石井光太&寺子屋ミシマ社

2009年12月12日に始動した「石井光太&寺子屋ミシマ社プロジェクト」。
この連載は『戦争文化』をテーマとするノンフィクションが、今までになかった試みによってできあがっていくまでのノンフィクション・レポートです。
現在、参加者からぞくぞくレポートが届いています。「あの文化」も戦争から生まれていた! ご存じでしたか?
(まとめ:三島邦弘)

第8回 プロジェクト始動!(5)――イラクの食が変わる日

2010.03.30更新

皆さんにとって、「戦争」といえば何戦争でしょうか?
第2次世界大戦、ベトナム戦争、アフガン戦争・・・さまざまな答えが返ってくることと思います。1975年生まれのぼくにとってそれは、「湾岸戦争」となります。まよいなく。
なぜなら、それは中学生のぼくがリアルタイムで「開戦」を見聞きした「はじめて」の戦争だったからです。1991年1月17日のことでした。
その後、2001年の9・11を経て、2003年にはイラク戦争が勃発したことは周知の事実です。
その戦争の現地であるイラクでは、戦争のたびにどのような変化がおきてきたのか?
今回、Y.R.さん(男性)が、そういう視点から、特に「食」に焦点をあてる形でレポートをまとめてくれました。

イラクの食が変わる日

イラクの人たちは、なにを食べているのだろうか。イラクという国を想像すると、物騒なことしか聞かれないし、実際物騒だ。どうもイラクが身近に感じられない、そんな思いがありました。そんなときに、ミシマ社さんの戦争文化プロジェクトに参加させてもらい、いろいろ調べていくうちに食に関することが面白いのではないかと思い、イラクの食文化の変遷を調べることにしました。イラクの豊かな食文化を紹介するとともに、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争によって、イラクの食はどれだけ影響を与えたのかをお伝えしたいと思います。

第1章 イラクの人たちの日常

イラクの国土の真ん中には、チグリス川とユーフラテス川が走っていて、イラクが古来より「二つの河の間」、つまりメソポタミアと呼ばれていました。そのチグリス川には、鯉が住んでいます。シャブートあるいはブンニと呼ばれる鯉の一種で、大きなものになると全長一メートルにもなるそうです。

この鯉を使ったイラク料理が、マスグーフです。魚を背開きにして、よく洗い、塩をすりこんで洗う。土の上に薪で火をおこし、魚の皮と肉の間に串を刺し、土に突き刺す。身の方を火にあぶるようにし、よく焼く。そして特製のソースを作り、よく焼いた魚に、ソースをかけて温かいうちに食べるのがイラク式。日本の焼き魚は、そのまま串にさして焼いて食べる場合が多いですが、イラクの焼き魚には独特のやりかたで焼き魚を楽しんでいました。

首都バグダードの川沿いには、シャブートを乗せた荷車が行きかい、川沿いには焼き魚専門の屋外レストランが立ち並びます。脂の乗ったホッケの開きのようなマスグーフに、アンバーと呼ばれるマンゴーのピクルスを乗せて、ぱりぱりしたピザ生地のような焼きたてのホブズというパンに挟んで食べるという。魚とパンの香ばしさに、アンバーの甘酸っぱさが混じって、手を滴る脂だらけにしてほおばることになります。

この川べりのレストランでいくつもの焚き火と魚を焼く匂いが漂うのがバグダードの夕食時の風物詩でした。アブー・ヌワース通りという、アッバース朝時代の詩人からちなんでつけられたこの通りは、マスグーフを食べさせてくれるレストランが立ち並ぶ有名なストリートです。バグダードに住む人たちは、川べりの通りに行って仕事で疲れた身体を休め、おいしいマスグーフを食べて明日を豊かなものにしていたにちがいありません。

第2章 イラン・イラク戦争とアンバル米

イラク料理には、クッバ・ハラブというお米を使った料理がある。ただ、これが一風変わっていて、炊きあがった米をすり潰して団子状にし、中にひき肉や干し葡萄が入れて油で揚げるというものです。まさにイラク版おにぎり。これは日本でもできそうな食べ物ですね。イラクの人たちはこのクッバを持って出かけて、お昼になったら食べる光景が目に浮かびます。僕もよく母におにぎりを持たされ、学校に通ったものです。イラクでも日本と同じような光景があったのではないでしょうか。

日本では米の種類は数多くありますが、イラクではアンバル米という品種がポピュラーです。チグリス・ユーフラテス河下流の水郷地帯がかつての穀倉地帯があり、アンバル米はそこで生産されていました。このアンバル米がイラクの南部にあるということもあって、クッバも南部ならでは料理だと言えます。

しかし、アンバル米がイラクの人の口に入らなくなってしまいました。1980年から始まったイラン・イラク戦争はもっぱら南部地域が主戦場となり、農民の多くは兵士として徴兵された他、戦線から逃れた脱走兵のゲリラ活動の場にもなり、農地は荒れ果ててしまいました。塩分の強いこの土地でお米を作るには、資金のかかる灌漑システムと塩害対策が必要で、くりかえされる戦争で農地は荒れはて、塩がまっしろに地表をおおう状態が続きました。イラク戦争後の今、アンバル米は貴重な外貨獲得源として輸出にまわされてしまい、国内でなかなかお目にかかれない状態がつづいているようです。米が手に入らなくなってクッバを食べる機会が減ってしまったのでしょうか。

