木のみかた

第5回 それは突然にやってきた

2013.01.29更新

京都の庭師で誰か魅力的な人はいないか探してみたけれど、Dさんみたいな人は見つけられなかった。
でも京都へ帰ることを決めた僕は、そこはもう割り切れていた。
まずは日本庭園の庭師の世界へ入る事が大切なのだ。
そこには庭の根っこがあるに違いない。
兄が木造建築の設計と施工をする会社を京都で経営していたので、その伝(つて)を頼り、造園会社を紹介してもらうことにした。
兄の師匠の大工さんが石屋さんを紹介してくれて、その石屋さんが修業先を紹介してくれた。
東京での苦戦が嘘みたいに、すんなりと就職先が決まった。

僕は造園会社の敷地内にある寮へ引っ越しをした。
早朝に起きて日が暮れると仕事が終わる、庭師見習いの生活が始まった。
就職先の造園会社の親方、兄弟子は親切な方ばかりで、僕をとても可愛がってくれた。
その会社は、お庭の剪定管理はもちろんのこと、現代風の日本庭園を造ることにも挑戦していた。手掛ける庭園も、寺社、個人邸宅、店舗と幅広かった。

予想はしていたけれど、庭師の仕事は体を酷使した。
土や水をバケツに入れた時の重み、木を剪定した時の感触と匂い、スミチオン(農薬)の匂い、石の固さと重さ、圧倒的な機械のチカラ、隅々まで心を込めて掃除をすること、雑草というのは消去すべき存在であること、
どれをとっても初めて知ることばかりだった。

庭師の世界では、まず5年間は修業期間として働くことが常識とされていたので、僕も当然5年間は働こうと思った。

でも、「5年間も働くのか。」という思いが、どうしても抜けきれなかった。
それは邪推だと思い、できるだけ払いのけるようにした。
庭の事が体に染み付いていない自分が判断できることは何もない。
せっかく庭師の世界に入れたのだ。5年間は、自分をひたすら無にして、与えられた仕事に没頭すべしと自分に言い聞かせた。

しかし、5年間の庭師の修行で「僕の求める庭の根っこを辿ることはできない」「所かまわず芽吹いてくる茂みたち(彼らは雑草、雑木と蔑まれていた)と戯れることはできない」と
なんとなく勘づいていた。

良くしてくれている会社の人達に嘘をついて働くのは嫌なので、親方に
「3年は働かせてください。それから先は、その時にまた考えさせてください。」と頼んだ。
親方は「きみは役に立つころになったらやめていくのか」と呟いて、それでも僕を雇いつづけてくれた。たくさんの事を教えてくれる優しい人だった。

朝早くに起きて、体をたくさん動かして働いて、日が落ちたら仕事が終わり、眠気と戦いながら庭の本を読み、溶けるように眠る。その繰り返しの毎日だった。

地下足袋を穿き、剪定した枝葉と土にまみれ、重い石を動かす日本庭園の世界へ入れたことにちょっとした達成感を感じていたけれど、これでいいのだろうか? という思いが、頭のなかを常に駆け巡っていた。

ほんとうに、僕は今、庭の根っこを辿れているのだろうか?

第5回 突如、歩けなくなりました

京都というのは少し特殊な土地柄で、それっぽくやっていたら、それっぽい需要があって、それっぽく成り立っている土地だった。
「それっぽい」がいやで京都を出たのに、帰郷した僕は、まぎれもなく「それっぽい」の歯車の一部になっていた。
「それっぽい」とは何かというと、箔が重なった和風っぽいもの、時代が変化したのに江戸時代くらいから変わらないでおこうとしているもの、とでも言えばよいだろうか。

僕は、この日本という国で(僕の知っている範囲では)地面をどれだけ人の意図で塗固めても、やがて現れる茂みとお近づきになりたかった。日本の伝統文化の継承者になりたかったわけではない。

伝統というのはおそろしいものだ。
存在感、説得力という意味では右に出るものはいない。
何百年とつづいている層の厚さは僕をたやすく払いのけ、何事もなかったような顔をして、今までと変わることなく月日を重ねつづける。

「箔」というものを、僕は甘く見ていたのかもしれない。
京都で生まれて京都で育った自分が何の切実なリアリティーを感じることなく街を離れたように、それはもう「THE 建前として機能しているもの」「過ぎ去った郷愁と共に語られるもの」だと思っていた。
ところが、「千利休」とか「小堀遠州」とか「伝統とは革新の連続」とか、それらしいことを言って現代社会の問題点を指摘し、溜め息をついたら、奥深い識者に見えてしまう。
そんな世界がまだ存在していた。
何事も変化の只中にある世の中で、それは凄いことだと思った。
伝統文化(仮称)さんの言葉は説得力があった。
僕は、なるほど。なるほど。と感心してばかりいた。
いかに自分が軽薄な人間なのか、思い知らされてばかりだった。
僕の感心を確認して、伝統文化さんはゆっくりと頷いた。

