木のみかた

第4回 できたら東京に住んでいたかった

2013.01.09更新

街で生まれ育った僕が森とお近づきになるためには、
庭というものと向き合わなければならなかった。
体が森へ向かい、心も森へ落ち着くまでは、たくさんの労力を必要とした。
これから数回は、その歩みを書かせてもらおうと思う。

「できたら東京に住んでいたかった」

庭師になろうと思ったものの、どこへ行ったら良いのか見当がつかなかった。
その時僕は大学4年生になっていて、建築業界に携わっている人だったら誰でも知っているY先生(建築家)のゼミ生だった。
先生はとても厳しい方で、ゼミへ入るには覚悟が必要だったけれど、せっかくだから徹底的に鍛えてもらおうと思ったのだ。
蓋を開けてみると、厳しくて有名だったY先生のゼミ生は僕一人だけだった。
卒業設計は先生の指導を受けながら進めた。
でも、しばらく経ってから建築学科の学生としては致命的なことに気がついた。
僕の関心は、もう既に建造物ではなく、庭になっていたのだ。
自分にとって「こんな場所だったら素晴らしい」と感じる場所は、庭が敷地いっぱいに広がっていて、その庭に小さな建物が寄り添っているというものだった。

庭といっても最初は平坦な土だけで、そこから芽吹いてくる草木と敷地内の建物が互いに関連しあいながら、時間と共に茂みや建物が変化していくようなコンセプトを卒業設計にしようと思った。

「できたら東京に住んでいたかった」

ゼミは1週間に1度あって、僕が考えてきたものは先生にこっぴどく叱られた。
指摘される内容はいつも同じ。

「芽吹いてくる自然が大切ってさ、君から10万回くらい聞いてるよ。」
「草木が芽吹くって、そんなに素晴らしい事なのか? そんなの、そこら中で芽吹いているじゃないか。」
「もっと建築的に意義深く、街のリアリティーを追求してこい。」
「ふざけるな。やり直し。」

先生が最後に大きな声で言って、つくってきた模型を潰される。
いつもその繰り返しだった。
先生にとっては、僕は貧乏くじのような生徒だったに違いない。
至極ごもっともなことを指摘されて、頭をかかえながら考えつづけた。
でも、叩いても捻っても、自分の想像力の単調さが悲しくなるほどに、庭、ニワ、niwa、庭、ニワ、niwa、なコンセプトが地平線まで続いた。

真夏になって、僕は東京の卒業設計から逃げるように、鈍行列車に乗って九州の最南端まで旅をした。道中では車窓の景色を眺めながら、夜中に着いた無人駅のベンチで寝た。

「できたら東京に住んでいたかった」

旅のフィナーレは宮崎県の高千穂だった。
高千穂駅に降り立つと、生暖かい風がプラットフォームに吹いていて、
夏の陽射しとセミの鳴き声が静かな駅前に降り注いでいた。
僕は高千穂峡、高千穂神社、天岩戸神社、くしふる神社などの聖地を訪ねた。
どの場所にも大きな木がたくさん生えていて、夏の木漏れ日に照らされていた。

「できたら東京に住んでいたかった」

今まで感じたことのない、まるで母の羊水へ帰ってきたような穏やかな気持ちになりながら、僕はゆっくりと散策をした。

高千穂から3日かけて東京へ戻り、その足で建設中だった横浜港大さん橋国際客船ターミナルの現場視察へ参加した。
その建設中の建物は世界41カ国660作品の中から選ばれた時代の最先端を行く建物で、巨大な建造物なのに柱や階段がないバキバキの現代建築だった。
新しい体験ができそうで、僕の胸は期待に高鳴っていた。
現場のヘルメットをかぶって、先導してくれた人の後をついていった。

しかし建設現場に入った途端、凍りついてしまった。
真っ暗な大空間には、鉄の焦げた匂いが充満し、巨大な鉄筋を打ち付ける轟音が響き、直に見ると失明しそうな溶接の光がスパークしていた。
高千穂帰りの僕には刺激が強すぎた。
建設現場から出て来たとき、憤りを込めて確信した。

「こんな過程で造られる空間が、人にとって心地よい場になるはずがない。」

今から思うと多少偏っていたような気もするが、その時は真剣にそう確信した。
僕はいよいよ庭師になりたくなった。

「できたら東京に住んでいたかった」

卒業制作の合間に東京中の本屋さんへ行き、造園関係、自然関係の本が並んでいる棚を見てまわった。

その頃(2001年)の庭業界で需要が一番ありそうなのは、どうやらガーデニングだということがわかった。ただ僕は、花がたくさん咲いたら素晴らしいというような価値観や、地中海のどこかの意匠を真似たような美意識に共感することができなかった。
そこからは、コンクリートを割って出てくる玉手箱のような躍動を感じることができなかったのだ。

