これからの建築スケッチ

第13信 広い芝生とスポーツの巨大建築

2015.04.13更新

 アメリカで生まれた私の遊び場は、いつも何もない芝生だった。それが小学校の校庭であっても、近所の公園でも、はたまた自宅の裏庭でも、どこまでも広い芝生が、いつもそこにあった。太陽が降り注ぐ芝生の上で走り回って遊ぶのが、ごくごく日常として、私は育った。

 80年代に多くの日本企業が海外進出するなかで、私の父もニューヨークにある日本の大手家電メーカーに勤務し、ベットタウンであるニュージャージーに家を構えた。緑豊かな閑静な住宅街が多く、自由な芝生の遊び場がとにかくたくさんあった。父と二人で週末にキャッチボールをしたり、兄弟3人で遊んだりするのもいつも、遠くまで見渡せる芝生の上。周りを見渡せば、のんびり犬と散歩する人や、フリスビーをして遊ぶ人、ただ日向ぼっこする人などさまざまな行為を広い芝生は提供していた。何もないからこそ、そこにいろんなものをイメージすることもできる。キャッチボールをすることが多かった私は、スタジアムの大観衆の前でプレーしているかのように勝手に頭の中で空想したりして遊ぶのを楽しんでいた。草野球をするにしても、芝生が柔らかいから痛いのを恐れずに勢いよくダイビング・キャッチするのが好きだった。アメリカに多く見られるこうした広い芝生は、特別な目的がないからこそ自由な遊びに開かれていて楽しかった。無目的であるから多様な行為の触発を許してくれるため、広場のような存在であると言える。

 そうして遊んでいた記憶と一緒に深く刻まれているのが、遠くまで広がる芝生の風景というより、青っぽい匂いである。雲ひとつない快晴の青空の下、走り回った後に大の字になって芝生の上で寝転がるのが気持ち良く、息切れしながら寝転ぶ芝生の絨毯は、フサフサで、緑の香りに優しく包まれる。なんとなく地球をそばに感じるような、生きていることのたしかな実感を感じさせてくれる瞬間でもあった。この臭いというものが脳内にストックされている場所は、きっと視覚情報よりも特別な場所なのかもしれない。思えば、芝生の心地よい香りは、雨上がりにも強く感じられたし、芝刈りをするときにも大量に放出されたりしていた。

 小2の途中にアメリカから日本に一度は帰国したが、日本の小学校に転校して、その校庭に芝生がなかったことに驚いた。ネットに囲まれて狭い上に、表面が土だったのがショックだった。しかし、小学校を卒業すると、今度はトロントに父が転勤になり、また家族全員で移住することになった。5年ぶりの海外生活で、もちろん英語を習得することが何より最優先であったが、スポーツを介したコミュニケーションが、私を助けてくれた。現地校のみんなと放課後によく野球をして一緒に遊んだ。
 そこには、言葉を必要としない対話がはっきりと成立することを知ったのだ。勝敗に白熱しながら、身体の動きで会話する。英語が十分にできなくても、ベースボールを通じて友達をつくることができたことが異国で暮らしていけるという自信となっていった。すると、国語の授業でも助けてもらったり、宿題を手伝ってもらったりするようになった。算数だけは、私が逆に彼らに教えてあげられる科目だったのを覚えている。

 カナダに行ってからは、3つ上の兄の真似をしてバスケットボールをやるようになった。父に家の前のガレージにバスケットのゴールネットを取り付けてもらい、毎日陽が暮れるまでワン・オン・ワンをしたものである。勝負にエキサイトし過ぎて、よく喧嘩もした。あまりにも、バスケが好きになり、どこにいてもその場所がバスケットコートであるかのように「見立てる」癖がいつしか身体に染み付いたほどである。振り返ってみると、これは何かを学ぶ上で大切な方法であるように思う。
 つまり、実際の空間や自分の身体感覚を頭の中で自在に変換し、違った世界を連想することで、自分の能力を向上させるのである。あるはずのないものが、そこにあるかのように想像するようになり、何をどのように空想しても、自由。道路の電信柱をゴールに見立ててスリーポイント・シュートを決めてみたり、家の中のドアの枠の上をリングとイメージし、ジャンプしてダンク・シュートを決めた気分になったりして、家に帰るまでの通学路でいつも一人で楽しく遊んでいた。思えば物心がついた頃からスポーツが私の生活の多くの割合を占めるようになっていた。


