きんじよ

第20回 いしいひとひひとひひとひひとひとしょう

2016.06.02更新



 河合隼雄物語賞の候補にあがっていることは、ごくごく身内以外、ヒミツにしておいてください、と、最初の電話でいわれた。文藝春秋から去年の秋に出た「悪声」のこと。
 河合賞は、例年、そうなのだそうだ。自分以外の候補が誰で、作品はなにか、最後の最後まで知らされない。受賞しなければそれきりのこと、たとえ賞を受けたとして、他にどんな候補があがっていたか、選考する側でなければ、けして知ることはない。
 園子さんも両親も、事情通の兄も、おおむね喜んでくれた。書いているもの、暮らしているところ、その他もろもろ含め、賞自体がどことなはなしに「しんじっぽい」という。僕自身も、たぶん中学生のころから、隼雄、雅雄、「河合兄弟」の書いたものを、折にふれて手にとってきた。文系も理系も、ほんまのおもしろさの前で、そんな区別はなんの意味もないと、ふたりの著作に教えられて育ったし、いまもそのこだまは、背景放射のように、僕のなかの闇に響きつづけている。
 当落は、事務局からじかに電話で知らせてくれる。日常の過ごしかたには別段変化はない。そのうち、新潮社から電話がかかってきて、「悪声」が今度は、三島由紀夫賞の候補にあがった、と告げられた。「悪声」、大人気! 
 というより、三島賞の候補になるのは、今回が六回目で、二〇〇三年以降、長編を発表するそのたび、候補にあげてもらっている。そして落とされ、落とされ、落とされ、落とされ、落とされてきた。あとできいたら「ポーの話」と「四とそれ以上の国」は惜しいところまでいったらしい(二作受賞も検討されたけれど、新潮社の社長が一作に絞るよう求め、そしてどちらも僕の作品が落ちた)。ノミネート六回は、いうまでもなく、三島賞史上最多となる。
 大人気、と書いたが、じつは「悪声」は、すでにこっそり、とある文学賞をいただいている。書評家の豊崎由美さんと北海道新聞が企画した、栄えある第三回「鮭児文学賞」を昨年の暮れに受賞した。豊崎さんが独断で、この一年でいちばんおもしろかった小説を決める。独断結構、大感激。そして賞品が北海道の海の幸「鮭児」だった。
 鮭一万本のなかで、一尾か二尾しかとれない、まぼろしの鮭。
「でも、シャケでしょ」
 正直、そうおもっていた。しかも冷凍の状態で届いたし。自然解凍し、ぷりぷりの身を舌の上に乗せた瞬間、この世が終わったかとおもった。僕は鮭児に引きずり込まれ、がくがく揺さぶられ、あたらしい世界に放り出された。
 わりと長く三崎に住んで、毎食魚を食べていたから、ほかのことはまあとにかく、魚についてはわりとよくわかっている、と思い込んでいた。鮭児はハハハと笑い、僕のちんけな自負を打ち砕いた。僕は魚の極上のおいしさなどまだまだ味わったことがなかった。
 まぼろしの鮭、鮭児は、これまで僕が食べたどんな魚より、美智代さんが選んでくれたムツのフライより、宣さんが手塩にかけたヒコイワシのめざしより、悔しさもなにもすっからかんと吹き飛ばして、段違いにうまかった。
「こんなにうまいのか!」
「悪声、書いてよかった!」
 と、当時のノートに、走り書きが残っている。そんなにうまかったのだ。
 さて、電話がかかってきたときは、その日だと忘れていた。ひとひと「こども未来館」にいって、絵本を十冊借りてき、風呂あがりのひとひの背中に保湿クリームを塗っているところだった。うちの電話の音が鳴り、園子さんが受話器をもってきて、
「かわいさんから」
 といった。それが受賞の知らせ。お受けいただけますか、ときかれ、もちろんです、ありがとうございます、と一礼して電話を切った。
 園子さんは、
「すごいじゃん」
 と東京のイントネーションでいった。
 ひとひは、僕と園子さんの説明をきいて、
「おとーさん、やったあ やねえ!」
 といった。
「じゃあ、つぎは、いしいしんじしょう、もらわなあかんな!」
 三島賞の発表は、東京の山の上ホテルで、文春、新潮の編集者たちと待った。これまでにも二回、同じロビーで待ち、二回、編集者が電話連絡をうけ、僕に「残念でした」と頭をさげている。
 選考会がはじまり、一時間、一時間半経っても、まだ連絡がない。もめているときは、と僕は内心おもった。たぶん、こりゃ、あかんやろな。
 着信音が鳴り、携帯電話をとった文春の編集者が、僕に電話機を渡した。これまでになかった展開。え、ひょっとして、とおもいつつ電話を耳に当てる。
「いしいしんじさんですね」
 と事務局の女性がいった。
「残念ながら、いしいしんじさんの「悪声」は、受賞にいたりませんでした」
 あとから、京都の家に電話すると、園子さんが「またあ?」と、鮭児みたいにケラケラ笑うのがきこえた。
 ひとひが電話のむこうで、
「はっぴょう、だれやったん?」
 ときいた。
「ああ、はすみさん。しゅっとした、おじいさん。はすみさんが、もらわはったよ」
「あっ」
 とひとひはいった。
「おとうさんの、すきなひとやから、よかったねえ!」

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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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