これからの建築スケッチ

第10信 風景との対話としてのスケッチ

2014.09.29更新

 モダニズムの巨匠ル・コルビュジエが描いた一枚のスケッチを、私は学生時代に初めて見て以来ずっと忘れられないでいる。
 建築の起源は一体どこにあるのかという切実な問題を抱え、自分の眼で確かめるために若きコルビュジエは、ギリシャへと旅立った。アテネにあるアクロポリスの丘にそびえ立つパルテノン神殿を前にしてコルビュジエは、きっと絶句したのだろう。あまりにも長い時間、ずっとその場所に在り続けた石の建築の放つエネルギーを肌で感じたのである。
 彼は、その強烈な建築に可能なかぎり接近し、柱と柱の間から覗く風景を鉛筆で力強く描いている。それは、私たちが教科書で見るようなパルテノン神殿と違って、建築家コルビュジエ自身がアクロポリスの丘に行って感じた興奮と思考が、線の軌跡にぎっしりと詰まった素晴らしいスケッチである。

 私も、コルビュジエのように建築を少しでも理解したいという気持ちを胸に、いつも旅に出て風景をスケッチしている。魅力的な建築を前にして心が踊り、真っ白い紙にペンを走らせていく。結論から先に述べると、私にとってスケッチブックにスケッチする行為は、自分の中に美をストックしていく感覚なのである。お気に入りのモレスキンのスケッチブックと、0.1mmの製図用のステッドラーのペンさえあれば、最高の旅ができるのだ。

 何かを描くこと、ペン先から紙の上に摩擦と共にインクがこすれて、線となることは、自分の視覚情報がたしかな身体感覚としての実感を伴って変容し、新しい形が写し取られる大事な時間。実際の風景は、誰が見ても同じかもしれないが、そこから自分の中に取り込まれた内なる景色は、きっと同じではない。つまり、見た通りに描かなくてもよい。口から食べた物が胃や腸を通して身体に取り込まれるように、眼から入ってくる情報が、脳を介して指に伝達される。
 考えてみると、世界の何もかもが動いている。空気も振動し、描いている対象自体が動き続ける中、厳密には自分の眼も動くので、そうした「動き」を含めた一回性の体験を静止させて、ひとつの風景を切り取ろうとする。その過程において自分の五感で受信した無味無臭のシグナルが、固有のメッセージとなっていくものに形を与える作業。要するに、感じたようにスケッチする。描きたいように自由に描くのである。

 まず、紙の上で簡単な構図だけを確認し、下書きなしで描き始める。やり直しの利かない緊張感で夢中になって筆を走らせる。対峙している風景を自分なりにスキャニングすることで、対象に深くコミットしていく。ある建築、あるいは自然を前にしたときに感じる、あの言葉にできない興奮を沈めるように、スケッチし、風景との「対話」を重ねることで、自分の中にひとつの解釈がゆっくりと築き上げられていく。

 この対話こそが何より重要だと思うのだ。なぜなら、見ている風景をより深く観察することでいろんな入力があり、建築が少しずつ自分のものになっていく幸福な実感が湧いてくるからだ。それは、カメラのファインダーを覗いて、一瞬の内にシャッターを切ることでは捉まえることの難しい、架空の対話である。自分が何故目の前の建築に魅せられるのかという問いから始まる無意識の時間でもある。もちろん、わからないことばかりである。

 この建築と大地は、周りの環境といかなる関係性になっているのか、どうしてあの窓はあそこに開けられたのか、屋根の形はどのようにして決められたのか、どのような材料でどうやってあの壁はつくられたのか、雨水はどこへ流れていくのだろうか、などとたくさんの疑問が浮かぶ。
 私の場合は、その建築を設計した建築家たちの声に耳を澄ませて、意図を汲み取ろうとするのである。正解のない問いに対するチャレンジの連続。