 アメリカ文化におけるスポーツが、最高のエンターテーメントとして、担っている役割は大きい。アメフトの頂上決戦である「スーパーボール」のテレビ視聴率は50%近くあり、驚異的で、文字通りアメリカ全土が熱狂する。一流選手のプレーに、大衆は一喜一憂し、大好きなチームを応援する。その瞬間しかないリアルタイムの歴史の証人として興奮し、盛り上がる。健全な精神で、強弱を競う真剣勝負のスポーツは、まさに筋書きのないドラマであり、人々を無条件に魅了するのだ。そこに、言語無きコミュニケーションが成立する。私も、幼い頃から大リーグやNBAの放送をいつも楽しみに観て育っていった。

 トロントに住んでいたときのことである。地元ブルージェーズの試合を観に家族で初めてスカイドームに行った。試合の途中にポツルポツリと雨が降ってきたため、大きな屋根がゆっくりと動き出した。なんと、今まで室外だったスタジアムの空間がすっぽり室内になった。わずか数分間で変わったことに衝撃を覚えた。その圧倒的なスケールで建物の一部が動き、空間に劇的な変化をもたらすことができる建築の力に中学生の私はすっかり魅了されてしまった。そのときばかりは、目の前の野球どころじゃなかった。観客の歓声や、選手紹介のアナウンスも一段と臨場感をもって迫ってきた。
 加えて、屋根が閉まったときに球場内の香りが、また印象的だった。人工芝の匂いなのか、以後、閉じたスカイドームに行くと漂うあの独特な香りは、私を興奮させるスイッチとなった。1993年にブルージェーズがワールドシリーズを制覇して世界一になった試合をライトスタンドから観戦した時の感動もまた、あのスカイドームの独特な匂いと共に深く記憶されている。
 
 中3になって今度は、イギリスのマンチェスターに引っ越すと、大リーグからプレミアリーグのサッカーに私の関心は自然と移り替わった。今度は、4つ下の弟とサッカーボールを蹴りながら遊びようになった。観る方では、ユナイテッドの本拠地であるオールド・トラフォードに頻繁に通い、名将アレックス・ファーガソンが率いるチームを応援した。フランス代表のエリック・カントナを中心に世界最高峰のサッカーをユナイテッドは見せつけていた。大観衆の声援がスタジアム全体に地響きのように鳴り響き、鳥肌が立った。
 この異様な雰囲気に包み込まれる体験は、それまでバスケット少年だったために、あまりサッカーを知らなかった当時の私を一瞬にして虜にした。ライアン・ギグスやポール・インスが全盛期で、超攻撃的サッカーをし、守護神のピーター・シュマイケルが敵のシュートをセーブするごとに怒号のような大歓声に包まれた。後にスーパースターとなるデヴィット・ベッカムがまだ若手の控え選手だった頃の話である。
 
 実際私は、かなり多くのスポーツを生で観るチャンスに恵まれていたと思うが、忘れることのできない、震えるような体験をしたのは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで観たブルズ対ニックスのNBA観戦である。ブルズの黄金時代を築いたマイケル・ジョーダンやスコッティー・ピペン、デニス・ロドマンを、ジョン・スタークスとパトリック・ユーイングらが迎え撃つ好カード。
 マイケル・ジョーダンは、とにかく異次元の異彩を放っていた。当時「Like Mike, if I could be like Mike(私がマイケルのようになれたなら)」というフレーズを歌ったスポーツドリンクのゲータレードのコマーシャルが流れていたが、まさにバスケをやる誰もがマイケルのようになりたかった時代である。毎日プレーを真似していた張本人が、実際に目の前にいることが信じられなかった。マイケルと同じ空間で、同じ空気を呼吸していることに、ただただ感動した。彼の華麗な動きに釘付けになり、すべてのプレーを目に焼き付けた。まるでコートがミニチュア化されたかのように収縮し、空間が小さく見えるほど、ジョーダンの存在感は圧倒的だった。テレビでは拾えないヘッドコーチの声や選手同士の掛け声にも驚いた。息をのみながら、神と言われる伝説選手のプレーに観入っていたら、試合はいつの間にか終わってしまっていたのである。実に不思議な時間感覚だった。スポーツを観てから家に帰っても、興奮さめやらぬ状態があれほど持続したのは、あの時が最初で最後である。

 スポーツの魅力は、巻き戻しのできない一回性にあるように思う。マイケル・ジョーダンが今、この瞬間にどのようなプレーをするか、観衆の想像を超えて、超人的な身体能力を惜しげもなく発揮する。観る者たちは、その瞬間だけ自分もプレーしているような錯覚に陥るほど、惹きつけられる。脳内でミラーニューロンが働いて、その瞬間だけ自分も何かを確実に分かち合っている。あのとき、私もマイケルと繋がっていたのだ。それこそ、言葉を必要としない、スポーツの最大の力、感動の共有であり、多くの人がこの高揚感に強く勇気付けられている。スポーツの醍醐味は、実際の記録よりもそうした心を鷲掴みにされるような瞬間を共有することなのだ。目の前の出来事をそれぞれが自身の体験として持ち帰り、また明日も頑張ろうと思えるような健やかな気持ちにさせてくれる。

