石井光太&寺子屋ミシマ社

2009年12月12日に始動した「石井光太&寺子屋ミシマ社プロジェクト」。
この連載は『戦争文化』をテーマとするノンフィクションが、今までになかった試みによってできあがっていくまでのノンフィクション・レポートです。
現在、参加者からぞくぞくレポートが届いています。「あの文化」も戦争から生まれていた! ご存じでしたか?
(まとめ:三島邦弘)

第7回 プロジェクト始動!(4)――食文化から怪談まで

2010.03.23更新

今週もノンストップでお届けしましょう!
さっそく一人目です。愛知在住のS.A.さん(先日の方とは別の女性)からのレポートをどうぞ。

≪S.A.さん(先日の方とは別の女性)によるレポート≫

戦争と食文化、食産業~アメリカ派生編~

●ラムコーク(キューバリブレ)は戦争から生まれたカクテルである。
1898年、キューバをスペイン植民地から「解放」するために開戦したアメリカは勝利を収めた。(米西戦争)その当時、キューバの首都ハバナのバーで、ある米兵が祖国から持ってきたコカコーラと現地のラム酒バカルディを混ぜて作られたのがラムコークであった。彼らはキューバの解放を祝して「キューバリブレ」(「キューバの自由」の意)とそのカクテルを名づけ、人気のカクテルとなった。

その後、キューバにもコカコーラが進出したが、1950年代末、キューバ革命が起こりアメリカ資本は撤退した。そのとき、亡命したキューバ人の中にのちにコカコーラ社の社長となるロベルト・ゴイズエタもいた。アメリカの文化とキューバの文化がミックスして生まれたカクテルは、皮肉にも国家間の都合により引き裂かれる結果となった。現在、キューバで飲まれるキューバリブレには国産コーラが使われている。

●戦争によってネスレ社は大きく売上を伸ばした。
乳製品の会社として始まったネスレ社は、第1次大戦時にドライミルク(粉末牛乳)の需要が一気に伸び、大戦直後の生産高は2倍になった。しかし、その後、生乳にシフトが移り売上ががくんと落ち込んだ。が、第2次世界大戦でネスレ社が開発したインスタントコーヒーのネスカフェが米軍に支給される戦闘食の中に組み込まれたことによって、売上がまた大幅に伸びた。

ネスレは、この2つの戦争によって成長した企業といえる。(ちなみに最初にインスタントコーヒーを発明したのは、20世紀初め、シカゴで研究をしていた日本人である。ネスカフェはその技法を改良して作られた。また、南北戦争当時もコーヒーが戦闘食のメニューにあったが練りコーヒーだったらしい。)

●戦争によってミニッツメイドは誕生した。
ジュースのメーカーとして有名なミニッツメイド。その起源は、第2次世界大戦に遡る。ナショナルリサーチコーポレーションという研究組織がオレンジジュースの粉末化の開発に取り組み、米軍のレーション(軍用の配給食糧)として政府と契約を交わした。しかし戦後は、粉末ジュースではなく、オレンジの濃縮還元の技法を生み出し「ミニッツメイド」(すぐにできる)と名づけ一般消費者向けに売り出した。現在では、世界各国で見られるジュースメーカーのひとつである。

●ファーストフードチェーンの『サブウェイ』は軍事用語から来ている。
日本でサンドウィッチといえば食パンに具材を挟んだものを想像するが、アメリカでは大きなバゲット状のパンに野菜、ハム、チーズ、ピクルスなどを大量に挟んで食べるものを指す。これは、アメリカのファーストフードチェーンの「サブウェイ」の影響が大きいが、もともとこのバゲット形状のものは「サブマリン(潜水艦)サンドウィッチ」と呼ばれている。見た目が潜水艦のような形をしているからだが、このサブマリンサンドウィッチの起源には諸説ある。

