これからの建築スケッチ

第14信 二人のアトリエと本のある空間

2015.05.25更新

 二〇世紀を代表する画家であるアイルランド出身のフラシス・ベーコンの絵画は、どこまでも複雑で、何がなんだかよくわからない。しかし、私は無性に惹きつけられてしまう。動くはずのない光と影の絵画芸術のなかにあって、彼の描く絵には、どことなく「動き」が感じられるからだ。静止画なのに、不安定さが切り取られていて、カンヴァス上の線が躍動する。何かを見て、その通りに描こうとする具象の絵画でありながら、そこから立ち上がる雰囲気、あるいは印象を描くような抽象絵画でもあるような、後にも先にもフランシス・ベーコン独自の世界観を構築した恐ろしい芸術家なのである。

 ベーコンの絵を初めて観たのは、ニューヨークの近代美術館だったように記憶している。と畜された牛の前でこうもり傘を持つ男が描かれた《絵画(1946)》という作品は、あまりにグロテスクで足早に見過ごしたのだが、《三つの顔のための習作(1962)》と題された小さな三部作の前で足が止まった。その異様さに釘付けになり、つい沈黙してしまった。
 動きがキャンバスの上で表現されているということは、そこに「時間」が閉じ込められている、と言い換えてもよい。絵筆のストロークが生き生きしている。時間芸術である映画のような映像作品ではなく、絵画作品の中に時間の幅を感じるということは、描かれたそれぞれの顔の中にたくさんの表情が絶妙なバランスを保ちながら同居しているということだ。
 そして、ふと気づいた。フランシス・ベーコンの絵には、サインが見当たらない。作品が静止することを意味する完成の瞬間が感じられないから彼の絵は動くのだ。それは、終止符がない文章のようなもの。つまり、ベーコンの絵画作品には完成を意味するサインがないために、絵を捉える私たちの目線は、どこか流動的にふわふわしている。私たち鑑賞者の目線は、ひとつの肌理にピントを合わせることができず、浮遊し続けている。そして、それこそフランシス・ベーコンという偉大な画家が作品の中に「動き」を表現し得たひとつの手がかりだと私は考える。

 作品にサインを入れないということは、それほど特別なことではない。それは、画家がいつでもカンヴァスと徹底的に向き合っていることを意味する。つまり、自身の中で描きたいというドロドロした形のない欲求、見えない何かを手探りでカンヴァスの上に描き出すという過度な集中を要する真剣勝負において、ベーコンは作品と向き合うことを決してやめない。
 古今東西の天才芸術家の例に漏れず、アルコールやドラッグによって、また同性愛者としても知られるベーコンは、豪快な私生活を送っていたのだが、ひとたび筆を握ると孤独を抱きしめながら、創造することをやめなかった。内に秘められた強烈なエネルギーを放電するためには、描かずにはいられなかったという方が正しいのかもしれない。

 彼のアトリエをペリー・オグデンが撮影した《Francis Bacon's Studio》という魅惑的な写真集がある。1992年に没するまでのおよそ30年間に及ぶ制作の拠点としていたロンドンのサウス・ケンジントンにあるリース・ミューズ7番地のアトリエには、ただならぬ世界が広がっていた。その建物が、なにか建築として特別な空間という訳ではない。しかし、異様なまでに雑然としたアトリエは、ベーコンの生活が作品制作と分断しないで、まったく地続きであったことを如実に表している。
 床や壁、棚にドア、部屋の中のスペースというスペースに絵の具が盛られ、作品を描くために絵の具のチューブからパレットに絞り出す時間さえ惜しむかのように、所狭しと斑点状の試し塗りがされている。さながら、このアトリエもベーコンの立派な作品であるかのように強いエネルギーを発している。小さなトップライトから入る崇高なまでの太陽光を頼りに、この空間でベーコンはカンヴァスと向き合い続けた。
 このアトリエで彼は、さぞ心地よかったことだろう。まさに空間と自身の身体が同化して、手と筆、筆と絵の具、絵の具とカンヴァス、それらの境界線が見事なまでに溶け合っている。このむき出しの制作現場を見て、初めてフランシス・ベーコンという画家が少しだけ理解できたように思う。なぜならこれほどまでに身体化されたアトリエを私はこれまで見たことがないからだ。

