これからの建築スケッチ

第8信 地域に開く学校

2014.07.30更新

 先日、私の恩師である美術の先生に呼ばれて、母校の早稲田大学本庄高等学院を再訪した。
 埼玉県の北部に位置する本庄という街の、スズメバチも出るような野生の森がある山の上にある高校だ。それが、いつの間にか目の前に新幹線の駅ができ、男子校だったのが共学校となり、走り回っていたグランドは姿を消し、大きな駐車場になっていた。
 加えて、少し離れたところに真新しいキャンパスが完成し、立派な打ち放しコンクリートの(今となっては)旧キャンパスは、体育館と大ホールだけが使用され、その他の校舎は、さながら廃墟となってしまっていた。
 卒業してからわずか16年の話である。
 母校の声なき建築の物悲しい表情から、その時間の短さと長さを妙に実感し、心が少し重くなった。

 私は、後輩の高校生たちに向かって「建築家として働くこと」についてのミニ・レクチャーをしに行ったのである。
 自分が通った高校の大ホールの壇上に上がったのは、バンドをやっていた2年生の学園祭のとき以来2度目になるが、実に不思議な感覚にとらわれた。タイムスリップしたかのように、ビートルズのナンバーを熱唱する高校時代の自分がはっきりと、生々しく脳裏に浮かんだのである。ホール内部に見える視覚的な情報が変化していないことも然ることながら、あの場所に漂う空気が一切変わっていないことに気づいたのである。
 臭覚は、五感のなかでもとくに記憶との結びつきが強いのかもしれない。

 私はこのとき、学校とはあまり変わることなく、ずっと丁寧にその姿を維持していくことが理想的だと思った。
 変化しないことこそが、学びのための創造的プラットフォームとしてふさわしいと感じたのである。
 卒業生たちがひょんなことでふと帰ってきても、当時の佇まいのまま「おかえり」と言ってくれるようなキャンパスの存在が、ひとつの定点としてどれだけ大切かを実感したのである。


 ある集団のなかに「学びの構造」が成り立つためには、まず先生が必要となる。
 それは、誰でもいい。集団に対して、何かを伝えたいという誠実かつ切実な想いと、責任さえあれば、誰だって先生になれる。教室の中にみんなと一緒に座っていた人が、教壇に上がって彼らと同じ方向を向くのではなく、彼らと対面し、語りかけることで、文字通り「先生」になれるのだ。
 この教える/教えられる関係が、学びにとって最も核となる。私も数年前から大学で教える立場になって、わかったことなのだが、「これだけの知識と経験を身につけたら先生になれる」といった基準、あるいは境界線というものは、存在しない。むしろ、先生という立場になったからこそ、正確に自分の考えを伝えたくて、より勉強するようになったと言っても過言ではない。他者と意見を交わしながら、思考を深めているのである。
 つまりは、ご縁があって先生という靴を履いたその瞬間(とき)から、先生になると私は考えている。先に「誰だって先生になれる」と書いたのも、それ故である。

 さて、子どもたちが勉強し、大人になるための成熟へと向かうために必要なのは、もちろん先生だけではない。その学びのための場所、要するに学校が大切な役割を果たすことは言うまでもない。では、どのような校舎が建築として理想的なのだろうか。

 まず学校は、美しくなければならない。窓から心地よい太陽光が差し込み、緑豊かな園庭が見え、内部と外部が自然と繋がっているような風通しのいい学校がそうである。
 また、昔の木造の校舎などは、檜や杉などの最良の素材を使ってつくられていたために、子どもたちはそれぞれの感性を磨くことができた。幼い内から良いものに囲まれていることで、物質に対する高い美意識が自ずと形成される。
 木目の美しく、手触りの良い木の机や椅子で勉強した経験をもつ子どもは、安物のプラスチック製の家具で勉強するのとでは、内容に対する理解においても必ず違いが生まれるはずだ。

 また、黒板や床板が、味わいのある経年変化をする、つまり、良い歳の取り方をするということで、空間に対するある種の時間感覚が育まれる。机の傷なども、受け取り方次第では、先輩からのメッセージであり、学校をみんなで共有している感覚が湧いてくるものだ。

 加えて、毎日みんなで教室の掃除をするということも、建物を長持ちさせ、愛着が芽生えるためには欠かせない。掃除を介して、校舎を自分たちの共有物であると感じたならば、卒業までのあいだ、一時的に間借りしているという感覚が生まれるものである。
 思えば、アメリカの小学校やカナダの中学校に通っていたとき、掃除の時間がなかったことに驚いた。あっちの小中学校では、生徒が掃除をしないで、清掃係の人が雇われている。
 この自分で掃除をしないということは、クラスルームが清潔であるかないかということよりも、どこか深い部分で建築とダイレクトに交流することのできないところに問題がある。それは、ホテルの客室が自分の部屋のように落ち着けないことと類似しており、他人行儀な距離感で校舎と接しているふうになったのを今でも覚えている。
 学校が清掃員を雇うことは、幼い内から近所の芝刈りなどをして自分のお小遣いを稼ぐように、欧米の教育方針が子どもたちの「自立」を促すためのものを優先していることにも関係するのかもしれない。