それでは、現在の東京ひいては日本という場所ならではのリアリティーを追求しながら、新しい庭空間を生み出そうとしている人はいないのか探してみたが、ピンと来ることをしている人はどこにもなかった。

いないのだったら、庭の歴史をさかのぼって行くことにした。
そして、日本庭園の世界へ目を向けた。
日本庭園には少なからず関心はあったけれど、ガーデニングとはまた違った息苦しさを感じていた。そこからは、何百年と箔を重ねつづけたガチガチの堅苦しさを感じたのだ。
そんな中、僕にとって1本のクモの糸のような存在は「庭」という雑誌だった。
その雑誌からは日本庭園の不易流行の息吹を感じ取ることができた。
今は箔で固められているようでも、日本庭園には何かとてつもなく奥深いものが潜んでいるような気がした。

僕は国会図書館へ行き、「庭」のバックナンバーをすべて閲覧してみることにした。
そしてその中で最も感動した人に連絡をとり、会いに行くことにした。
ドキドキしながらページをめくった。
1日では読み切れないので何日もかけて図書館へ通った。
朝から晩まで閲覧しつづけて5日目の夕方のことだった。
Dという庭師さんが手掛けた庭の写真に、僕の目は釘付けになった。

庭のつくりはベーシックな日本庭園そのものだったが、その庭には大量の水が意図的に流れ込み、庭のほとんどすべては水底へ沈み、灯篭の上部分だけが水面から顔を出していた。
この人はすごいと電撃が走り、会ってくださいと手紙を書いた。
しばらくしてから返事が返ってきた。

「今、この業界は恐慌と形容してもいいような、大変厳しい状況に追い込まれています。当方ではあなたを雇う余裕は全くありません。庭師の仕事は非常に厳しいものです。
建築学科の学生でしたら、建築関係へ進まれることをお勧めします。」

という内容だった。
僕はすかさず「庭へのほとぼりは冷めようがありません。一度だけでもお会いしていただけないでしょうか。」という手紙を書いた。
Dという庭師さんは、僕に会ってくれることになった。
JR中央線の駅の改札前で、腕を組み法被を来た角刈りのDさんが、僕を待ってくださっていた。
それからお宅へお邪魔して、お鍋とお酒をご馳走になりながら、4時間くらいお話を聞かせてくださった。
雇ってもらえる可能性が皆無なのはヒシヒシと伝わってきたけれど、たくさんのお話を聞かせてくださった。
Dさんは、庭を創ることが、いかに厳しい状況へ追い込まれているのか、とても柔らかい口調で語ってくださった。
あっという間に時間は過ぎた。
Dさんと別れてからの帰り道、僕は顔を上げることができなかった。
あの時に、はじめて東京の街を散策しつづけた時に感じた「みんな忙しそう」に触れたのかもしれない。

僕は東京に住み、そこで働きつづけたかった。
どこかの山村へ行って「自然は素晴らしい」と謳うことには何の興味もなかった。
「人で溢れかえる街中で自然を謳うからこそクリエイティブなのだ」と思っていたから、東京から出ることは考えられなかった。
ところが、この東京で「アスファルトの間からやってくるもの」とダンスを踊っているような人は、もしかしたら誰もいないのかもしれないと思った。

生きていくだけでも大変なのだ。ましてやクリエイティブな仕事なんて離れ業なのかもしれない。という溜め息が自分の体中を満たした。
自分の居場所がどこにも見出せなかった。
でも、庭への歩みを止めるわけにはいかなかった。
自分の求める生活の大部分を犠牲にしないといけないと思った。
給料の額はもちろんのこと、大好きな東京から離れないといけないのかもしれない。
とにかくここは、もっと「庭の根っこ」を辿っていかなければならない。
それでは、「日本における庭の根っこ」は、どこにあるのだろうか。

京都以外には考えられなかった。
そして僕は、とうの昔に「過去の街」になっていたはずの京都へ帰郷し、庭師になることにした。

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三浦豊(みうら・ゆたか)

1977年京都市生まれ。森の案内人、庭師。
日本大学で建築を学んで、庭師になるために京都へ帰郷する。
修行を2年間してから、日本中を巡る長い旅に出た。
2009年の春に京都に帰り、現在は京都府城陽市に住んでいる。

今、ホームページの「日本列島の点」を徐々に増やしている。
点は僕にとって「かけがえのない場所で、いつか日本列島が真っ白になったらいい」と願っている。
よかったら見てやってください。

旅が終わったと言っても、方々へ行きつづけている。それはずっと続けたい。
仕事の傍ら、自宅の庭のお手入れを一人で、人工林のお手入れを仲間とやっている。
古今東西の音楽と落語を聴くのが好き。温泉とラーメンも好き。

三浦豊

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