これからの建築スケッチ

第1信 所信表明

2013.11.28更新

 ひょんなことからカメラの前に立って、英語で建築を案内したりするようになった。NHKワールドの『J-Architect』という世界発信の月刊番組のMCを務めるようになり、撮影も月にたった一、二度なのだが、半年経った今でもレンズを向けられると居心地が悪くて慣れないものだ。しかし、日本を代表する建築家たちに直接逢ってインタビューをさせてもらうのは、私のような駆け出しの建築家にとっては、これとない贈り物であることは、間違いない。

 よく「二足のわらじ」という言い方をする。私は実に多くのことを仕事にしている。大学に所属し助教として教育に携わっていながら、建築事務所を主宰していることからはじまり、夜には創作のためにドローイングや銅版画、シルクスクリーンをやって年に一度の個展を開催したかと思うと、依頼された原稿を書いては本を出版させてもらっている。これでは、「五足のわらじ」といったところか。
 何も自分の仕事自慢がしたいのではなく、互いにまったく関係ないようなこれらの仕事も「建築家である」という根底にある私の立ち位置が一本の糸のように筋が通っており、ごくごく自然とこうなっていった。建築とは、「みんな」に深く関係していることはいうまでもない。建築と無関係に日常を過ごす人間などいないのだから。この「みんな」とは、社会そのものである。

 そんな社会の鏡として建築は、建ち上がる。であるのであれば、その建築を設計する建築家という職業は、建築家自身が社会の一員として魅力的であり、役に立たなければ、建築の空間に込められたメッセージもまた人を感動させることはおろか、強度もなく、誰の心にも響かないだろう。
 だから私は自分のできることすべてにおいて「建築」を中心に添えて、全力投球しながらいろんな仕事にチャレンジしてきた。建築を設計するということ以外に、学生に設計を教えることや、絵を描くこと、執筆、あげくにはテレビに出ることも一切の優劣をつけることなく、すべてを同じフィールドとして捉えて働いている。当然だが、学生なくして教育は成り立たないし、読者なくして書籍はうまれない。クライアントなき建築が存在しないように、何事も人を介して何かが生まれるという構造において、建築家としてもできるだけ多くの人と接続したいと欲望している。

 かのレオナルド・ダ・ヴィンチが万能の芸術家として建築のみならず、絵画、彫刻、数学、解剖学、発明でも多大な功績を残しているように、西洋において建築家の社会的地位は、医者や弁護士のように高かった。それだけの存在感と哲学が建築家にはあったはずだ。
 建築という大きな世界が内包しえるものは無限にあり、あらゆるものとの接続回路をもっている。だからこそ、社会のことをよくよく観察し、あらゆる場所で、多様な他者と交流できる体力と知性を私は兼ね備えたいと思っている。

 さて、自己紹介をしようと思っていたら、何だか回り道をしてしまったようだ。私の名前は、光嶋裕介。1979年、日本の高度経済成長が落ち着いた頃に遠くアメリカの東海岸、ニュージャージーで生まれた。三兄弟の真ん中で、幼稚園に行く頃から「ブライアン」というミドル・ネームを父に付けてもらった。車でよく出かけたマンハッタンの摩天楼は、お馴染みの風景で好きだった。とくにクライスラー・ビルディングがお気に入り。

 家のなかでは日本語を話し、一歩外に出ると英語で会話するという環境で8歳まで育ち、小学校2年生のとき、奈良に帰ってきた。金髪と青い眼のジェニファーやマイケルに囲まれていたのが、いつしか関西弁を話すわんぱくな友人たちに替わっていた。しかし、小学校卒業とともに父が再度海外勤務になり、カナダのトロントに住むことになった。二度目の海外生活は、不安よりも期待が高く、忘れかけていた英語も自然と生活のなかで再習得していった。数学と図工と体育の授業でクラスメイトから一目を置かれ、ベースボースやバスケットボールでスクールチームに選ばれ、友達が増えてきた矢先の中学3年生のとき、今度はイギリスのマンチェスターへと転校。

 野球が好きで、キャッチャーで5番、バスケはシューティング・ガードだった中学生は、突如サッカー(イギリスでは、「フットボール」という)の世界に戸惑いを感じた。言葉も同じイングリッシュのはずが、英国なまりが肌に合わず、早々に高校受験のためひとり帰国すると決断したのである。
 ふと、ここまで書いて、立ち止まる。私の生い立ちの詳細をここに書き綴っても一向に本題にいけそうにないので、それは今後連載のなかで書くので割愛したい。

