これからの建築スケッチ

第3信 大工の言葉

2014.01.24更新

 ボロボロに汚れた黄色いシャツを着た少女が、小さな拳でタクシーの綺麗な窓ガラスを叩いている。ふと目をやると、彼女はおもむろに路上でダンスを始めた。細い手足を一生懸命に回したり、狭い車と車の間を器用に飛び跳ねたりしているではないか。何が何だかよくわからず感心していたら、タクシーの運転手が小声で言った。
 「Don't look, and lock the door(見るんじゃない、ドアの鍵もかけなさい)」
 そうか、路上生活者である物乞いの家族が信号待ちで停車中のタクシーを狙って、無垢な子どもたちに芸をさせている。もちろん、小銭を稼ぐためだ。何日も水浴びをしていない少女の体はえらく汚れているものの、乾いたインドの光が反射して、その瞳は黒く深く輝いていたのを覚えている。私は、車の窓を開けずに目線をゆっくりと前方に反らしてしまった。

 人生、初めてのインドは予想通り、衝撃的なものだった。何から何まで違った世界である。この旅のために学生時代読んだ掘田善衛の『インドで考えたこと』を本棚の奥から引っ張り出して、持ってきた。半世紀以上も前に一人の小説家がこの地を訪れたときの思考の痕跡をなぞってみたかったからだ。

「人々が、この世の中について、人間について、あるいは日本、または近代日本文化のあり方などについて、新しい着想や発想をもつためには、ときどきおのおのの生活の枠をはずして、その生活の枠のなかから出来るだけ遠く出て、いわば考えてみたところで仕方のないような、始末にもなんにもおえないようなものにぶつかってみる必要が、どうしてもある、と思われる」

 私も理由があって、異国の地に来た。インド国内最大規模の国際見本市における日本館の中に出展する畳屋さんのために私は、小さな小屋を設計し、建設することになったのだ。3メートル四方の畳の床が広がり、片側にはベンチもついている小さなパビリオンである。屋外に設置するとのことで、屋根も架かっているが、乾期であるインドにおいて雨の心配はなかった。
 このパビリオンは、デザインすることよりも、建設することのほうがよほど難しかった。何ともない木造の小さな東屋なのだが、最初はインドという国にどのような木材があるのかわからなかったし、職人たちの腕がどんなレベルにあるのかも当然知らなかった。そこで、日本で一度つくってから、分解し、インドまで輸送するということも考えたのだが、時間がかかるうえに、コストも高くなってしまうため断念した。結局、インドで調達できる木材を現地で加工して、つくることにした。しかし、職人の技術レベルに対する不安が払拭できなかったので、現地コーディネーターと交渉し、こちらから日本の大工を一人手配することを約束した。

 Mさんは、棟梁として住宅はもちろんのこと、神社仏閣などの難しい木造建築を得意とする若い大工さんだ。私が神戸に設計し、工事中の現場でお世話になったご縁で、助っ人としてインド行きをお願いしたら承諾してくれた。しかし、不安げな顔で「わたし、英語は全然喋れませんよ」と言うMさんに、向こうに通訳スタッフがいるから心配ないと伝えたのだった。

 ついに出発の日。いきなりのエンジントラブルで飛行機がなかなか飛ばず、インドのデリー空港に着いたのは、予定より数時間遅れの夜だった。しかし、一週間前から現場入りしているMさんの作業具合が気になっていたので、ホテルではなく、まずは現場に直行した。すると、薄暗いなか職人さんたちは、夜を徹して作業していた。開催二日前ということもあり、現場も深夜とは思えないほど活気づいている。

 畳のパビリオンは、ほぼ完成していた。しかも、実に丁寧な仕事振りである。驚いた。無造作に釘が見えたり、木材の表面がささくれ立っていたり、納まりが図面と違うこともなかった。Mさんも十人くらいの職人を緩やかに束ねて、棟梁として生き生きと働いているではないか。しかも、ほとんど言葉を発していないことに、ふと気づく。すべて自身でやってみせているのだ。何事も実際にお手本を見せることで、インドの職人さんたちは、それを見よう見まねで、作業を進めていたのである。端から見ていても、彼らの旺盛な意欲の根源がどこにあるのだろうと考えた。
 道具ひとつにしても、日本から持ってきたL型の金差しや何種類ものノミに感心しているようだった。どのように木材に線を引き、どうやって切り刻んでいくか、刃の研ぎ方など、一挙手一投足を逃さすまいと真剣な眼差しがMさんに降り注げられていた。
 そうか、異国の地に来ても、英語などまったく必要ない。共通言語というものは、何も言葉だけじゃないと、このときリアルに実感した。インドの大工さんたちにとって、高い技術をもった日本の大工さんの仕事振りそのものが、たしかなコミュニケーションなのである。