 アスリートと観衆がある種の共身体を形成する上で、競技をしている空間そのものの力も大きいと私は、考えている。例えば、「鳥の巣」の愛称で親しまれている気鋭のスイス人建築家ヘルツオーク&ド・ムーロンの設計による北京のオリンピックスタジアムが、その良いサンプルだろう。中国の現代美術家であるアイ・ウェイウェイと協働して完成したこの競技場は、圧倒的存在感を放ち、オリンピックが残した歴史遺産として今も多くの人を惹きつけている。この建築が北京を象徴するようなモニュメンタリティーを獲得したのは、一度見たら忘れないような強烈なイメージの力と、巨大建築における選手と観衆の圧倒的な一体感のためだろう。まさに誰が見ても「鳥の巣」のように、鉄の構造体をむき出しにしたスタジアムは、オリピック期間中世界中のメディアでその姿を露出し続けたことで強度あるアイコン建築となった。機能的に9万人を収容することができること(オリンピック後、8万人にダウンサイズされた)も大切だが、それと同時に、北京の市民が、あるいは中国人全体がこのスタジアムの存在を世界に誇れることが大きな価値を生み出したのである。

 もちろん、オリンピック毎に、このような巨大建築をつくる必要があるかないかは、また別の議論である。つまり、2020年の東京オリンピックの話しだ。巨額な税金を投入して、今の東京に新たなアイコン建築が必要なのかは、議論の余地がある。というのも、東京という都市は、既に高密度に成熟しており、あのような巨大スタジアムの有無については、賛否両論だと思う。しかし、巨大な建築の出現で、建築の夢を見ることがあることも決して忘れてはならない。

 事実、1964年の東京五輪が今なお我々に代々木体育館という丹下健三の名建築をつくってくれたように、ザハ・ハディドによる新国立競技場もまた、まだ見ぬ未来の日本人を誇らしく思わせる名建築になるかもしれない。いや、ならねばならない。私は、コンペの狭い応募資格や審査の透明性には多々疑問を持っているが、ひとたび勝利した建築家に対して、あれこれバッシングするようなことには違和感を覚えてならない。むしろ、予算と工期を最大限守りながら、立派なスタジアムが完成することを強く望んでいる。多くの制約を乗り越えて、是が非でもそれを達成してもらいたい。そして、そのほかのオリンピック関連施設がもっと広く多くの建築家に素晴らしい建築を実現するチャンスが与えられ、透明性の下で、進められることを切に願っている。


 建築が都市の風景をつくり上げていることは、間違いない。そこには、多様な風景があっていい。屋根が開閉するスカイドームで幼い頃に感動したように、あるいは、あのオールド・トラフォードの大観衆の熱狂で心動かされたように、一度に何万もの人を収容し、同時にスポーツを観戦すること(もちろん、ロックバンドのライブ体験であってもむろん構わない)は、巨大建築にしかできない大事な可能性なのである。

 唐突だが、日本には、広場がないと言われてきた。ほとんどの駅前広場などがいつも閑散としているように、たしかにイタリアなど欧州に見られる人々が自由に集う公共の場所としての広場は、ない。島国である日本の地形が山に囲まれていることとも関係しているかもしれない。アメリカの広い芝生のように、無目的に自由に遊べるだだっ広い場所が都市の中に形成されなかったからかもしれない。そもそも、目的がない場所に人々が集うことが難しくなってきているという仮説はどうだろうか。昔は、土間や縁側などの中間領域が家における街との接続ポイントの役割を果たしていたが、隣近所を知らない大都市になるとそれは難しい。つまり都市における空地は、所有の問題で、自由に何をしてもいいということが許されておらず、仮に共有資産としてみんなの土地があったとしても、上手に使いこなすことができないだろう。東京では狭い空地でさえも、固定資産税との関係もあるが、すぐにコインパーキングになってしまう。
 
 しかし、スタジアムなどの巨大建築は、無目的な広場と違って、スポーツを観戦するという明確な目的があるからこそ成立している。そして、たくさんの人が集うという意味では、スタジアムこそ日本にとっての「広場」ではないかと思うのだ。そうした記憶に残る体験の器としての巨大建築のあり方を、人口の減少していく縮小化社会においてさえも持続可能な運営システムも含めて、しっかりと考えていかなければならない。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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