 そう、この連載では、建築家として働き始めたいま、そして歩み出した今だからこそ、真っ向から「これからの建築」について考えてみたいと思っているのである。いきなり言い訳のように聴こえるかもしれないが、私はこれからの建築のことがわからない。そもそも途中になってしまった自己紹介では書けなかったが、高校生のときに初めて「建築」のことを知り、大学に入学したその日から「建築家になりたい」という健全な情熱を抱き、この世界の扉を叩いた18歳のときから16年の歳月が経ったわけだが、建築の本質がどこにあるのかなどさっぱりわからない。正確には、深く掘れば掘るほどわからなくなるのだ。

 95年の阪神淡路大震災を高校受験していたときに体験し、人間の築き上げた都市の危うさを思い知り、独立後初めて設計した建築である「凱風館」の建設中に3.11東日本大震災が起こって、言葉を失った。建築を木や鉄、コンクリートからできる人工物として考えたり、空間とその光のデザインとして考えるだけではなく、それにまつわる人間の物語として、大きな社会全体の課題として考える必要性を強く感じるようになった。

 なぜなら建築は、それだけ多弁であり、魅力的であるからだ。ひとつの正解があるわけではない建築設計の世界において、自身の想像力を最大限に発揮し、新しい建築を創造するためには、建築を読み解く力と同じく社会を読み解くふたつの力が必要だと感じている。

 もうひとつ、今年大きな事件が起きた。7年後に2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催が正式決定した。正直、私は複雑な気持ちになった。世界のトップ・アスリートたちの競技を見たり、海外から多くの観光客がこの国に来ることを想像するだけでも楽しいし、新しい建築が生まれる大きなチャンスであることも事実だろう。しかし、みんなが五輪開催をいかように捉えているか、そして、それに対して近い将来どのような東京になりたいのかという新しい都市のビジョンが示されているかというと、甚だ疑問だし、むしろ危機感を覚えることばかり。

 つまり、それは端的にいって「時間」の問題だ。「これからの建築」を考えるにあたって、「時間」こそが、私にとっての大切なテーマなのである。それがオリンピックのような大きなお祭りであればあるほど、更にもっと長い時間軸で物事を考えないといけないと思うのに、短期的に収益を上げるであろう経済効果にばかり浮かれていて、時間軸の長い話が全然聴こえてこないからだ。

 具体的には、2020年のオリンピックという「未来」を想像し、何がしかを創造するには、歴史を参照するところから始めないといけないはずだ。札幌(1972)や長野(1998)で行われた冬季オリンピックや、64年の東京オリンピックの際に建設された施設の検証とその後も含めた成功と失敗を時代背景とともに考察しないといけないのではないか。
 また、これからの社会の在り方をしっかりと提示しないで、ただキラキラしたコンピューターグラフィックの絵に描いた餅のような建築を想像するのではなく、2020年の一大イベントを思考するうえで2030年、2050年になっている頃に、この2020年の東京五輪開催がどういった意味をもちえるかという射程の広い時間軸で深く検討しなければならないと思うのである。

 紙面も尽きてきたのでそろそろまとめるが、つまりここでは私が建築家として今、何を考えているか、これからの建築はどうあるべきかを自分なりに突き詰めて言語化してみたい。再度いうが、建築家として働き出してみて、分かったことより、わからないことのほうが多いくらいである。やればやるほど、わからないことばかりが増えるといっていい。建築の本質がもつ多面的な輝きは、なかなか捉えどころがない。

 しかし、それをわからないから黙っているのでは何もはじまらないではないか。むしろ、分からないからこそ語りたいのだ。深く潜り、掘り込むことを、ためらいながらも語ることで対話が生まれ、同じ山脈を違ったルートから登っている人と出逢いたいのである。
 建築家にとって理論と実践のバランスは、とても大切なこと。魅力ある未来を創造するために、歴史を参照し、今を徹底的に考え抜きたい。毎月いろんなテーマで「これからの建築」について考えた文章を書くことで、思考が鍛えられ、そうした断片が集合すると、ひとりの建築家としてのマニフェストになるのではないかと信じている。それによって「建築は面白い」というシンプルな思いが串刺しされ、読者のみなさんと一緒に建築について考えるつもりで筆を進めたいと思っている。

 少なからずテレビに出させてもらうようになり、レンズを向けられることで、自分が見られていることを強く意識するようになった訳だが、何もカメラでなくても、建築や街にもまた目があるのではないか、と近頃思う。黒目と白目があって、どこから見ているということではなく、むしろ、建物全体の風景を通して、われわれも見られているのだ。相互に視線を交わしているのではないか。だからこそ、建築との対話においても、一方的にこっちから発信するのではなく、より多くのシグナルを建築や風景から受信できるように自分の感覚を研ぎ澄ませたいと思っている。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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