 決して広くはないこのアトリエで、何枚かのカンヴァスをおもむろに立てかけて、同時進行で幾つかの絵を描いていた。複数の絵を同時に行ったり来たりしながら制作していたことは、ベーコン自身の日常に流れる時間を表現する上では、欠かせなかったことではないだろうか。
 足の踏み場もないほど床に落ちている新聞や雑誌の切り抜きも決してゴミなどではなく、彼の創作を下支えする大事なパズルのピースである。あの濃密な空間には、ベーコン本人にしかコントロールできない動的平衡性があり、きっと彼は、あそこでしか本質的な創造ができなかったはずである。
 あの空間に身を置いてこそ、ベーコンは自分の身体感覚と対峙し、心の状態を深く観察しながら多くのインスピレーションを得たのだろう。内なる制御不能な何かを絞り出す作業は、このように描きたいという完成予想図がある類のものではない。いつだって不確定なものであったはずだ。流動的なその時々の心象風景を手探りに描き出す行為は、ジャズのインプロビゼーションに類似している。その時近くにあった絵の具と、少し前に塗った絵の具が、たまたまそこにあった筆によって、偶然の化学反応をカンヴァスの上で繰り返す。予測不能な作品は、不定形のものを定形していく連続によって生み出される。そして、そこにサインがないために、完成することなく、ずっと具象と抽象のあいだを華麗に躍動するのである。

 時代も国も異なるものの、二〇世紀の芸術に同じく革命を起こした人がいる。それは、アンディ・ウォーホル。彼もまた、大量消費社会において飛躍的に情報化が進む中、「ポップアート(ポピュラーアートの略)」と呼ばれる大衆芸術という分野を開拓し、今までにない世界観を見せつけた恐るべき芸術家である。日常的なキャンベル・スープ缶やコカ・コーラの瓶でさえ、アートのモチーフになり得るということを提示し、芸術の世界を圧倒的に拡張した。
 自分の手で描くことで担保されていた作品のオリジナリティを、自らの手を下さずに、アシスタントによって「マルチプル」に複製されたとしても、作品のアウラが存在することを証明したのである。このとき、作品の裏に直筆のサインを記入することが、唯一の認印となる。こうして、マリリン・モンローや毛沢東などの著名人の画像を、シルクスクリーンという版画技術を巧みに利用しながら親しみのある「イメージ」として量産していった。一つしかない手描きのオリジナルでなく、あったかもしれないすべてのバリエーションも同様に価値があると考えたのである。

 時代の最先端を駆け抜けたウォーホルの創作拠点もまた、圧倒的な空間であった。それは、ニューヨークの精肉店が集まるミート・インディストリーの一角にあり、「ファクトリー(工場)」という愛称で親しまれていた。そこに、バスキアなど同時代の芸術家やミュージシャン、作家、俳優、ダンサーまで、ありとあらゆる雑多な人たちが集まるサロンでもあったことは特筆すべきことだが、それよりも、その内装がすべてシルバーに光っていたことに、私は驚嘆する。
 ファクトリーに出入りしていた舞台照明デザイナーのビリー・ネームによって壁や天井など、目に入るものすべてが銀色に施された。ネームが撮影した《Andy Warhol's Factory Photos》という写真集がある。鉄の柱や天井は、アルミホイルで覆われて、レンガの壁にはシルバー・スプレーがべっとりと吹き付けられた。自身がつくりだすアート作品が、何色にも染まらないことの証であるかのように、その制作現場は、ニュートラルな「無」の状態として場所づくりされていた。
 銀一色だったファクトリーの過剰なアトリエ空間は、社会を映し出す鏡として存在し、変幻自在な彼のスピード感ある作品たちを大量生産するための大事な環境だったことは、間違いない。いかなる芸術作品も、それ単体では存在できず、その作品が置かれた環境との関係性によって、初めて認識されるもの。対象を鈍く反射させるシルバーな空間こそ、アンディ・ウォーホルという才能が開花するための欠かせぬインスピレーションであったのではないか。