 思えば私も中学生のときに父の転勤でカナダのトロントに住むことになり、現地の学校に行くことで急に環境が変わって困っていた。アメリカで生まれたので少しは英語が聴けたり、話せたりしたものの、日々の生活をすべて英語にすることは12歳の私にとっては、大きな挑戦だった。しかし、とにかくがむしゃらに毎日を過ごしていたら、身近なところに答えがあった。野球と絵と九九。つまり、図工と体育と算数の授業が私を救ってくれた。
 スポーツやアート、計算は、なにも英語が話せなくても、十分にコミュニケーションが成り立つものである。体育の時間や放課後に一緒に野球をすることで、少しずつ友だちができていったし、いつしかベースボール・カードを交換したり、一緒に球場に試合を見に行くようにもなった。また、図工や算数の授業でも、絵を上手に描いたり、ちょっぴり計算が早かったりしたことで、英語の通じないカナダの子どもたちとも少しずつ意思疎通ができるようになったのが、何より嬉しかった。通じ合う喜び。そうして仲良くなった友だちたちとカフェテリアでランチを食べるようになり、英語を実践的に教えてもらったりもしたことで、いつしか言葉もしっかり通じるようになっていた。血の通った学びの関係が、ごく自然とそこにあった。

 結局のところ、人と人が繋がるためには、何かの架け橋が結ばれなければならない。ただ、それが言葉だけでないということをインドでMさんに教えられた。道具の使い方や建物のつくり方はもちろんのこと、その身振りから見えるひととなりこそが「大工の言葉」ではないか。

 コミュニケーションが成り立つのは、発信側にどうしても伝えたいメッセージがあり、受信側には、その情報にアクセスしたいという両方向の歩み寄りがあってこそ、初めて通じ合うのではないだろうか。双方における積極性が求められる。互いにコミットしたいと思う気持ちが、コミュニケーションするツールの精度なんかよりも、よほど重要なのである。
 であれば、建築の言葉とは何を表現し得るのだろうか。権力、安心、芸術、希望、秩序、調和、霊性、信仰などいくつものメッセージがブレンドされた複合的なものであるのだろう。建築空間には、スケールや素材、光に音まで、五感を刺激する多様な物語が重層的に埋め込まれている。しかし、もっとも肝心なメッセージは、「時間」と関係しているのではないかと私は思っているのだ。

 つまり、建築が語り得る大きなメッセージは、過去からずっとそこに建っていたという「記憶の器」として個別の物語を継承することではないだろうか。欲を言えば、建築に対して敬意をもち、愛着を育んでもらいたい。当然、これには感受する人があって生まれる無言の対話なので、それぞれに違った受け止め方があっていい。みんなが共通認識に立つことは難しいのかもしれない。ただ、建築がたしかに情報(物語)を発信していることだけは、建築家として設計を通して、はっきりと伝えたい。

 何も建築だけでなく、山や海といった自然やビルや高速道路などの街の景色のあちこちにだってコミュニケーションを発露する契機がある。それらに丁寧に耳を傾け、対話を生むことができるかは、個々人の身体のセンサーにゆだねられている。感度の高いセンサーで豊かな物語を抽出し、建築として空間化したい。それは、設計者としてあわいの力を働かせ、見えないものに声を与えるようにして、ものをつくりたいと言い換えてもよい。

 日々の生活の枠から遠く飛び出した初めてのインドで、私は、このようにして建築の言葉について、考えた。そして、変な言い方になるが、インドに出合うには、いささか歳を取り過ぎたのかもしれない。モザイク状の人種が入り混じるインドの社会の富が二極化していくなか、34歳にして仕事で行った私は、どこかショーケースの中に入ったものの見方、ガラス越しに街を体験しているような感覚が残っている。そうではなくて、バックパックを背負い、20代で自由にこの国を旅してみたかった。生身のインド体験であれば、乾いたスポンジが吸収するようにきっと、まったく違うセンサーが反応したのではないか、と今では叶わぬ想像をしている。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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