① 第1次大戦が始まったとき、港町ボストンのレストランで大戦に参戦する海軍兵のために作られた。
② コネチカット州にある米国最大の潜水艦工場で働く人々の間で食べられた。
③ ニューヨークのあるイタリア移民が自らのグローサリー店で売り出した。
③ 以外は、戦争関連がもとになっている。

サンドウィッチの『サブウェイ』は、1960年代に創業。実はこの名称は「地下鉄」の意味するのではなく「サブマリンサンドウィッチ」に由来している。(サブマリンサンドウィッチのことを「サブ」とも呼ぶ。)

●チョコレートで有名なハーシーズは戦争によって飛躍した。
チョコレートで有名なアメリカのHERSEY'S。チョコレートのエネルギー補給の高い効果から1937年から米軍の配給食糧のメニューに加えられた。ハーシーズは軍用に戦地の気温の高さでも溶けにくいチョコレート「トロピカルバー」を開発。1943年から第2次世界大戦が終わるまでに3億8千万本のトロピカルバーが様々な戦地にいる米軍に届けられた。

また、戦地での緊急時用に開発されたチョコバーは甘くなく「茹でたじゃがいもより少しマシな」味が目指された。これは、美味しいチョコレートだと兵士が食べたいときに食べてしまい、必要なときになくなってしまうのを懸念してのこと。そのため食欲をそそらないチョコレートが生まれたのだった。また、湾岸戦争時には「砂漠の嵐作戦("Operation Desert Storm")」にちなんで"Desert Bar"(砂漠のチョコバー)が配給された。このようにして戦争を通してもハーシーズは発展してきたのだった。

●戦争によって韓国のプデチゲは生まれた。
韓国の鍋料理のひとつに「プデチゲ」というものがある。キムチチゲの具にソーセージやハムが入っているものだ。これは、1950年代の朝鮮戦争に起源がある。当時、南側(韓国)について参戦した米軍が持っていたランチョンミートの缶詰が韓国人の手に渡りキムチチゲの具材として使われた。ちなみにプデチゲは漢字では「部隊チゲ」と書く。まさに国と国の戦争によって生まれた食文化である。

●戦争によってイラクのペプシの味が変わった!?
イラクにおけるペプシの歴史は長い。1950年にペプシ社がイラクに参入。ペプシはイラクで愛される飲料となった。1984年には、バグダッド・ソフトドリンク社という飲料会社がペプシのフランチャイズとして販売ライセンスを獲得しビジネスを広げていた。

しかし、1990年のイラクのクウェート侵攻により経済制裁が始まる。これによりライセンス契約が無効になったのだが、イラク国内では大量のペプシボトルを保持していたのでペプシの製造が続けられていた。つまり、90年以降のペプシは厳密にいうと偽物ということになる。
また、経済制裁によって砂糖が配給制になり不足したことから、一時的に甘味料が一切入っていないペプシが出回ったらしい。その後、イラク戦争に突入、サダムフセイン体制崩壊後の2004年、ペプシ社はイラクに再参入。製造工場が作られた。


うーむ、奥がふかい。言われてみるとそうかも、と思いますが、90年以降イラクのペプシは偽物なんてこと、普段は考えないですよね。S.A.さん、目のつけどころがいいなぁ。


石井さんコメント
「今回も、二作とも傑作ですねー。すばらしい!
S.A.さんは英語が達者ということで、主に海外の文化を調べられているようですね。海外ネタをどんどん盛り込んでいきたいので、S.A.さんには期待しています!
三島さんがご指摘されたように、コーラ、面白いですね。
イランなんかでも、コーラの移り変わりはあるようです。戦争といえるかどうかは微妙ですが、イラン革命というのがありました。簡単にいえば、反アメリカ・イスラム主義樹立を目指した革命でした。これによって、アメリカの多くの企業がイランから撤退しました。