 既成概念に捕らわれることなく、世界の新しい見方を提示するような芸術作品をつくり出すための舞台が銀一色の風景であったというのは、ウォーホル自身の芸術的感性がいかに開放的であったかを指し示している。なにもかもを映し出す装置として機能するシルバーなアトリエで、対象に居つくことなく、自身が変容し続けることを恐れない覚悟が感じられる空間であるからだ。絵画であろうと、立体作品であると、映像作品であろうと、彼のつくり出すものは、いつも今までに見たことのない斬新さを獲得していたのは、そのためである。
 ウォーホル自身が対象に留まることなく、常に自身と向き合い、新しい可能性に向けて鏡のように、対象を客観視する違った位相からの視点の持ち主であったことが、ポップアートの強度となったのではないか。それは、ウォーホルが世界的なアーティストとなる前に、社会の要請に形を与える商業デザイナーとしてキャリアをスタートしていたこととも関係する。社会の空気を読み取る感度の高いセンサーの持ち主であったということだ。いろんな人や物との交流をしながら、どこかに固定しないで動き続けることで、獲得されたエネルギーは、複雑で多様な輝きを放つ。ポップアートという未知の様式を完成させたアンディ・ウォーホルの軽やかな芸術の魅力は、あのような特別な場所で生まれていたことを知り、妙に腑に落ちた。

 偉大な二人の芸術家のアトリエ空間、つまりは何かを生み出す過剰な場所の特性について述べてきたわけだが、なにも特別なアーティストではなく、我々の日常生活における身の回りの空間においても、何かを創作する意欲や勉強したいという知性が発動されるためには、日頃置かれている環境が大きく影響する。例えば、家の中にある書物の存在について考えてみたい。

 実は、私の生まれ育った家には書斎がなかった。ろくに本棚もなく、幼い頃は、腰を据えて一冊の本に向かい合って読書するという習慣もなかった。帰国子女として受験をし、寮のある埼玉の高校に入学してから、初めて一冊の書籍を読み通した程である。その分、外で野球やバスケをして遊ぶことが生活の大部分を占めていたというのは、言い訳に過ぎない。
 高校一年生の時、現代国語の授業で、ほかの生徒に比べて教科書を読むスピードがあまりに遅いため、担任の先生に休み時間に相談をしたところ、母校の大学の先輩であるという理由から村上春樹の『ノルウェイの森』を勧められて読んでみたのが、最初である。それが、とにかく面白くて一気に読み切ってしまった。自分が本を読んでいることが新鮮であり、楽しかった。以後、本を読むことによって、たくさんの人の人生をトレースできる喜びを覚えていった。それは、新しい地図を手に入れたことで目の前の風景がわずかに違って見えるような体験であり、少しずつ心の眼が広がっていくような幸福な感覚を味わったのである。

 幼少時代に『ファーブル昆虫記』や『怪人二十面相』、『エジソン伝記』などを読み漁っていた人たちが羨ましくて、自分の貧弱な読書体験に対する劣等感を埋めるべく、とにかく本を読むようになった。初めての一冊を読んでから二十年以上が過ぎても、私と本の関わり方の根底にあるこの「周回遅れ感」のようなものは、変わらない。むしろ、本を読めば読むほど自分の知識が増えることよりも、この世の中に知らないことがあまりに多過ぎて、逆にそれをフレッシュな学びのチャンスだと開き直った。いろんなジャンルを雑読し、読みたいものを読みたいときに読めるようになると、自ずと本の読み方も変化してきた。
 最初は、遅れを取り戻そうと、読書量を増やすことばかり気にしていた。一日何頁、月に何冊というように、数で換算できる目標をつくった。加えて、作者から何かを確実に得ようとして、必死に文章をなぞっていた。分からない言葉が少しでもあると、辞書を引き、完璧に最初から最後まで読み切ることを心がけた。しかし、読みたい本が増え、また同時にいくつかの本を読むようになると、そもそも本の中に「答え」など無いと感じるようになった。それよりも、「問い」がたくさん埋め込まれているのではないかと。

