きんじよ

第34回 ベツレヘムのうまや

2017.12.30更新

 2017年のクリスマスは、ひっそりと、にぎやかで、厳かかつ華やか、音楽と沈黙につつまれた、うまれてこのかたを振りかえっても、あまり記憶にない時間となった。だいたいずっと、そこに、「うた」が響いていた。
 表面上のはじまりは、同じ年、2017年の春にさかのぼる。
 3月29日、30日。東京阿佐ヶ谷の聖ペテロ教会。ここで、とある女性のお通夜と告別式がとりおこなわれた。
 村守泉さん。浅草の、ギャラリーefの泉ちゃん。僕が暮らした東京時代の天使。
 1996年に工事がはじまり、1997年にオープンしたギャラリー+カフェ。関東大震災さらに戦災を生き残った、江戸時代の蔵を改修し、唯一無二のギャラリーとした。オープン以来ほぼ毎日、僕は、漆塗りの床に腹ばいになってゲラを読み、終わったら昼寝し、夕方にはビールを飲んで、そのまま深夜まで飲んだくれた。国内から、外国から、大勢の人間が訪れた。そこに必ず泉ちゃんがいた。画家、彫刻家、音楽家、そして猫。誰をも迎えいれ、抱きあげ、ちょうどよいところに置いた。どんなひともefでは深い息をつき、自分本来の時をとりもどすことができた。それは彼女の魔法だった。泉ちゃんは「時間の女神」だったのだ。
 僕が結婚することになったのも、落語を見たあと、園子さんがefのトイレで酔いつぶれ(金輪際ないことだ)、眠りこけてしまったのがきっかけだ。以降、なにかあれば家族で訪れ、蓄音機でレコードをかけ、漆の床で小説を書いた。猫の銀次親分とひとひは仲良しだった。小一になったいまも猫の鈴ちゃんとは親しくしている。
 泉ちゃんとは、夫婦、恋人、兄弟をこえた縁、ふたご以上の縁を、僕は、勝手に感じていた。『プラネタリウムのふたご』のラジオコマーシャルのナレーター役に、広告会社から、彼女がたまたま指名されたり。僕の友人も家族も、全員、浅草ではefを訪れ、泉ちゃんの歓待を受けた。
 その泉ちゃんが、猫みたいな微笑みを浮かべながら、この世のからだを脱ぎ去り、透明な存在となった。泉ちゃんは最後まで自分らしさを貫いた。おだやかでしたよ、と牧師さんは温厚に笑った。ペテロ教会の時間は、特別だった。いまも特別だ。生まれて暮らしてきた五十余年の時間から、そこだけくりぬいて、保存されてある感じ。オルガンの音がかがやき、陽光が金色のメロディを奏でる。泉ちゃんはこの時間を永遠に生きている、と、僕はそう信じているし、日々、ふとしたときに実感してもいる。
 とき、ところ変わって、2017年11月の京都。岡崎の、聖マリア教会のバザーを訪れた。ひとひの加入しているビーバースカウトの本部でもあり、牧師の藤原先生とは顔なじみだ。その藤原さんから「ひとひくん、小一にならはったんやったら、クリスマス・オラトリオ、出てみませんか。要するに、こどもたちの、クリスマス劇です」とお誘いがあった。ひとひにきいてみると大乗り気。
 翌週の土曜、はじめてのミーティングに参加してみると、近所のこどもたち、おかあさんたちでごった返している。人見知り、物怖じしないひとひは、三人いる羊飼いのうちひとりに決まった。そして、ぼーっとしていたら、僕もいつのまにか、ある家のおとうさん(ナレーター)役に決まっていた。舞台の端に立ち、男女ふたりのこども役に、
「ねえ、クリスマスって、なんの日か知ってる?」
「イエスさまは、うまごやでお生まれになったんだよ」
 などと語りかける役だ。標準語で!
 メインは、マリアさま。ヨセフさま。大天使ガブリエルと天使たち。羊飼い。三人の博士。それに「お星さま」。みんなこども、おとなは僕ひとり。
「じゃあまず、歌ってみましょう」と、音楽監督の先生がピアノを弾きはじめる。「イエスさまがおうまれになったおはなし」という歌。歌詞、メロディとも古典的で、ずっとある賛美歌かと思ったら、現代の作曲家が作ったという。他にも「さあ、いってごらんなさい」「クリスマスのおほしさま」など、何百年も歌い継がれてきたような歌ばかり。配られた解説書を見て驚いた。縁あって、よく存じ上げている、京都のとある会社の社長さんの名前があった。
