資金(ガリオア資金)によって小学校給食が始まると、缶詰牛肉、スキムミルク、ジュースなどに交じってマカロニも入ってきた。
『海軍食グルメ物語』の著者、高森直史氏も、学校給食で初めてマカロニを口にしたそうだ。

「筆者の疎開先の熊本で小学二年のときはじまった学校給食では、初日は缶詰牛肉(フレーク状だった)、とうもろこし粉(粗挽きだった)に生徒が持ち寄った野菜を入れたごった煮の中にマカロニが入っていた。全国一斉給食なので標準レシピがあったのだろう。・・・田舎の学校の事、マカロニを見るのもはじめてだった。みんな面白がってマカロニの穴に箸を通して食べていた。」

本格的なパスタが国内で生産されるようになったのは、昭和30年から。イタリアから全自動式パスタ製造機が輸入されるようになり、数社の大手製粉会社で大量生産が始まった。この年を「パスタ元年」ともいうそうだ。
30年代後期には文部省通達で学校給食にマカロニ、スパゲッティが採用された事もあり、まず始めにマカロニから、そしてスパゲッティ、パスタ全体と、消費が拡大していった。

<参考資料>
パスタの歴史
パスタ
・『海軍食グルメ物語』高森直史著(光人社) P.85-86


石井さんコメント
「餃子の中の「ニンニク」が戦争と関係していたとは! なるほど。
これから餃子を食べるときは、はるか中国へ渡っていた日本兵に思いを巡らすことにしましょう。
世界の国々は、たいていどこかの植民地になったり、占領されたりした歴史があります。そのため、食生活はそうした歴史に大きく左右されています。

アフリカ諸国では、国境ひとつちがうと、こっちはイギリスの植民地、こっちはイタリアの植民地、こっちはフランスの植民地となっており、食生活も全然ちがう。イギリスの植民地だと紅茶やフィッシュ&チツプスしかないけど、イタリアの植民地だったエチオピアなんかはエスプレツソやピザがある。フランスの植民地はいわずもがな、です。

日本を一通り調べたら、世界のこうしたトリビア的な戦争食文化について考察してみても面白いかもしれませんね。
たとえば、ビスケットについて以下のような情報があります。

ビスケットはフランス語の「ビス」と「キュイル」からきており、「2度焼きした」という意味です。16世紀、航海用の食料として焼かれたのがビスケットの起源です。保存がきくように、2度も焼いて乾燥させたわけですが、とても硬くて多くの船乗りは歯を欠いてしまったとか。粉にしてお粥としてたべることもあったそうですが・・・味は最悪だったようです。(現代に生まれて良かった!)日本では日清戦争の際、干飯とビスケットを兵士に携帯させ、どちらが携帯食に良いか比較したそうですよ。」

このように、世界の様々な有名な食文化の起源を「戦争」という観点から掘り起こしてみると、意外な話も見つかるかもしれません。
日本の食文化と戦争のかかわり方を調べる一方で、少しずつ海外の有名な食文化と戦争にまつわるエピソードも調べてみてくださいね。再び素晴らしいレポートを期待しています!」


S.A.さん、N.K.さん、ありがとうございました!
第2回レポートも楽しみにしています。

今後も、このように、参加者からのレポートをどんどん掲載していきます。
これを読んだ方で、「これも戦争が生んだものだよ」という情報があれば、一つや二つでも構わないので、ぜひお送りくださいませ!
また、途中参加のメンバーもひきつづき募集しているので、どしどし応募いただければうれしいです。
詳しくはこちらを!

次週も、参加者による途中経過レポートをお送りします。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

石井光太(いしい・こうた)

プロジェクト主催者

1977年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部文藝学科卒業。
海外ルポを初めとして、国内外の文化、歴史、医療についての文章を多数執筆。
また、本や映画などについてのコラムや批評も手掛ける。執筆以外では、TVドキュメンタリの製作、写真活動、漫画やラジオ番組のシナリオなども手掛けている。

主な作品に、
『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』(新潮社)
『物乞う仏陀』(文藝春秋)
『絶対貧困−世界最貧民の目線』(光文社)
その他、共著に『ベストエッセー2007 老いたるいたち』(光村図書)などがある。
ペンネームでの著書は多数。

バックナンバー