これからの建築スケッチ

第12信 世界を結界する橋

2015.02.15更新

 ブルーノ・タウトや坂口安吾による伊勢神宮を巡る論争を読んでいたために、学生時代に初めて伊勢神宮に行ったときのことは、今でもはっきりと覚えている。未だ見ぬ建築に思いを馳せて、心が浮き足立っていた。
 しかし、実際に訪れてみると、大きな期待はあっさり裏切られてしまった。その建築空間を内部に入って体験することはおろか、全貌を望むことさえできず、木塀越しに屋根の装飾である千木や鰹木がわずかに垣間見えるだけ。スケッチもできなかったのである。
 そこにあるはずの建築の姿を想像し、ただただ感じることしかできなかったのだ。むしろ、印象に残っているのは、大木がそびえる太古の杜の圧倒的存在感である。その生命力あふれる世界の入口は、大きな鳥居がその両岸にある宇治橋からはじまった。この橋を渡ることで、それまで続くお土産屋さんや屋台で賑わう人間の俗なる世界から、自然の恵みが感じられる聖なる杜に入ることが可能となる。その瞬間、空気の密度のようなものが決定的に変化する。まさに宇治橋において世界が結界され、私の初めての伊勢神宮参拝体験のなかでそのことが、最も深く記憶に刻まれている。

 太陽の恵みにたとえられる天照大神を祀っているとされる伊勢神宮の内宮を参拝するには、誰もがこの宇治橋を渡らなければならない。身を清めるための美しき水が優雅に流れる五十鈴川に架かっている、ささやかな木の橋だ。それは、何か特別な世界へと越境する感覚の変化を、私の身体にもたらした。神の領域に入るような清らかな気持ちになったと言い換えてもよい。
 同時に、太古から連続する長い時間の流れへとゆっくり誘われるような、背筋の伸びる思いがしたのである。檜でできたこの橋の両岸には、立派な大鳥居がある。

 この大鳥居は、20年に一度の遷宮の際にそれぞれ内宮と外宮の屋根を支えていた棟持柱という大事な部材を再利用しつくられている。卓越した大工技術が継承され、木の建築が新陳代謝を繰り返しながら時間のバトンが渡されていく。強調したいのは、伊勢の杜に入るために、この透明なバリアを抜けるようにして大鳥居を潜り、宇治橋を渡ることこそが、日常と非日常を隔てる大切な結界の役割を果たしているということだ。
 橋という建築は、能舞台における橋懸かりからもわかるように、世界を結界する大切な役割を果たす。舞台に向けて、斜めに少し角度をつけて接続する橋懸かりは、人間の世界である楽屋と霊的なものの世界である舞台を隔てる中間領域の空間だ。二つの異なる世界を繋ぐあわいの空間。
 この橋懸かりの床には、若干の勾配が付けられていることを能楽師の安田登氏に、教えてもらったことがある。こっちでもなく、あっちでもない場所をすり足で行き来する際に、重力の助けを借りて身体的付加を与えることを意図したのだろう。どちらの世界にも属さない橋の上を渡っていると、地に足の着かない不安定な気持ちになる。このふわっとした、どっち着かずの浮遊感こそが、橋を橋足らしめる特別な身体感覚なのかもしれない。

 ところで、橋が建築であることをあたかも自明であるかのように私が先に述べたのには、理由がある。なぜなら、橋は人間が建設技術を利用して構築した人工物であり、その端部が地面と接していることで、大地からむっくり建ち上がっているために建築であると考える。
 また、橋を渡る体験が空間の変化に富んだ豊かなものである故に、橋が建築であると言い切るのである。


 そんな橋について、保田輿十朗は、『日本の橋』のなかで、ときに貧弱にさえ見える日本の木造の橋と、西洋の頑丈な石の橋の対比を試みながら、その美しさの本質を芭蕉の句などと引き寄せながら読み解いた。
 「日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった」と述べて、日本人にとって橋は、次なる世界への通過点としての「道の延長」であったと抽象的な指摘している。それに対して、「羅馬人の橋はまことに殿堂を平面化した建築の延長であった」という考察を続けている。

 たしかにイタリアを始め、ヨーロッパには実に構築的な橋が多い。説明するまでもなく、橋の上に建物がまさに建築されている。フィレンツェの《ポンテ・ヴェッキオ》が最初に思い浮かぶ。この橋の造形は、とてもユニークで、複雑な構成となっている。橋の上からカラフルで家のような建築群がアルノ川にせり出しているその更に上に対して、なんと渡り廊下がつくられているのである。完全に屋根が架かった、弓形アーチの連続する二階建ての細長い建築なのだ。
 これは、十六世紀にメディチ家が自邸と政庁舎を外部の人間と出くわすことなく行き来できるようにするための最高のセキュリティとして考案され、建設されたのである。それが、今ではウフィツィ美術館の一部として、自画像の展示に特化した美術館となっているから面白い。
 昔は、階下の建築群も、肉屋や魚屋を営んでいたと庶民的であったが、後に豪華な美術商などへと変遷し、今では世界中からの観光客のためにお土産物屋が連なっている。まさに橋というよりも、市場のような生き生きした賑わいがある橋なのだ。