 Tさんとしておこう。京都生まれのTさんは、幼い頃、ここ、マリア教会の幼稚園に通い、学生時代を東京で過ごした。音楽を愛していたTさんは、信仰のために、その技をふるって、これらの歌を作った。Tさんの文言を読んでいくうちあっと息をのんだ。Tさんは書いている。
「私が日曜学校(阿佐ヶ谷聖ペテロ教会)の一教師として子供たちのために、一連のクリスマスの歌を作曲したのも、子供たちがそれぞれの年齢に合った楽しい歌をうたいながら、理屈ではなく、心からイエスさまのお誕生を祝う気持ちがわかり、それを表現していけたらすばらしい、と思ったからです」
 Tさんが学生の頃これらを書いた、そのとき阿佐ヶ谷聖ペテロ教会に集っていたこどもたちの声が、耳の奥にふわっと、響きわたった気がした。目の前で、ひとひを含む、京都のこどもたちが口をぱくぱくとさせて歌っている。
 Tさんは書いている。
「このオラトリオは、現代の子供2人と教師1人が、2000年前の昔をのぞき込む、という形で進んでいきます」
 時間の魔法。
 毎週土曜、僕たちは集い、練習を重ねた。はじめはてんでんばらばらだった歌声も、だんだんと様になってきた。日々暮らしていくなかでも、Tさんの歌が、ひとひのからだに少しずつ、確実に入ってくる。
 宿題しながら、ミニカーを並べながら、鴨川沿いを歩きながら、「むかし、むかし、イェスさーまーが、おうまーれに、なった、おはーなし、おはー、なー、しー♪」「わたしはちーさーい、ひつじー、かいー♪」
 仮で衣装をつけた天使たち、博士、羊飼いたちは、2000年前から目の前にひょっこり飛びだしてきたようにみえた。あるいは、100年後、2000年後も、きっと同じように、特別な光に輪郭を溶かせ、ぼんやりとこの世から浮きあがり、光り輝いてみえるのだろう。
 オラトリオの本番4日前、12月20日の夕方、僕は浅草のギャラリーefを訪れた。泉ちゃんのお母さんと叔母さん、村守さん姉妹にTさんの楽譜を見せると、
「あら、Tさんじゃない」
 と、懐かしげに笑った。みんなペテロ教会で育ったのだ。
 僕が、じつはこのクリスマスイブの朝、ひとひが羊飼いの役をつとめ、僕も、ナレーターの役で出演するんです、といったら、お母さんは、口に手を当ててしばし黙った。そして、曙のようにやわらかく微笑み、
「いずみも、うたったのよ、毎年」
 といった。
 幸せな沈黙、というものはある。24日の朝、ステンドグラスの光を浴びて、しずしずと歩んでくる、10歳の泉ちゃん、7歳のひとひ、さまざまな年齢のこどもたち、老いた羊飼い、おごそかな博士たち。はしゃぐロバや犬や馬。もちろん、ふだんのペースを崩そうとしない猫たち。
 過去だけでない、未来もいまもすべて包みこんで、時間が光り、金色の鐘を鳴らす。
 クリスマスとは、ひとりの聖者が生まれた日、というだけにとどまらない。別なとき、別なところにいる、と思いこんでいるひと同士が、実は隣りあい、「きんじよ」にいるのだと、福音のように知らせてくれる日だ。
 2017年12月24日の朝、京都聖マリア教会に、おおぜいが集った。おとなも、こどもも、輪郭をもつひとも、もたずに透明でいるひとも。
 本来そこに集まるはずのないひとたち、と思いきや、みな、そこに来ることは、実ははじめから決まっていたのだった。
 「ディンディンディン、こえもたからかに」こどもたちは歌う。「さあ、いってごらんなさい、ダビデのむらへ、さあ、いってごらんなさい、ダビデのむらへ」。僕たちは出かける。そして、そこでそれぞれのみどりご、懐かしい女神、本当の「生」に巡り会う。

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いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

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