ただ、当時イランではペプシやコカ―ラの人気が根強くありました。イラン革命、反米は認めるけど、やっぱりコーラは飲みたい。
そこで、イラン政府は工場跡に別の飲料工場をつくり、偽コーラをつくったのです。これが「ザムザム」と呼ばれるコーラです。いわゆる、ザムザムコーラ。
今もイランに行くと、ペプシやコカコーラは存在せず、このザムザムコーラが流通しています。コーラを見ることで見えてくる世界の歴史っていうのもあるんですよね。
ちなみに、戦争とは関係ありませんが、ペルーには「インカコーラ」という黄色い偽コーラがあります。
 これからも、S.A.さんにしかできない「海外の視点」でのレポートをお願いします。期待しています!」


つづいては、I.M.さん(女性)。二種類のレポートをまとめてくれました。
最初に「ワビ」系をどうぞ。

≪I.M.さん(女性)によるレポート≫

●唐津焼、萩焼、有田焼は戦争から生まれた。(参考抜粋:高麗博物館 文禄・慶長の役と日・朝の陶磁 資料)
文禄慶長の役は「やきもの戦争」といわれている。多くの朝鮮陶工を連行して来たからである。それまで日本は石を焼くという技術を持っていなかった(土を高温で焼いていた)が、1600年時点で朝鮮やベトナムでは磁器が作られていた。

日本ではお茶が盛んであり、朝鮮から舶来された茶碗が重宝されていた。日本の各大名は、朝鮮の陶工を計画的に自国に連れ帰り(一部例外はある)、焼物の生産に従事させた。 このため朝鮮半島の焼物の生産はとまり、粉青沙器(ふんせいしゃき:朝鮮の焼き物。陶磁に白土で化粧し、その上に透明釉薬をかけたもの)や白磁の技術が途絶えてしまったほどだった。

一方、九州、山口各地ではそれまで窯は殆どなかったが、朝鮮陶工によって盛んに焼かれ始め、山口の萩焼、北九州の上野焼・高取焼、嵯峨野唐津焼・有田焼、長崎の波佐見焼、鹿児島の薩摩焼(一部の窯は略)などが始まった。 それまでは、唐物茶碗が主流であったわび茶は、朝鮮陶工達の開窯によって高麗茶碗が主流となる。

わび茶に最も相応しい高麗茶碗は家5軒分の金銭で取引されていたともいわれている。高麗茶碗は、朝鮮陶磁の主流である高麗政治や朝鮮白磁ではなく、傍流である粉青沙器の系統に属する。しかも大部分は民窯で焼かれた日用品であった。どこにでもある「普通」の茶碗が、茶人によって「特別」なものになった背景には、高麗茶碗が「わび」「さび」を茶の美と考えるわび茶の条件を満たしていたことがある。

1 茶碗に必要な条件(抹茶がたてやすくの見やすい形、大きさ、重さ、抹茶の色を引き立てる色合い)を備えていたこと。
2 素朴さが「わび茶」の美に通じたこと。
3 使う程に色がかわり、新しい美の創造(茶人が求める「道」)にかなうこと。
追記:更に朝鮮侵略では、戦争末期、武器や砲丸をつくる為に朝鮮人が日常に使用していた真鍮の鍋、食器、スプーン、はし、教会の鐘までも強制的に供出させた。よって日本と朝鮮の陶芸は真逆の歴史をたどることとなった。


つづいては、「怪談系」。実際に、山口敏太郎先生という方に取材をおこなってあげてくれたレポートです。夏には早いですが、ぞくぞくっときますよ。

●赤マントの怪談は戦争から生まれた?
赤いマントを着た怪人がやって来て、子供を殺すと言う怪談がある。赤いマントか青いマントか〜と尋ね、赤いマントと答えるとナイフでめった刺しに、青いマントと答えると首を切られるというもの。 この赤いマントは、中橋基明の将校マントの赤い裏地がもとになったのではないかという説がある。