第3章 湾岸戦争と肉料理

アラブ世界では、料理に肉がたくさん使われているかどうかが、豊かさの判断基準になっていることが多いそうです。イラクでは、クーズィーと呼ばれる、トマト味のシチューをご飯に乗せるパターンの料理が一般的なのですが、そこにどれだけ肉が入っているかにイラクの人たちは見得を張るそうなのです。ビュッフェ・スタイルのパーティでは、肉の塊を皿の上に山盛りになるそうです。

イラク人にとって代表的な肉料理といえば、カバーブ。各国によって一口大の塊かつくね状か、羊肉か鶏肉かの違いがあって、香辛料をふんだんに使い炭火で焼き上げた焼肉は、ジューシーで家庭料理として定番です。

1990年8月のクウェート侵攻とそれに続く1991年の湾岸戦争で、イラクは6年間一切の輸出入を禁じられ、食料自給率が3割程度というイラクで、経済制裁は生活物資の絶対的不足を招くことでもありました。国連による経済制裁によって、食料価格だけみれば80年代から90年代に4000倍に増加してしまいました。

ハイパーインフレの一方で、国民の給料は低く抑えられ、公務員の月給は、米でいえば5キログラム分、砂糖では3.5キログラムで、肉にいたっては月給数ヶ月分にもあたり、何カ月も肉を食卓に出せない親は、子どもにおいしい肉を出せないで辛い思いをすることになりました。

そこでにわかに国内農業が注目されましたが、96年に「オイル・フォー・フード」という、イラクの石油輸出を一部容認し、国連が管理してそのお金でイラク政府に食料、薬品などの基礎物資購入を認める計画が導入されてから、農村社会は没落の一途を辿ることになります。人道支援という名のもとに石油収入によって、食料が国外から黙っていても入ってくることによって、高い投資をして農業を続けてきた生産農家は、タダで配られる小麦、米に勝てるはずもなく、多くの農家が農業を捨てる結果になりました。

第4章 イラク戦争と生活環境の変化

イラン・イラク戦争、湾岸戦争、経済制裁と、イラク国民の生活が荒廃していく中で、2003年にイラク戦争が起きてしまいます。独裁体制からの開放と民主化を約束したはずのイラク戦争は、決してイラク人の生活を改善させるものではありませんでした。約束された経済復興は戦後3年以上を経てもほとんど手をつけられず、治安は悪化の一途を辿り、物価は上昇していきました。

戦後のイラクの食糧事情は深刻で、5歳以下の幼児の栄養状態は、イラン・イラク戦争が始まった1990年頃よりも悪化していて、UNDP(国連開発計画)による2004年の調査では、幼児のうち都市部では21%、地方部では26%が発育不良と報告されています。同じ統計で、安全な飲料水の安定確保は都市部すら6割強、地方部では4割強しか得られていないのが現状です。

加えて、イラク戦争後の慢性化した電力不足が生活を不自由なものにしました。4半世紀の戦争と制裁を生き延びてきたイラク人は、危機に備えて冷凍食品や缶詰、瓶詰など、食糧のストックを常に心がける知恵を身につけざるを得なかったのです。

相次ぐ戦争と政治の混乱で、イラク国外に逃れたイラク人たちは数多いそうです。一番多く逃れた先は、隣国のヨルダンで、そのヨルダンに次々にイラク料理屋がオープンしています。湾岸戦争後には、貧しさや政府の抑圧を避けて逃れてくるイラク人相手の屋台や定食屋が多かったのですが、イラク戦争後はかなり贅沢な値の張る料理を提供する店が増えているそうです。戦後のイラクでは宗教系の政党が跋扈し、世俗的な中産階級の知識人が居場所を失って国を離れるケースが増えていったからです。

豊かな自国の農業と石油の収入で獲得した輸入品に慣れたイラク人にとって、ヨルダン在住のイラク人は、「ヨルダンの肉はまずい!」と言う。異国で舌に合わない料理の不満を言うことが、過去の豊かさに対する思い出の発露へて変わります。ここに、食事に込められた祖国へのノスタルジーが浮き上がっているといえます。

第5章 イラクの女性とファストフード

手間と誇りをかけたイラクの食事は、80年代に入ると徐々に変容した。なによりもまず、イラン・イラク戦争に始まり、湾岸戦争、イラク戦争と続く戦争状態が、イラク人の食生活に大きな影響を与えました。戦時下の生活がいかに女性の地位と家事に影響を与えたか、という点である。

80年から始まったイラン・イラク戦争は、戦争の長期化によって国民の生活を圧迫していきました。長期間兵士を戦場に取られることで、国内の労働力を逼迫し、当初はエジプトやイエメンなど海外からの出稼ぎ労働者に頼り、その外貨支払いにも困るようになると女性労働者が起用。兵士の給与が安く、共働きを余儀なくされてしまいました。

