木のみかた

第8回 茂みの王国

2013.04.19更新

1992年の春、2人の兄と3人で屋久島へ行った。
長男が22才、次男が20才で、僕は14才だった。今から21年も前のことになる。

次男が3度目の大学受験に失敗してしまって、「兄弟3人でどこかへ息抜きに行ったらどうか」と父が提案をしてくれたのだ。
夕食時にその話を聞いて、僕は間髪入れずに「屋久島行きたい」と言った。

中学生だった僕は地図を眺めるのが好きだった。地図に広がっている世界は眩しかった。
「ニュージーランドという国の形は日本列島の形に似てる」とか、「グリーンランドでかすぎ」とか、「100万人以上の大都市を示す二重四角のマークかっこいい」とか思っていた。

世界を均等に見ることは難しい。長い間地図を眺めていると「なんか気になる」という場所がでてくる。
屋久島という丸い形をした島は、まさに気になる場所の一つだった。
島の真ん中に記された三角マークの横には1936という数字が書かれていて、それほど大きな島ではないのに、とても高い山があることがわかった。
図書館で屋久島はどんな場所か調べてみると、島には巨木の森が広がっていることがわかった。
島にそびえる高い山と巨木の森。
どんな場所なんだろう。いつか行ってみたいと思った。

そんな折りに、憧れていた屋久島へ、思っていたよりもずっと早いタイミングで行けるチャンスが来たのだ。
僕は「屋久島行きたい!」と大きな声で言った。
「受験勉強に疲れたお兄ちゃんも自然に癒されるよ!」と都合の良い説を唱えた。
その甲斐あって、春休みに3人で屋久島へ行くことになった。
今思えば、あれが最初で最後の兄弟旅行だった。

その旅行で、僕は想像以上の体験をすることになる。

真夜中の京都駅のプラットホームで両親に見送られながら、京都発宮崎行の夜行列車に乗って屋久島へ向かった。
夜行列車で住み慣れた街を離れるのは最高にドキドキした。
みんなが寝静まっている深夜の中、ガタンゴトンと揺れながら進む静かな車内、倉敷や尾道など地図でしか見たことがなかった街々を通り過ぎ、目が覚めると朝の九州を走っていた。

宮崎に到着してプラットホームに降り立った時、京都よりも暖かい風が吹いていた。
電車を乗り継いで、正午に鹿児島へ着いた。

モクモクと煙を上げている桜島に目を見張りながら、港行きのバスに乗った。
港に着くと、屋久島行きの小さな船が停泊している埠頭は人で溢れかえっていた。
今年の春から2人の小学校の先生が鹿児島市内から屋久島へ赴任先が変わるみたいで、たくさんの教え子や保護者が見送りに来ていた。
カラフルなテープが埠頭と船をつないでいて、青空をバックに紙ふぶきが舞っていた。
学芸会か何かで発表したのだろう。リコーダーの大合奏があたりに響いていた。
たくさんの花束を持った2人の先生は、船のデッキで号泣していた。

船が出航して湾を出ると、やがて水平線上に屋久島が見えた。
かすかに見えていた島は次第に大きくなっていき、やがて視界いっぱいに広がった。
想像していたよりもずっと大きくて、まるで海上の山脈だった。
山の上は真っ暗な雨雲に覆われていて見えない。雲の中で雷が光っているのが見えた。
波しぶきを浴びながら初めて見た屋久島は、まさに僕が今まで見たことのない異界だった。

船内に響いていたモーター音と波の音が、ドラゴンクエストのボスキャラが現れた時の戦闘音楽に変わったような気がした。
山の上を覆っていた雨雲は次第に海上まで棚引きはじめ、屋久島の港に着いた時は、叩きつけるような強い雨が降っていた。
傘を持っていなかったので、びしょ濡れになりながら20分くらい歩いて今晩泊まる民宿に着いた。

「こんなとこまで何しに来たの?」と、玄関でタオルを差し出してくれたご主人が尋ねてきた。
「巨木を見に来たんです。」と僕が答えると、「へえ、若いのに変わってるねえ。」と言われた。
当時の屋久島は訪れる人もまばらで、ご主人が言うには、観光客は釣り人がちらほら来る程度らしい。

着いた次の日にレンタカーを借りて巨木の森へ向かった。
町から森へ向かう道は林道みたいに細くて、大小のカーブがひたすら続いた。
悪路で酔いそうになってきた時、大きなカーブの内側に、ふと家の表札くらいの看板があるのが目に止まった。
その看板には手書きで「弥生杉 →」と書かれていた。
誰が言いはじめるわけでもなく、車を停めて、3人で車内から身を乗り出して矢印の方向を見ると、100メートルくらい先に今まで見たことがない異次元な大きさのものが目に入った。

