きんじよ

第24回 こあゆ

2016.09.10更新


 朝4時に起き、長靴、帽子など用意をととのえて外に出ると、お地蔵さんのほこらの前に、使い込まれた乗用車が、静かにとまっていた。一見それが、乗りこんだものを別の時空に運ぶUFOに見え、僕はごくりと唾をのみこんで、開け放した助手席の窓をのぞきこんだ。
「お、いしいくん、おはようございます」
「おはよーございます」
 運転席で、北白川にある料理屋「おおきに屋」店主、望月正樹さんが笑っている。どことなく宇宙人みたい。高校三年の頃からだから、もう三十年以上のつきあいになる。
 UFO車は、三条通を東へ、東へ。大津の市街から161号バイパス、いわゆる湖西縦貫道路に乗ったら、今度は北へ、北へ。
 道中、楽しげにハンドルを握りながら、望月さんが琵琶湖の話をしてくれる。その豊かさ、おおらかさ、恐ろしさ、うつくしさ。望月さんはたしかに、宇宙人にちがいない。琵琶湖という、大いなる生態系から毎朝、のそりのそり、人間の世に歩みでる。湖面をきらめかせて、朝日がのぼる。太陽が、何本もの黄金色の腕をのばし、この地球を、たったいま、つかみとろうとしている。
 マキノ町でバイパスをおりる。と、たった10秒で世界が一変する。川縁の草道を、UFO車はそろりそろり、足音を忍ばせてすすむ。シラサギたちはもうとうに起きて、長い朝ごはんの真っ最中。
「このへんにしようか」
 望月さんは車をとめる。川沿いにはほかにも、ハイエース、ミニバンと、ちらほらとまっているけれども、風景の静けさを破るものは誰もいない。長靴をはき、帽子をかぶる。
「いしいくんのサングラス、偏光?」
「うん」
「じゃあ、かけて、川んなかみてごらん」
 川幅10メートルほどの、浅い流れ。水面はやわらかな朝日を受けてちろちろ輝いている。サングラスをかけ、覗きこんだ瞬間、僕は、からだじゅうに無意識の闇があふれかえるのを感じた。たったいま、電波望遠鏡で、銀河の果てをのぞいている。あるいは、無限のシュノーケルをくわえ、懐中電灯を握りしめて、世界一深い海溝の上に浮かんでいる。
 鮎だ。
 夕立前の雲みたいに、小鮎の群れがうねっている。光を滑らせる流線型。水という宇宙に浮かぶ生命の結晶。
 竿、しかけ、エサ。すべて望月さんが用意してくれる。長靴の僕は岸ぎりぎりに立ち、息をぐっと詰めて、湖面に糸を投じる。
 一、二、三で、望月さんが、
「ほら、もう食っとるわ。あげてみ」
「え?」
 あげてみる。四つ、五つついた針のひとつに、ちいさな鮎がちょこんと引っかかり、川面の上で、朝日をはたはたふりまいて躍っている。
 竿をたてると、近づいてくる、近づいてくる、人生初鮎。そっとつかみ、顔をたしかめてから、指先をぐねぐねまわして小さな針を口からはずす。ありがとう、きてくれて、とささやきをかける。
 うしろで望月さんがニヤニヤと宇宙人の笑みを浮かべている。
 琵琶湖の小鮎は、「鮎の子ども」つまり子鮎でなく、もともとからだが小さい、だから小鮎。上流でうまれ、成長すると、海のかわりに琵琶湖へ泳ぎだし、そうしてそれぞれの母川へ帰ってくる。九月から真冬まで、短い禁漁期間にはいる。だから僕は、望月さんに無理をいって、八月のうちに連れてきてもらった。
 竿の扱いに慣れはじめると、ここ、とおもった川面に、かなりの確率で針を落とせるようになってくる。仕掛けの先のオモリに、紙粘土みたいな練り餌をぎゅっとまぶす。小鮎たちが集まってきて、ごくごく喉を鳴らし、餌のまじった水をのむ。針の付け根に涙よりちいさなビーズ玉がつけてある。これがルアー代わり。小鮎たちは、あ、とおもって食らいつく。と、浮きが沈み、竿が立てられ、僕と小鮎が空中で出会う。
 針を落として、数秒。ぴん、と身を躍らせて、小鮎が飛んでくる。僕は、小鮎に話しかける以外、なにもしゃべらなくなった。朝起きてすぐ机にむかい、小説のなかにはいりこむように、川にむかい、「釣り」のなかへ全身でずぶずぶはまりこんでいった。意識の釣り糸をたらし、透明な無意識をさぐる。やがて、思ってもみなかった結晶、うまれてはじめての「ことば」が、針にかかって、僕の目の前に浮かびあがってくる。起きながら、もう一度夢にむかっていくのに近い。僕は二時間のあいだ夢をみていた。自分の意志、意識をこえて、宇宙の底と対話していた。
 急に、竿が重くなる。とんできた小鮎を受けそこなう。あれ、疲れたのかな。ちゃう、暑いんや!
 時刻はいつのまにか八時を過ぎている。川のどこか別の場所から、じゃぶじゃぶ帰ってきた望月さんは、僕のびくを覗き、
「おお、けっこう釣ったねえ」
 と笑った。見立てによれば、およそ百匹。
 これは驚く数字じゃない。小鮎釣りを楽しむ釣り人のあいだでは、百匹が「ひと単位」なのだそうだ。
「きょうは、ふた束、釣ってくるか」
「お客さんくるから、四束ほどは、釣ってこなあかんな」
 そんな風な釣り師たちが、ここ湖北の川に集まる。一日最低百人として、おおまかに計算して、毎日二万、三万の小鮎が、この川から釣り上げられていく。なのに、翌朝きてみると、小鮎たちはまた、積乱雲のように群れをなして川中を泳いでいる。
 小鮎えらい。小鮎すごい。
 謎をたたえた琵琶湖という小宇宙。その端っこでも覗かせてもらったよろこびを、京都に帰ってから、揚げた小鮎のうまみ、淡いほろにがさとともに噛みしめる。


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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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