 イタリア語で「古い橋」を意味するこの《ポンテ・ヴェッキオ》に対して、パリには、逆にフランス語で「新しい橋」という意味の《ポン・ヌフ》がある。セーヌ川に初めて架かった石橋として、そのような名前が付けられたのだが、その後三十七本もの橋がセーヌ川に架かったことを思うと、《ポン・ヌフ》もまた最も古い橋ということになる。
 レオス・カラックス監督の映画『ポン・ヌフの恋人』(1991)では、ドニ・ラヴァン演じる主人公の青年アレックスが、閉鎖された《ポン・ヌフ》の上でホームレスとして生活している姿が描き出されている。そして、女画学生ミシェルと出逢い、この橋が純愛の舞台となっていく。花火をバックに走り回るシーンは、圧倒的に美しい。橋が単なる交通手段として、馬車が通ったり、歩けたりするだけでなく、途中に半円形のベンチがあったりすることも特徴的だ。《ポン・ヌフ》は、恋人たちが愛を確かめ合うロマンチックな場所となり、都市の小さな広場のような多様な使われ方を今でもセーヌ川の上に提供している。

 日本の橋に話を戻そう。歌川広重の《大はしあたけの夕立》という橋を大胆な構図で描いた浮世絵がある。ゴッホもこれを模写したということでも有名な一枚だ。広重は、江戸の名所として隅田川に架かる緩やかな曲線をもつこの木の橋を描いている。しかし、細い線によって雨を見事に表現してみせたことが何より秀逸な作品である。
 ではなぜ広重は、晴天でなく、わざわざ夕立の風景を描いたのか。それは、雨によって川の水かさが増し、流木などが流れて猛威と化した川にあっても、この橋が立派に建ち続けていることを示唆しているように思えてならない。崩壊しないためにも、緩やかな弧を描いて木組みの橋は、中央が持ち上げられている。自然の中に拮抗する人工物の姿。そのアーチが構造的に合理的であるばかりか、造形として美しい。

 とりわけ、見ているだけでうっとりする橋がある。山口県を流れる綿川に架かる錦帯橋だ。これもまた広重の浮世絵に登場するが、格別に美しい。
 なぜなら、綿帯橋は、木組みの支柱が一切なく、アーチだけで純粋に支えられているからだ。背景に広がる緑豊かな自然の風景と調和し、凛とした佇まいと圧巻のスケールに、言葉を失う。石を積み上げた橋脚がそれぞれ35メートルも離れており、それを一つのアーチだけで軽やかに繋げていることに驚くのである。それが三つも連続している。
 ただ見て楽しむだけでなく、その橋をゆっくり歩いて渡る体験がまた素晴らしい。一歩ずつ歩くごとに目の前の風景が変化し、向こうから渡ってくる人が、頭から少しずつ見えてくる様にも、風情があって、わくわくする楽しい橋である。

 最後に橋がもつ本質的な魅力のひとつである結界性を、いかに他の建築に取り込むことができるかについて少し考えてみたい。繰り返しになるが、橋がふたつの異なる場所を結びつけるように、建築空間もまた多くの場所との関係性のなかで成り立っている。
 しかし、この結界性は、壁のように物質による鉛直方向の境界線の構築によって生まれるのではなく、そこに何もない、水平的な広がりによって獲得されることに注目したい。結界は、われわれが身体的に感じることで、初めて存在するのである。例えば、建築の内外の境界線にある縁側はどうだろうか。物理的に建築の内部と外部をはっきりと隔てるのではなく、グラデーションをつけながら建築と自然を接続することができるようになる。
 また、動線空間としての廊下も、具体的にある部屋と部屋を結ぶための結界としての建築的な装置であると言えないだろうか。ル・コルビュジエがパリ郊外に設計した《サヴォア邸》の中心に堂々と配置された光があふれるスロープもまた、まさにこの名作住宅における外部と内部の結界性をなめらかにつくり出し、変化に富んだ豊かな空間体験を創出している。

 私は、《凱風館》の設計をしているとき、この結界性についてよく考えていた。というのも、この建築はたくさんの用途を満たさなければならなかったからだ。クライアントである内田樹先生ご夫妻の住まいでありながら、合気道の道場があり、仕事場としての書斎や、宴会のできるサロンなども要求された。それらにどのような空間的特徴を与え、いかにして連結させるかについて、繰り返し検討を重ねていった。
 結果的に、私は最も大きな空間の変化を演出するために、道場と書斎を結ぶ階段室を真っ白な空間に仕上げることにした。何もない「無」の演出を素材によって試みたのである。い草の畳がある土壁の道場と、一万冊以上の本に囲まれた木を使った書斎を繋ぐ階段室を、できる限りニュートラルな空間にしたかったのだ。
 具体的には、南に面した大きな窓ガラスを白乳色にすることで、外部からの光を採り入れつつも、余計な視覚情報をシャットアウトし、壁には白い漆喰を塗ることにした。

 《凱風館》のなかで、この階段室だけが純粋に白い空間なのである。内田先生が合気道と執筆というふたつの行為の切り替えをごくごく自然にできるように意図したデザインである。脳(書斎)と身体(道場)を使い分ける空間の行き来において、ギアチェンジがなるべくスムーズに行われるように空間の質感の差別化を図ったのだ。
 つまり、メリハリをつけたかった。わずか数秒で通過してしまうこの白い階段室において、余計な素材を使わないで余白のような空間にすることで、空気の粒子が他の場所とは違って感じられるはずである。知覚情報を一度限定することによって、無意識的にでも心持ちの切り替えができる結界性を、まるで橋を渡るかのように獲得できるのではないかと考えたのである。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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