きんじよ

第11回 おちゃ オチャ OCHA 茶

2016.02.28更新


 二十年近く前、東京に住んでいたころ、ひとに誘われて、表千家のお茶に入門した。週に一度、東京西部の住宅地へ行き、ベテランの先輩らにまじって、阿呆の子のように必死に茶筅をふる。
 八十歳前のS先生は、お茶の精のような女性だった。先生が動くと、いい音がし、いい香りが空間をたなびいた。お茶を習いに、というより、僕は、先生に会うため、お茶にかよいつづけた。東京から、神奈川の三崎に引っ越したら三崎から、信州の松本へ引っ越したら松本から、京都へうつったら京都から、新宿のそばの先生宅へと。
「え、京都から、東京へ、お茶ならいにいったはんの?」
 と苦笑する京都のひとが少なからずいたけれど、しょうがない、S先生が住んでいるのは、京都でなく、東京なのだ。
 園子さんのなかに、のちにひとひと名付けられる生命が宿った二〇一〇年の春、S先生は入院し、面会謝絶となった。僕と園子さんが見舞にいくと、意識不明の重体でベッドに横たわっている先生の手が、園子さんのふくれあがった腹部にのびた。プラスチックの酸素マスクが白々とくもる。耳を近づけると、先生は園子さんのおなかをさすりながら、
「し、あ、わ、せ、よ・・・」
 とささやいていた。
「ゆ、め、の、よ、う・・・」
 あとでご家族にきいたら、これが最後のことばになったそうだ。
 そうして、先生が「むこうがわ」に遠ざかってしまってから四ヶ月のち、だしの匂いを分娩室じゅうにまきちらしながら、「むこう」から「こちら」へ、ひとひがやってきた。出産予定日だった前日、お祝いに、といって食べたはもしゃぶと焼きまったけの香りが、羊水に移ったのだ。
 こういうのも「お茶」ではないか。
 そんなような話をあつめたお茶の本「且座喫茶」が、去年の秋、淡交社から出た。「まあ、ちょっとすわって、お茶でも一杯」くらいの意味。
 かねてから、いっしょになにかしましょうか、と話していた一保堂のみなさんと、これを機会に、イベントをひらくことになった。

 一保堂で音楽会 春

 「いしいしんじさんと蓄音機」


 扇形に置かれた二十五席の卓に、みずから立てたお茶をその場でいただくための「自服」セットが置かれ、要に置かれた大テーブル上に、どーんと蓄音機の「コロちゃん」が正座している。
 蓄音機の横の小さな卓で、五歳のひとひともうすぐ六歳の「はーちゃん」が向かい合わせに座り、しゃかしゃか茶筅を振っている。つきそいは渡辺都さん、一保堂のご主人・渡辺孝史氏の奥さんだ。はーちゃんは都さんの孫娘。ひとひは都さんを勝手に親友だと思っている。あるいは、少々年の離れたガールフレンド、と。
 イベントがはじまり、パブロ・カザルスがチェロを奏で、マリア・カラスの声が京都の土地を揺らし、リトル・リチャードが、ジュディ・ガーランドが、ジーン・ケリーが、この世で唯一のうたをうたった。
 遠く松戸からやってきてくれたご夫婦が、最前列にすわっていた。家内はエルヴィスがいちばん好きなんです、そう、八〇前くらいのご主人がいった。「ラブ・ミー・テンダー」をかけると、エルヴィスがあらわれ、ギターをかかえ、前傾姿勢で、奥さんだけのためにうたいだすのがありありとみえた。
 こういうのも「お茶」だ。
 ひとひとはーちゃんの姿が、会場内にみあたらない。でも、イベントに参加している気配はそこらじゅうに波打っていた。あとできいたら、都さんとともに、一保堂に隣接した自宅の地下室で、かくれんぼや電車ごっこ、その他、ありとあらゆる遊びを三人で発明し、つぎつぎと実行にうつしていたとか。
 これもたぶん、「お茶」。
 イベントのあと、会場に、近所のすばらしいイタリアン「コロンボ」、すばらしい寿司店「末廣」から、ケータリングの料理がとどけられた。こどもたちは、たらこスパゲティをほうき星のようにたなびかせながらテーブルのまわりを駆け、おとなたちは赤ワインの雨をたがいに浴びせかけた。
 これも、「お茶」といえばお茶。
 イベントの三日後、都さんの手から、「いしいしんじ様方 いしいひとひくん」と書かれた北海道新幹線が、我が家の郵便受けに到着した。
「いそがしかったけど、おもしろかったでしょう」
 と都さんは書いていた。
「このカード、よろこんでくれるかな。またね」
 これはお茶。
 ひとひは少し考え、翌日、ミシマ社までキックスケーターで走っていくと、
「おちや」
「オチャ」
 そして、エーゴで、
「OCHA」
 うまれてはじめて書く漢字で、
「茶」
 と書いた。
 そしてそのまま一保堂にとどけにいった。都さんは終日留守、とのことで、一階店舗の女性に、まるめて輪ゴムでとめた紙の束を預けた。
 夕ごはんのとき、僕が、
「もう、みやこさん、うけとって、よろこんではるんちゃうか」
 といったら、ひとひは視線をはずし、
「いやー、まだ、かえってへんとおもうで」
 と、すました顔でいった、
 これはお茶。





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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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