3人で意味不明な叫び声を上げながら車を降りて、獣道を走り、その異次元な大きさのものへ駆け寄った。
わけがわからないものに近づく高揚感。最高の気分だった。
1本の木は、形容しがたい巨大さで立っていた。
その姿はもはや木ではなく、まるで大地だった。

僕が今まで見てきた木とは比べものにならない。10000倍くらいの大きさがあった。
恐る恐る木に触れてみると、わずかな弾力があって、木の香りがほのかに漂った。
それでもまだ、自分が対面しているのが木だという実感が湧いてこなかった。
どのくらいの時間を弥生杉の根元で過ごしたのか、あまり覚えていない。

この木の樹齢は3000年もあるのだと、宿屋のご主人がその日の晩に教えてくれた。
巨木の虜になった僕たちは、次の日、屋久島で一番大きいと言われている縄文杉という名前の木へ会いにいくことにした。
その日は朝から雨が降っていた。
霧で視界が効かない苔の原生林は神秘的で、誰もいなかった。
すべてが苔に覆われていて、呼吸をしたら肺の中に入ってくるような気がした。
神話のような森に圧倒されながら、ただひたすら歩いた。

受験勉強でろくに身体を動かしていなかった次男は、大王杉という木が生えている所で音を上げてしまった。
彼の足が止まったのも無理はない。僕たちが歩いた行程は、日帰りトレッキングで歩く常識を完全に覆していた。難易度でいうと超上級といったところだろう。
心が少し痛んだけれど、慰安旅行の主役を置いて、僕と長男は先へ進む事にした。

昔は今とちがって森の中の木道が整備されていなかった。小さなアップダウンが、まるで絶え間ない波のように続いた。ひとつひとつは小さな上り下りでも、しだいに身体に応えてきた。

体力だけは自信があったのに、僕も長男もフラフラだった。
疲れで視界が狭まっていった。
それでも僕と長男は、まるで取り憑かれたように深い森を歩きつづけた。
進むにつれて、森はいよいよ深くなり、今まで嗅いだことのない香りが漂いはじめ、今まで耳にしたことのないざわめきが聴こえはじめた。
泣きそうなくらいにしんどかったけれど、もうdead or 縄文杉という気分だった。

意識が朦朧(もうろう)としてきた時、ふいに視界がひらけた。
目を上げると縄文杉が立っていた。
木のまわりは静まりかえっていた。

縄文杉は、森の番外編みたいな姿をしていた。
弥生杉だけでも凄まじいインパクトだったのに、縄文杉はそれを凌駕していた。
とにかく壮大だった。
木というよりも、原始の営みが結集しているような姿をしていた。
そして木のまわりは能舞台のような、幽玄な空気に満ちていた。
僕が今まで思い描いていた木の姿とあまりにかけ離れているので、この木はもう既に生きていなくて、木の幽霊かもしれないと思った。

かつて世界は、こんな木々で満たされていた。しかし人間が繁栄してから、徹底的に根絶やしにされた。
その木々の念みたいなものが、この奥深い原生林の中で残像として残っているのだと僕は思った。

あの当時は木の根元まで行って、木肌に触れることができた。
恐る恐るさわってみると、触り心地は木肌そのもので、叩いてみると、何千年の年輪が詰まった固さがあった。
僕の直感は間違っていた。縄文杉は幽霊ではなく、元気いっぱいに生きていた。
木にもたれながら座っていると、身体に少しずつ力が蘇ってきて、まわりの様子を観察する余裕が出てきた。

大きな木、小さな木、倒木に着く苔、苔から伸びている胞子嚢(ほうしのう)、苔の斜面を転がる球体の水滴、2センチくらいの杉の赤ちゃん、風に揺れる草、木々の茂みが風に揺れる音、鳥の鳴き声、体の下から伝わってくる縄文杉の圧倒的な安定感。
生まれたての命から数万年の命まで、僕は万象に包まれていた。

僕が座っていたあの場所は、まさに茂みの王国だった。

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三浦豊(みうら・ゆたか)

1977年京都市生まれ。森の案内人、庭師。
日本大学で建築を学んで、庭師になるために京都へ帰郷する。
修行を2年間してから、日本中を巡る長い旅に出た。
2009年の春に京都に帰り、現在は京都府城陽市に住んでいる。

今、ホームページの「日本列島の点」を徐々に増やしている。
点は僕にとって「かけがえのない場所で、いつか日本列島が真っ白になったらいい」と願っている。
よかったら見てやってください。

旅が終わったと言っても、方々へ行きつづけている。それはずっと続けたい。
仕事の傍ら、自宅の庭のお手入れを一人で、人工林のお手入れを仲間とやっている。
古今東西の音楽と落語を聴くのが好き。温泉とラーメンも好き。

三浦豊

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