きんじよ

第17回 ま〜ぐ〜ろ〜

2016.05.01更新


 六十年つづけてきた学習塾を、父が、とじようと決めた。
 大阪住吉区の万代池のそばで、六十年前、まだ学生だった父がひらいた塾は「帝塚山泉の会」という。おもに中学生対象。たまに小学校高学年、高校生もみる。
 僕が小学生だったころは、ひと学年百人以上の生徒を集めた。コピー機、ファックスはもちろん、カタカタ鳴るパンチ式のコンピュータまで、塾に役立ちそうなものは、なんでもいち早く取り入れた。
 たまに実家に帰り、食卓を囲むと、
「いま来とる谷川の孫な、これがもう、めちゃめちゃやんちゃなやつで」
「三十七期生の松尾くん、いまは大阪府警で警部やっとるぞ、警部」
「二十三期生の山本のとこな、サンフランシスコに引っ越ししよって」
 口をひらけば父は、いつも塾生のことばかり。五千人いるという卒業生の、すべての顔と名前、それに成績、得意科目、しゃべりかたを記憶している。近所の電気屋さん、酒屋さん、煙草屋さん、中古車屋、不動産屋、警官に教師、あらゆる人間が、父の教え子である。その子どもはもちろん、孫まで、三代かよったという家も珍しくない。
 全国学習塾連盟の理事長を長くつとめた。会合は東京でひらかれるが、夕方、子どもたちのやってくる時間には、必ず、大阪の教室に戻っている。父は今年八十四歳になる。六十年間同じ場所で、ほぼ毎日こども相手に「せんせい」をやってきた人間は、皆無とはいわないでも、広い世間をみわたしてもやはり相当珍しいだろう。
 塾をとじるにあたり、過去に父のもとで「スタッフ」として働いた大勢のひとが、祝いの宴をひらいてくれることになった。
「スタッフ」とは、塾を卒業し、高校を経て、大学入学のタイミングで、父に電話でヘッドハントされた元「学生バイト」のこと。バイトといっても、六十年の蓄積があるため、いまではもう会社社長だったり、学校を退官していたり、主婦だったりおばあちゃんになったりと、それぞれの生にそれぞれの花を咲かせている。
 阿倍野にある中国料理店の大広間には六十人近い「スタッフ」が集まった。しばらく歓談するうち、みな大学生だったころ、さらには小中学校から泉の会にかよっていたこどものころの顔になっている。ここにいるすべてのひとの過ごした、長い生のどこかしらに必ず、父と費やした何年間の会話が詰まっている。そうおもうとふしぎな気がする。
「ええ、では開会いたします」
 僕も教わった、国語の河上先生がマイクを握っている。
「まずは石井先生から、おことばをいただきます」
「えー、石井です」
 父がマイクを取る。そうして塾の歴史を語った。はじめたときはどんなだったか。いまはどんな風になっているか。その間に何人のこどもが自分の前を駆けのぼっていったか。「そのこどもたちが育って、こんな立派になったみなさんに、こんな時間をもって、祝ってもらえる。ほんとうのこととは、とうてい思えません。まさしく夢のようです」
 と父は語った。
「みなさんとともに、帝塚山泉の会は今日までありました。そして、今日、閉じることになりました。ありがとうございます」
 会場のそこここでハンカチが揺れ、すすりあげる声が漏れ聞こえた。
「で、明日からですが」
 と父はいった。
「明日からは、あたらしい塾を、ひらこうとおもいます」
 一瞬、沈黙の天使が通った。ぶぶっ、ビールかなにか、吹き出す音が響き、椅子にすわった母が、そんなんきいてないわ! と空気銃の声をはなった。
「いや、みなさん、塾いうてもね、限定! 町内会限定!」
 どよめきなど意に介さず、父は得意げに語りつづけた。
「塾にかよえないこどもらにね、週に二度、教室を開放する、それだけ。タダなんです。塾のなまえは『むりょう』。タダの意味のほうやないよ。感無量、の無量や。『塾・無量』。限定ではじめます」
 場内に巻き起こる拍手に、父は満足げにうなずいていた。父が力尽くで、トローリングみたいに、喝采そのものを釣り上げたようにみえた。
 カジキマグロは泳ぎをやめると、息ができなくなって絶命する。
「もうあきらめたわ」
 と母は笑った。
「ほんま、もうええのよ。おとうさんは、しぬまで、おとうさんなんやから」
 海原をおおう空の晴れやかさで、母は、そういって笑った。


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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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