 読書量よりも大切なものは、自分の知的好奇心を発動させるためのトリガーとしての読書だと気ついたのだ。つまり「自分でものごとを考える」癖を身につけることが、読書の本質だと思った。何かを知って自分の知見を広げることよりも、自身の無知を知ることの方が考えるきっかけとなるからだ。
 具体的には、いかにハイデガーや、夏目漱石の言葉であっても、本に書いてあることをそのまま鵜呑みにしないこと。自分なりに先人たちの言葉に対して多角的な光の照らし方をみつけたのである。それは、文章をフォローしながら、行間を読み、自分の頭の中で読書中に浮き上がってきた考えを楽しむようにしている。そもそも、考えるということは苦悩であり、考えなくて済むのであれば考えない方がよほど楽である。しかし、それでも考えることを鍛錬するためには、そのことを楽しむことだ。

 批評家の小林秀雄は、「美を求める心」という美しい文章のなかで絵画や音楽を勉強するためには「先ず、何を措いても、見ることです。聴くことです」と答えた後に「見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです」と述べており、裸の目で文章を読むようになった。そのために、私は本を読んでいて気になった言葉に出逢うとすぐにアンダーラインを引く。そして、時にじっくり考える。読書のリズムを崩さずにガシガシ線を引き、後にそれらの箇所を読書ノートに書き留めたり、再読したりする。結果的に、著者に対する敬意と、本に対する愛情が、豊かな読書体験を継続させるためには、不可欠なのである。
 なぜそうするかというと、それぞれの本の中に書いてある内容を平気で忘れてしまっていたからである。肥大化する自分の部屋の本棚に並ぶ本の背表紙たちを眺めても、その内容をすっかり忘れてしまっていることが、最初はショックで許せなかった。多和田葉子の小説や長田弘の詩集、山本夏彦のエッセイに、柄谷行人の思想書、ハンナ・アーレントの哲学書など何を読んでも、その内容が深く定着している本は、そう多くない。要するに一冊の本に書かれた著者の言葉を正確に理解し、覚え続けることの難しさを知った。

 ピョートル=クロポトキンの『相互扶助論』のような名文を読んでいるときにグングン体温が上がっていくような読書体験は、ある事象について「こういう風に考えてもいいのか」、あるいは、「自分が漠然と思い描いていたことは、そういうことだったのか」と言った具合に著者と深く共鳴したときである。
 そして、その瞬間にそう思えたことが何より重要なのであって、それらをすべて記憶に留めておく必要はないと思うに至った。その瞬間を全力で向き合っていれば、忘れたっていい。そもそも、何かを理解するということは、本を読むだけでは難しい。読書を通して、奥行きのある思想と出逢うと、それを自分の中で考え続けることが必要になる。思考を身体化させる。だから、本の内容をすべて覚えていたらきっと脳がパンクしてしまう。たとえ内容のほとんどが、忘れられたとしても、読書を通してその時々に考えたこと、自分が反応した無意識なプロセスこそ、大切にしたい。その忘れられていく瞬間を丁寧に積み重ねていくことでのみ、新しい思考に耐えるオープンマインドな知性が培われていくと信じたいのである。

 だから、本の解釈は、いつも読み手に委ねられている。思想家の井筒俊彦は、『「読む」と「書く」』というエッセイの中で、「表現を待っている意味、が書き手の意識のなかに成立していて、書き手はそれを表現するのに一番適切なコトバを探し出してきて言語化する。だから、当然、コトバは透明でなければならない。書き手が並べた透明なコトバの連鎖を通して、その向う側に、書き手の心に始めから存立していた意味 -- つまり言語化前のリアリティ -- を理解する、それが「読む」ということだ」と述べている。そして、「意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する」と教えてくれる。

 まさに、本は読まれることによって完成する。著者からのメッセージの受け取り方は、決して単一ではなく、十人十色である。自由に開かれている。事実、初めて読んでからかなりの時間を経てからその内容を理解することばかりである。結局、本を理解するのは、後になってからでもいい。ただ、本の中に書かれた言葉が心に響き、まるで自分のことのように著者と共鳴しながら読み進めることができればそれは、自分にとって名著であるということだ。