僕はすっかり呑まれていた。

第5回 それは突然にやってきた

ただ呑まれているだけでは前へ進めない。
せっかく京都に住んでいるのだから、「それっぽい」を形成している日本庭園を知ろうと思い、仕事が休みの時には京都市内外の日本庭園を観てまわった。

龍安寺、桂離宮、修学院離宮、詩仙堂、圓徳院、曼殊院、南禅院、金地院、二条城、神泉苑、醍醐寺、勧修寺、渉成園、善峯寺、無燐庵、平安神宮、浄瑠璃寺、平等院、東福寺、正伝寺、円通寺、金閣寺、銀閣寺、西芳寺、等持院、鹿王院、竹林院、松尾大社、天竜寺、大徳寺大仙院、大徳寺高桐院、建仁寺、大覚寺、城南宮、法金剛院、仁和寺、妙心寺、智積院、蓮華寺、三千院、酬恩庵、京都御所、仙洞御所、永観堂、三室戸寺、泉涌寺、北村美術館、何必館、MIHO MUSEUM、旧秀隣寺、金剛輪寺、百済寺、西明寺、

京都とその周辺は日本庭園王国だった。
有名無名、古今を問わず、日本庭園と名がついて一般公開しているものは、とにかく徹底的に見てまわった。
あまり頭で考えないで、ただ庭と向き合うことだけに集中した。
仕事も庭、プライベートも庭、まさに庭づくしの毎日だった。
短期間で、僕はちょっとした庭オタクになった。

日本庭園は、「それっぽい」でまとめられるほど浅いものではなかった。

極めて美しい庭、いつまでもそこにいたいと思えるような庭は、たしかにあった。

第5回 突如、歩けなくなりました

第5回 それは突然にやってきた

第5回 それは突然にやってきた

第5回 それは突然にやってきた

日本庭園への愛情、古(いにしえ)から受け継がれているものへの畏敬の念が、自分のなかに芽生えはじめていることを感じた。

数をこなしてくると、どの庭に心惹かれて、どの庭に心惹かれないのか、うっすらとわかってきた。

そのなかで、僕はあるもどかしさを感じはじめていた。
「日本庭園は、そこにあるだけで贅沢に奉られていて、庭そのものへの審美眼というものは、今日ではほとんど成立しなくなってきている」という寂しさだった。
「なんて素晴らしいのだろう!」という庭と、「あいたた・・・」という庭が、
「日本庭園というありがたいもの」としてまとめられていることに、やるせなさを感じた。

第5回 それは突然にやってきた

第5回 それは突然にやってきた

僕はどこかで虚しさを感じはじめていた。
「京都で日本庭園にどっぷりと浸かった生活」をしているのは、
大学の時に、こうはなりたくないと思っていた「山村で自然の素晴らしさを謳う生活」と、大して変わらないような気がした。

知らず知らずのうちに、東京の雑踏を思い返していた。

第5回 突如、歩けなくなりました

そんなことはない。僕は確実に庭の根っこを辿っているのだと信じながら、懸命に働き、
日本庭園関連の本を読み、時間を見つけては名園と称えられている庭園を観てまわった。

ただ、どこへ足を運んでも、「ここだけでは、自分が求めているものはない。」と、自分の直感は断定しつづけていた。
直感は、なぜそう感じるのだろうか。
直感は直感でしかないけれど、なぜそう感じるのか、自分で自分を問いつづけた。

仕事中はもちろんのこと、どの日本庭園へ足を運んでも、なんともいえない違和感が、緩急をつけながらいつも横たわっていた。
それは何なのかわからなかったけれど、
なんだかそれは、とても固くて、根深くて、触るとザラザラしたものだった。

働きはじめて1年目の真冬の朝のことだった。
それは突然にやってきた。
昨日もたくさん働いて、ご飯を食べて、本を読んで、いつもと同じように眠りについた。
それなのに。
朝になり目覚ましが鳴って、ベッドから素早く起き上がって足を地面に着けると、左足に激痛が走った。

たった一晩で、僕は歩くことができなくなっていた。

第5回 突如、歩けなくなりました

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三浦豊(みうら・ゆたか)

1977年京都市生まれ。森の案内人、庭師。
日本大学で建築を学んで、庭師になるために京都へ帰郷する。
修行を2年間してから、日本中を巡る長い旅に出た。
2009年の春に京都に帰り、現在は京都府城陽市に住んでいる。

今、ホームページの「日本列島の点」を徐々に増やしている。
点は僕にとって「かけがえのない場所で、いつか日本列島が真っ白になったらいい」と願っている。
よかったら見てやってください。

旅が終わったと言っても、方々へ行きつづけている。それはずっと続けたい。
仕事の傍ら、自宅の庭のお手入れを一人で、人工林のお手入れを仲間とやっている。
古今東西の音楽と落語を聴くのが好き。温泉とラーメンも好き。

三浦豊

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