きんじよ

第26回 北大路バスターミナル

2016.11.01更新



 リオのオリンピックが、きっかけのひとつだったかもしれない。もともと自転車で走りまわるのは大好きなひとではあったし。
 ひとひと毎朝、走っている。誕生日の一週間ほど前からだから、もう、ここ半月。いつまでつづくかわからないが、ともかく、ひとひのいちばんあたらしい「趣味」がランニングであることはまちがいない。
 目覚まし時計のキューちゃん(イルカの声で「はやくおきないと、水かけちゃうぞ」とくりかえす)より早く起き、さっさと着替えると、急な階段を玄関までおりていく。水をひと口ぐいっと飲み、万歩計をポケットに入れると、空気がだんだんと冷えてきた朝の路地に出る。
「さあ、きょうは、どのコースいこか」
 僕がいくつか提案する。
「おかざき? かもがわ? それか、しょうがっこう?」
 ひとひは考え、
「えーと、きょうは...おかざき!」
「じゃ、スタート」
 ふたり並んで、走りはじめる。うちからぐるっと裏にまわり、冷泉通の、琵琶湖疎水沿いに、遊歩道を走る。走る、といっても、はじめは歩いているのに近いスピード。ひとひはスロースターターだ。平安神宮の鳥居がみえてくるぐらいで、ようやくエンジンがかかる。
「じゃあ、どうぶつえんの、どうぶつたちとかじさんに、あいさつしてこよか」
「うん!」
 まだ朝の7時。動物園はむろん開園していないが、それだからいっそう、壁の向こう側から、動物たちの存在感、生きるエネルギーといったものが、走っているこちらにも伝わってくるような気がする。仁王門通を一路東へ。南禅寺前の五叉路に、梶裕子さんが店主の「うつわ屋あ花音」がある。むろん、ここもまだオープンしていない。
 岡崎公園をぐるっと一周してうちに戻る。およそ一時間、歩数は六千と少し。3キロにわずか届かない距離くらいになる。
 「しょうがっこうコース」とは、京大病院の脇を抜け、聖護院の門前を通って、来年からかようことになっている、錦林小学校のグラウンド裏手から、丸太町通の正門へまわってくる道。毎朝そこで校長先生が、かよってくる生徒たちに朝のあいさつをしている。ひとひのこともすっかり覚えてくれて、
「おはよう! 来年、待ってるよ!」
 と声をかけてくれる。校長先生にあいさつした直後、三十メートルほど、ひとひの走りはトップスピードに乗る。
 下鴨神社まで往復7000歩、3、5キロを、途中休憩をはさみながら一時間半で走りきった翌日、6歳誕生日の前日、ひとひは、当面の目標である「北大路バスターミナル」までのランニングに挑戦した。片道、これまでで最高の距離だ。
 途中、カンフル剤として、賀茂大橋の上からゴールまで伴走してくれるよう、ひとひと親しいツバクロすっぽん食堂のスガワラさんにお願いしておいたら、待ち合わせ時間になってもあらわれず、という一幕も。「おたのしみが、ねぼうやて!」と、かえってひとひも大喜びで走る。鴨川の二股から北上し、加茂川西岸にはいってから、ひとひのスピードがぐんぐんあがった。途中でおいついてきてくれたスガワラさんも、僕も、北大路の橋の上までついていくのがやっと。バスターミナルまでの歩道では、歩行者を、さっ、さっ、と左右によけ、ほぼ六歳児がひた走る。バスターミナルの入り口で、「ゴール! ぴっぴよくがんばった!」と書かれた紙を掲げ、園子さんが待ちうけている。
 3、6キロ走りぬいて汗もかかず、息ひとつ荒らげていない。おとな三人、こどもひとりでゴールの記念写真をとったあと、ひとひは仰天なことをいいだした。
「ぴっぴ、もうちょっと、はしりたいなあ」
 そして河原へむけてダッシュ。スガワラさんと僕はあわてて追いすがる。加茂川の河原にもどったひとひは、スローダウンを何度かはさみながらトップスピードで駆け、橋がみえてきたところで大転びし、一瞬涙がにじみかけたが口をぐっと結んで耐え、立ちあがるや猛然とダッシュし、そのまま北山大橋の下の第2ゴールまで、停まらずに走りぬいたのだった。
「乳酸、でないんやね」
「全力疾走から、ちょっとスピード落としたら、すぐに回復してしまうんやろな」
 はあはあいいながら、スガワラさんといいあう。六歳児のからだは、疲労などためこむ暇もなく、成長をつづけている。
 来年四月、小学校の入学まで、毎朝走りつづけられたとしたら、そのゴールは入学式の正門なのかもしれない。とはいえ、ひとひのことだから、手を広げてゴールしたとして、そのままのスピードでどこまでも、駆けていってしまうのだろうけれど。


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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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