きんじよ

第3回 まんざい ぼんち

2015.12.24更新


 何年前になるか、オープンの日、自転車で前を通りかかったら、お店のおにいさんが花輪の前にしゃがみこんでいた。
「とんかつの店ですか」
 サドルにまたがったまま尋ねたら、
「はい、まあ」
 と、なにか悪いことしてるのを見つかった子どもみたいな照れ笑いで、お店のおにいさん、清水さんは振り返った。
 それからしばらくの間があった。夜に、赤ん坊のひとひを置いて、ひとりで飲みに行く気はおきなかったし、なによりうちの園子さんが、毎食、世界最高の居酒屋みたいな献立をそろえてくれた。
 今年、2015年の夏のある日、ふたりは東京の、園子さんの実家にいっていていなかった。こういう場合の晩ごはんは、ほとんど、高校生のころから通っている北白川の「おおきに屋」で取ることにしていた。大阪のチョー有名なお笑い芸人もひいきにしている、京都最強のごはん屋さんだ。
 ところがその日はたまたま木曜日、「おおきに屋」の定休日だった。ひとりでずっと朝から書いていたので、気がついたらおなかが空っぽで、その胃のなかからマンガのふきだしのように、
「とんかつ」
 という字が、ふわりと口もとに浮かびあがった。
 ひとりででかけてみると、薄暗いなかに、木の長いカウンターが伸びていて、近所で顔をみたことのあるような、ないような、おにいちゃんおねえちゃんが、しきりにグラスを持ち上げながら、楽しげにふわふわ揺れている。「とんかつ」と書いてあるけど、ここは「とんかつ」だけじゃない。そう感じ、カウンターのなかでいそいそ動きまわる清水さんに、
「おまかせで。なんでも」
 と告げた。
「はい、あなご、あるんで」
 といって清水さんは、カウンターくらい長い(そのときはそう見えた)大あなごを片手にぶらさげてゆらゆら揺すった。そうか、とおもった。ここは、一見陸上にみえて、海なんや。京都の深い、海の底や!
 それから何度も、思いついた夜はひとりで足をむける。いつでかけても、ぼーっとしたマンボウや、くねくね動くミズダコ、ひらひらと泳ぎまわるうつくしいクラゲ、タツノオトシゴ、ときには鋭い目のシュモクザメなんかがうごめいていて、そういうなかに僕は腰をかけながら、夜の波打ち、時間の満ち引きを、闇のなかにかぎ取ろうと鼻を動かす。清水さんみずから漬け込んだオリジナルの酒を口にはこび、その日はいったふしぎな食材がそこらで跳ねまわるのを眺めている。
 お坊さん、学生、弁護士、作家、社長、歌舞伎役者、幽霊、落ち武者、ざしきわらし。ありとあらゆる京都のいきものが、空気を波うたせながら通ってくる。
 いま京都でいちばん勢いのあるお店。「おおきに屋」が開店した当初は、きっと「とんかつ清水」そっくりだったんじゃないか。この原稿を書いている、前日、当日と、園子さんとひとひは東京にいって留守なので、ゆうべは当然いったし、今夜は東京から新聞のひとがくるので、連れていくつもり。「誠光社」「とんかつ清水」さらに「國田屋酒店」が、徒歩一分の圏内にひしめく。京都の海底の一角にいま、恵比寿っさんの冗談みたいな、奇跡の生態系がうまれている。






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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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