中橋基明は、大日本帝国陸軍の軍人。1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。愛用の将校マントの裏地は、203高地における乃木希典将軍の赤マントを意識して総緋色で仕立ててあり(本来は表地と同色)、当時の陸軍で、「近衛師団、中橋の赤マント」を知らなかったものはいなかったらしい。

赤マントは乃木将軍を意識してあるだけでなく、敵または味方から血の色を気取られぬようにする、自ら敵の標的となって戦う、といった理由もあった。 因に、この赤いマントの怪談は時を経て、「赤いマント青いマント」「赤い紙青い紙」最近ではサカキバラ事件の影響で「黒いマント」に変化した。(山口敏太郎先生談
しかし、赤マントの起源にはいくつも説があるので、戦争から生まれたと断言しづらい。

東京谷中で起こった少女暴行殺人事件と、当時流行した紙芝居の演目のひとつ『赤マント』(加太こうじ作)が混ざったという説がある。紙芝居『赤マント』は芥川龍之介の『杜子春』を下敷きにしており、赤マントを着た魔法使いの紳士が靴磨きの少年を弟子にするという差しさわりの無い物語だったが、作り話の余波により大阪ではこの紙芝居が警察に押収される騒ぎとなった。 他にも『少年倶楽部』に江戸川乱歩が連載した『怪人二十面相』がモデルであるという説や、旧制高等学校の学生のマント姿が、子供には怪人として映ったのではないか、という説もある。(紙芝居昭和史/加太こうじ

さらに、赤い紙青い紙という似た怪談があり、これは韓国でも有名な怪談である。 稲川淳二さんの怪談には、赤い半纏というものもある。

赤い半纏の舞台は終戦直後の学校とされ、怪異の起きたトイレでは「あかーい半纏着せましょか♪」と歌が聞こえていたという。稲川が後に明かした裏話によれば、この話の元は、稲川がパーソナリティを務めたラジオ番組の怪談特集に際し、年配の女性リスナーから寄せられた自らの体験談だという。稲川が後に独自に調査してみると、この学校は、戦時中は神風特攻隊隊員の寮として使われていたらしい。終戦後、ここへ特攻隊員の母親が訪れた。トイレへ行ってみると、そこには、出撃直前に隊員たちが記念に書き残した自分の名前がたくさんあった。その中に自分の息子の名を見つけた母親は、その場で自ら命を絶ったという。その母親の怨念が、「赤い半纏」の声の正体ではないかというのが稲川の見解である。(Wikipedia 赤い紙、青い紙

戦争によって生まれた妖怪〜山口敏太郎先生によるお話
「戦争は個をなくす。ターゲットとして殺すので氏名がなくなり、妖怪化する。 おじは、戦闘機の翼にしがみつき壊そうとする空坊主を見た、と話していた。酸素がない故の幻覚かもしれない。徳島の父方の祖母は、空襲で山に隠れると、神社のまわりだけ焼夷弾の軌道がそれたという話をしていた。新潟佐渡島には「戦争の歓声のような声が空から聞こえる、刀が落ちてくる」という幕末〜明治の話が残されており、神々の戦い、神兵の戦いと呼ばれている」

戦争によって生まれた怪談〜山口敏太郎先生によるお話
「軍隊には、イジメや逃走ネタが多く、自殺にまつわる怪談が多い。
津田沼の鉄道連隊鉄隊が駐留していた頃は、新兵が門番に立たなければならなかった。上官は新兵の持ってた銃の錫杖を井戸に投げ込み、「天皇陛下からもらった銃だから飛び込んでとって来い」と泳げない新兵を突き落としてしまった。それから、夜な夜な溺れ死んだ新兵の「錫杖よこせー」の声が聞こえるという。その後、軍隊の配置換えで各隊に広まり、今でも自衛隊の間で怪談となっている」