 更には、アメリカの校舎はブロックを積んだ壁にカラフルなペンキが塗ってあったり、床がビニールタイルだったりすることが多く、日本の木の床とは、かなり雰囲気が違っていた。
 何より声の響き方がまるで違う。それは、壁や床の素材の違いや、天井の高さの違いからくる反響の違いだが、アメリカやカナダの学校は、すごく冷たく、ドライな印象を受けたのに対して、日本の木の床のある教室は、温かくて、専ら先生の声の通りが良い。なんだか先生がものすごく賢い人のように思えたことは、学びの空間として重要であったように思う。

 海外の学校のように教室が物理的に重い壁で区画されていると、教室間の防音性は高く、独立性は確保できるものの、軽い木の壁でのみ分け隔てられていると、教室間の声はどうしても漏れてしまう。
 しかし、必ずしも自分たち以外の音がすべてノイズとなって学習の邪魔をしているわけではない。外から小鳥のさえずりや、校庭で体育の授業をしている下級生の声が聞こえたからって、勉強ができないわけではないはずだ。
 むしろ、そうした環境にアジャストする能力こそが求められ、集中して授業が受けられるようになるとも考えられないだろうか。
 学校が閉じられた教室の集合体としてつくられるのか、もしくは、オープンクラスといった柔軟性のある広いスペースを工夫して使っていくかは、ケースバイケースで考えていかなければならない課題である。なぜなら、学校とは、子どもたちが空間の楽しい使い方を、新しい遊びを発明するように、自分たちでみつけていくことが、まさに最高の学びとなるのであるから。

 続けて、学校の中での教育についても考えてみたい。
 私は、子どもの頃から「ものをつくる」ことの楽しみをより伝える上でも、「建築」の授業があってもいいのではないかと考えている。
 誰もが衣食住に関わりながら生活していることを思えば、もう少し本質的な部分で、わかり易く子どものうちに建築のことを知る機会があると良い。
 これは、コミュニケーションの問題である。つまり、建築のことを知ることで、身体感覚を介して空間と対話することができるように思うのだ。

 たとえば、童話『3匹の子豚』の話が、藁と木、レンガの家について、オオカミによって、吹き飛ばされないレンガの家が丈夫であることを教えてくれているように、建築も多面的な切り口があり、より親しみ易い対象となることができると信じている。

 そこで、子どもたちが健全な学びの構造を継続するためには、自分の知らない「大きなもの」と対峙することを繰り返す必要がある。それが、文学であれ、数学であれ、芸術であったとしても、世界が広いことを知らなければ成長しない。いかにして、高い緊張感をもって学び続けることができるかは、失敗も含めて、そうした学びの経験がしっかりと定着できるかにかかっている。
 一緒に学ぶ心の通った仲間の存在も不可欠である。自分の感覚をいつでも更新してくれるような環境でこそ、自由な創造力は、育まれていくのではないだろうか。利便性や効率性だけを優先するのではなく、共同体のなかでしか、オープンマインドな知性を育てることはできないだろう。

 そのためには、学校が学校だけで完結しないで、地域に開くことを提案したい。
 学校が孤立するのではなく、社会と恊働することで、お互いが補完し合う関係をつくる。
 つまり、学校の教育を先生だけに委ねるのでなく、地域の大人にも参加してもらえるシステムを構築するのである。
 それは、きっと昔の寺子屋に近い。先にも述べたように、誰だった先生になれるように、子どもたちにとって、いろんな人と接する機会が増えれば、多様で強靭な価値観が認められるようになるかもしれない。

 具体的には、放課後の教室をコミュニティーセンターなどに開放し、地域の人たちの拠点とすることで、子どもたちとのイベントなどを企画しても面白い。特別な目的などなくても、ただ集まれる自分たちの居場所をつくればいい。
 図書館や体育館、プールも、使っていないときは、地元の人に利用してもらってもいいだろう。少子高齢化により、小学校の統廃合で廃校となってしまった学校では、カフェやオフィス、ギャラリーとしてリノベーションすることもやられ始めている。
 こうして、学校が再生していくためにも、地域社会と密に寄り添いながら、それぞれの特性をいかした身の丈にあった方法でこれからの「学校のあり方」を発見していかなければならない。

 ひとつのヒントとして、学校が「生産の場」であること、要するに何かを生み出すことが、新しいシステムを継続させるための秘訣であるように思う。
 絶対的な正解などなく、それぞれに適した答えをみつけるしかない。
 時代とともに変化し続けるのだ。そんな試みを続けることで、小さな変化を連続させ、時間の履歴をみんなで共有した学校が、地域社会と二人三脚になれば、長く愛着をもって使用され続けるはずである。

 大切なのは、顔の見える地域社会に対して学校を開くこと。
 防犯に関しても、子どもたちとその親たちだけで解決できる問題などではなく、地域社会全体で安全な街を築き上げねばならない。
 時間がかかっても、やはり学びの場である学校を、開くことで地域社会と相互扶助的関係を築くことには、多くの可能性がある。
 卒業生としては、数年前から使用されなくなってしまったわが母校も、ぜひとも周辺の地域の方々と知恵を出し合って、再生してほしいと心より願うばかりである。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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