これによってフセイン政権の社会主義を掲げた進歩的政策によって、党や政府の幹部にも、多くの女性が登用されました。日中、主婦が仕事に出るとなれば伝統的な手間のかかる料理を作っているわけにはいかず、手間のかからない料理へのニーズが高まるのは自然の流れでしょう。ファストフードの店が繁華街に登場したのも、この時期です。

欧米資本を禁止していたフセイン政権下のイラクでは、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどの進出は見られませんでしたが、マックまがいのハンバーガー屋や、ピザ屋の開店が続出していきました。こうして、イラクの伝統料理を作る機会がどんどん失われ、イラクの子どもたちは母親の手料理を食べることが少なくなったと思います。

第6章 イラク人として生きていること

戦争や内戦、経済制裁で過去20年の間、イラクの食生活は大きな変化を余儀なくされてきました。しかし、それでも人々の心の中にあるイラク料理は変わらず残っています。シリア、ヨルダンではイラク難民の流入が増大するにつれ、イラク料理が増えたことは前述しました。

チグリス河でとれる鯉を開いて焼くマスグーフが、ダマスカスやアンマンで養殖鯉を使って食べられるようになったり、イラク戦争で亡命生活を余儀なくされた政治家たちは、ロンドンのアラブ人街にできたイラク人向けスーパーマーケットで、ナツメヤシのシロップを買ってトーストに塗って食べ続けるそうです。繰り返される戦争によって、国としての一体性を揺るがされても、同じ肉とナツメヤシと米を食べるイラク人の誇りは、揺るがないでしょう。

戦争によって多くの爪痕が残ったイラク。それがサダム・フセインのせいなのか、アメリカ軍のせいなのか、はたまた自分たちのせいなのかはわかりません。いろんな要因が絡まって、現在のイラクができあがったと思います。ただ、戦争によってこうも食文化や環境が変わってしまうのには驚きました。

経済制裁も戦争する場合においては有効ですが、その国に住まう人にはたくさんの犠牲が支払われることもわかりました。これは北朝鮮に住む人々にも言えることかもしれません。バグダードのアブー・ヌワース通りの焼き魚のおいしそうな匂いや、夕食に振舞われるケバーブが出てくるような日常が戻る日がくるでしょうか。その日がくるのはまだ先になりそうです。


石井さんのコメント
「イラクにおける食文化を通して、戦争によって失われたもの、変わりゆくものを淡々と描く。とても上質なレポートだと思います。
イラクというのは中東の中では決して貧しい国ではないんですよね。お隣のヨルダンやシリアの方がずっと貧しい。ある程度お金のある国がここまで長く戦乱に巻き込まれたというのは、ある意味珍しいのかもしれません。

イラクの隣国には、「イラク人街」というのがあります。イラク人はお金をもっているので、戦争から逃げ出すと、その町で商売をしはじめて、「街」を作り上げてしまうのです。
そうなると、そこでまた隣国との文化が融合して、「新しいイラクの文化」が出来上がります。さらにそれが逆輸入されて、イラク国内にまったく違う文化を根付かせることにもなります。

戦争によって直接的な意味で消えていったり変わっていった文化がある一方で、難民という「人間」の流れによって不可避的に変えられていった食文化の形というのもたくさんあるでしょう。
こういうことは、アフガニスタンでも言えるでしょうね。アフガンの場合も、70年代からずっと戦争をしており、なんと一千万人を超す難民がでています。もし平和になって、難民たちが帰還すれば、30~40年のブランクが直接地元伝統文化の変容に結びつくことでしょう。

ひとつの場所を舞台にして「文化喪失」を通して戦争を見ていく。
こうしたことって、やられているようで、あまりやられていないんですよね。地味ですが、大切なことだと思います。
次回も楽しみにしています!」


今後も、このように、参加者からのレポートをどんどん掲載していきます。
これを読んだ方で、「これも戦争が生んだものだよ」という情報があれば、一つや二つでも構わないので、ぜひお送りくださいませ!
また、途中参加のメンバーもひきつづき募集しているので、どしどし応募いただければうれしいです。
詳しくはこちらを!


参加者と参加希望者の方々へ――
プロジェクト・ミーティング第2回 決定!
2010年4月10日(土)16時半より、戦争文化プロジェクト・ミーティングを石井光太さんとともにおこないます。
ふるってご参加を!
一緒に、どんどんおもしろい企画にしていきましょう!!

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

石井光太(いしい・こうた)

プロジェクト主催者

1977年生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部文藝学科卒業。
海外ルポを初めとして、国内外の文化、歴史、医療についての文章を多数執筆。
また、本や映画などについてのコラムや批評も手掛ける。執筆以外では、TVドキュメンタリの製作、写真活動、漫画やラジオ番組のシナリオなども手掛けている。

主な作品に、
『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』(新潮社)
『物乞う仏陀』(文藝春秋)
『絶対貧困−世界最貧民の目線』(光文社)
その他、共著に『ベストエッセー2007 老いたるいたち』(光村図書)などがある。
ペンネームでの著書は多数。

バックナンバー