「第二次世界大戦中、現在京成大久保駅付近に軍隊の駐留する基地があった。毎日厳しい訓練で大勢の兵隊が鍛えられていたのだが、その部隊に、元来兵隊にむかないおとなしい気質の新兵がいた。基地から3、4回脱走しては捕まり、強制的に連れ戻されていた。 そんな過酷な軍隊生活の中で、楽しみといえば食事時ぐらいで、特に戦時下での卵はご馳走であったという。 その新兵は特に、卵が出る日を心待ちにしていたらしいが、その後軍隊での過労により死亡してしまった。遺体を家族が引き取りに来るまで、同僚が遺体安置室で見張りに立つ事になった。 しかし、何故だか見張りに立つ者がことごとく高熱を発してしまう。祟りではないかと部隊の中でも評判になってしまった。遺体が実家に引き取られた後も、幽霊は出没し、仲間を震撼させたと言われている。特に卵の出る食事時に幽霊が出たという」(山口敏太郎さんによる詳細記事

「日大の近くに、ぼうこんざくという深い谷のようになったところがある。 エリート部隊の厳しいところで、逃げ出しても田舎にも帰ることができず、首をつる兵が多かった。 谷底から死体が這いあがってくるという怪談がある。矢矧軍艦で赤痢が流行り、死体をまとめて一部屋に入れなければならなかった。その部屋の丸窓からは幽霊が這いずり出てくる(落ちてくる)そうである。 日本軍の中には、撃っても撃っても死なない兵士がいたといわれている。 これに似た話は各国にあり、ゴーストソルジャー、天使の兵隊、骸骨兵隊などといわれている」


うーーーー、おそろしい!
これは、I.M.さんの個人的趣味が大爆発した、渾身レポートですね。おもしろい。


石井さんコメント
「これまた、斬新な視点で興味深いですね。
僕も、戦争によって生まれた迷信には非常に興味を抱いて、調べたことがあります。
『死なない兵士』のほか、『暗闇でも目が見える兵士』『ワープできる兵士』『見えない兵士』という話もあります。
面白いのは、こうした話は、昔からどこの国でもあったことです。以前、ミャンマーの内戦における迷信を調べたところ、太平洋戦争中に日本兵の噂としてあったものと、ほとんど同じだったことがあります。

つまり、戦争において生まれる迷信というのは、どこの国でも共通するのです。戦争における恐怖心というところから生まれているので、どうしても似てくるんでしょうね。
山口さんは、僕が大学を卒業したばかりの頃からの知人でもあります。なんにせよ、専門をもっている方にインタビューすると、本当にいろんな情報が得られますし、視野が一気に広がります。
この企画を通して、是非「取材の面白いさ」をつかんでください! I.M.さんの独自の視点は輝いていますよ」


今後も、このように、参加者からのレポートをどんどん掲載していきます。
これを読んだ方で、「これも戦争が生んだものだよ」という情報があれば、一つや二つでも構わないので、ぜひお送りくださいませ!
また、途中参加のメンバーもひきつづき募集しているので、どしどし応募いただければうれしいです。
詳しくはこちらを!


参加者と参加希望者の方々へ――
プロジェクト・ミーティング第2回 決定!

2010年4月10日(土)16時半より、戦争文化プロジェクト・ミーティングを石井光太さんとともにおこないます。
ふるってご参加を!
一緒に、どんどんおもしろい企画にしていきましょう!!

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

石井光太(いしい・こうた)

プロジェクト主催者

1977年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部文藝学科卒業。
海外ルポを初めとして、国内外の文化、歴史、医療についての文章を多数執筆。
また、本や映画などについてのコラムや批評も手掛ける。執筆以外では、TVドキュメンタリの製作、写真活動、漫画やラジオ番組のシナリオなども手掛けている。

主な作品に、
『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』(新潮社)
『物乞う仏陀』(文藝春秋)
『絶対貧困−世界最貧民の目線』(光文社)
その他、共著に『ベストエッセー2007 老いたるいたち』(光村図書)などがある。
ペンネームでの著書は多数。

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