 旅に出て、見たことのない風景を前にすると、自分の身体に備えられたセンサーが敏感に反応する。視覚的に惹かれるものもあれば、どこか霊的なものに触れるような感覚で、有無も言わさず心を鷲掴みにされることもある。
 不思議なもので、スケッチをしながら長時間その対象と向き合っていると、風景が静かに変容してくるのを感じることがある。持っているペンの感覚もなくなり、まるで指の延長であるかのように思えてくる。自分と風景の境界線が徐々に溶けていき、同化していくのである。それは、見えているものの背景に潜む、見えないものとのコミュニケーションが成り立つ瞬間なのかもしれない。

 スケッチをすることは、そうした見える世界から、自分の内側にスキャニングされた結果、立ち上がる固有な光景を捉える行為であり、同時に見えないものを知覚しようとする創造的な行為でもある。微細なシグナルをいかに直観的に反応できるか、すなわち、五感でもって建築の力を感じ取ろうとしている。
 あるいは、ペンを握りながらスケッチすることで、初めて思考することが可能になると言い換えてもよい。そうした架空の対話を通して、先人の建築家たちがいかにして強靭な空間をつくり上げたのかを想像することで、深く考える機会を得ているのだ。


 そういう意味においては、描くことそのものよりも、見ることのほうが大切である。身体感覚としては、指よりも眼が先にある。建築を成り立たせている「美」の在処を、自分なりに理解しようとして、線を重ねていく。それは、建築のプロポーションについて、素材について、様式について、もしくは街そのものの空気について、より深く観察することから次々と新しい発見がもたらされる。

 感覚を研ぎ澄まして建築と向き合うと、ゆっくりと建築の声が聴こえてくる。そのためには、時間が不可欠だ。一定のリズムで流れる等質な時間というよりも、伸び縮みする自分だけの時間感覚。最初は対立的に存在した目の前の風景が、スケッチしながら交わり合うことで、静かに同化していくと、まるで時間を忘れるようにスローモーションに流れるときがある。

 それ故に、スケッチには視覚情報以上に、建築体験そのものの記憶がしっかりと定着されていく。私にとってスケッチは、何より大切な旅の記録装置なのである。だからスケッチを終えると必ずサインを入れる。描き終えた時間まで描き込んでいる。文章の終止符と同じで、そのときの多くの体験を後に鮮明に思い出すことができると気づいたからだ。要するに、私にとってスケッチは、文字のない「絵日記」の役割を果たす。

 ポルトの石畳の感触や、バルセロナの街に流れる風の心地よさ、フィレンツェに流れる街の音楽など、さまざまなことを高い解像度でもって思い起こすことができるほど、描いている体験が、スケッチの中にそっくりそのまま冷凍保存される感覚である。
 少なくとも私にとっては、こうしたインプットなくして、旅の時間は、あっさり忘却される。スケッチができなかった旅は、簡単に忘れてしまうもの。旅をすることは、物理的に移動することで担保されるのではなく、スケッチすることで確保されているのであり、逆に言ったらスケッチさえしていたら、日常の風景や時間の中でさえも「旅の感覚」を取り戻すことができるのである。
 そうして蓄えられた美のサンプルは、ある動的平衡性をもって自分の中に絶えず変化する美意識や、価値観を形成している。衝撃を受けた体験は、スケッチと共に深く刻まれ、そうでなかったものはゆっくりと忘れられたりしていく。

 このストックされた多様な体験が、建築を設計する際にクライアントや職人たちと対話を重ねて、アイデアを発展させるための「物差し」になっている。
 ある建築を設計する際にアイデアを生み出すのは、スケッチをするのとは反対の行為であり、自分のストックの中からすくい出していく行為である。そのときに、敷地との対話を私は最も大切にしている。とくに、依頼を受けて初めて敷地に行った時のファーストコンタクトを、一番楽しみにしている。この場所は、一体どんな建築を求めているのだろうか。敷地からいかにして魅力的な要素をみつけられるかは、建築家の最も大事な資質のひとつであると言っても過言ではない。
 そのためにも、自分の感覚を常に更新させるようなインプットを続けたい。旅に出てスケッチをすることで、自分の中にたくさんの種類の「美」をストックし、魅力的な建築をつくりたいのである。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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