 三島邦弘の『計画と無計画のあいだ』や、山縣良和+坂部三樹郎の『ファッションは魔法』などは、私にとっての「建築と設計」という言葉が「出版と編集」、「ファッションとデザイン」に置き換えられているだけで、あたかも自分の物語を読んでいるかのように錯覚するほど、深く共感した幸福な読書体験であった。
 名著は、とにかく何度も読み返せばいい。再読する度に新しい発見が名著にはあり、変容し続ける自分を知るための定点観測になったりする。また、名著というのは、しばしば別の良著への扉となっている。一冊の本の中には、膨大な時間が閉じ込められており、ある意味ではそこに参照されることで、人類の壮大な伝言ゲームが歴史として共同作業を通して構築している。だから、私は先に引用した小林秀雄による全作品集を読みたいと思った。一人の人間が生涯をかけて結晶化させた言葉の総体を感じたい。そうすれば、自分がものごとを考える尺度を増やし、複雑さに耐え得る柔軟な思考回路を育みたいのである。

 このような本に対する考え方を構築していったのは、私が常日頃から本に囲まれた生活を送っているからだ。本の存在が感じられる本棚が、家の中の大事なエレメントなのである。自分のお気に入りの本が、無垢の板材の本棚か、合成樹脂のチープな本棚に、収められているのとでは大違いである。自分がどのような本に、どのようにして囲まれているかによって、私たちの知的パフォーマンスが変化すると思うからだ。

 これは、ファッションに似ているかもしれない。だらしない格好していると、気分まで冴えないけれど、パリッとアイロンの掛けられたシャツとスーツを着ると、気合が入るもの。つまり、自分が読んで感動した本や、これから読んでみたい書籍が、美しい状態で身近にあると、その空間に対する自分の身体センサーの感度を上がる。素敵な図書館や整頓された本屋さんに入ると、身体中の毛穴が広がって、ある種の興奮状態に入るのも、そうだ。紙でできた本には、その内容以上に、物体としての魅力が放たれている。友人の家に遊びに行くと、つい本棚を凝視してしまうのも、そこに収められた本の背表紙たちが、部屋の主人の知的好奇心の方向性や熱量を代弁するからである。
 読み切った、途中で挫折した、まだ読めていない、といったことは全く関係ない。身の回りにある本は、読まれることによってのみ、その役割を果たすわけではない。先人たちが本を通して伝えようとしたメッセージをどのように受け取るかは、さまざまである。そこにあるだけで、将来読まれるかもしれない可能性を持っている。

 一冊の本は、著者からの手紙であると思っている。だからこそ、読むべくして読むタイミングを感知することもできるはず。読まれなかったとしても、そこには必然性がきっとある。今となっては、むろん、本に「呼ばれる」のを待つ感覚さえ芽生えるようになった。手紙に込められた想い、あるいは手紙が放つオーラらしきものは、内容に拘らず、私たちの想像力を刺激し、思考力を高めてくれる。つまり、本の存在意義は、深く思考するための扉であり、身体感覚を整える上においても、大事な役割を果たしている。
 先にも述べたように、何かを得るために本を買っているのではない。支払った本の価格の分だけ知識などの対価が与えられないと意味がないといった損得勘定では、本の本質は決して分からない。繰り返しになるが、どんな本にも、答えを求めるのではなく、じっくりと考え続けられる強度ある問いに出逢えるかが重要だと思う。そのために、射程の広い、多様な本が手の届く位置にたくさんあることが私にとって、心地よい空間の必要条件である。

 ベーコンがアトリエの空間そのものをパレットに見立てて、身体の延長として住まっていたように、またウォーホルのスタジオが鏡のように何かを留めることなく常に反射する力強い空間であったように、自分の身の回りの空間にこそ、私たちの身体は的確に反応し、パフォーマンスの精度が決定づけられる。身体は、無意識的にも周りの環境に依存するので、心を透明にするには、場所づくりから始めなければならない。本が読みたくなる書斎や、何かをつくりたくなるガレージ、料理が楽しくなるキッチンなど、自分にとって理想的な空間を自らの手でチューニングしながら構築していくことが、気持ち良く何かを生産するためのたしかな一歩であると考えている。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

バックナンバー