木のみかた

第13回 青年は島へ逃げる

2013.09.29更新

 屋久島で森を歩きはじめて、予想をしていなかったことが自分の身に起こった。

 屋久島の特徴は海上のアルプスと形容される急峻な地形にある。
森を歩くと聞いて想像する状況は人それぞれだが、屋久島に限っていうと、森歩きは大抵急斜面を登り降りすることになる。
  今まで本格的な山登りをしたことのない自分にとって、まるで登山のような森歩きは身体に大きな負荷がかかるものだった。
 森林の観察をすることが第1の目的だったのに、身体は大概疲れて息が上がってしまい、なかなか落ち着いてまわりを見まわすことができずにいた。

 身体が苦しくなると、心も同じように苦しくなった。
 心が苦しくなると、今まで経験したことのない現象が自分の身体に起こった。
 今まで生きてきた中で、自分を傷つけた言動が、次から次へと心の奥から涌き出てきたのだ。
 過去を振り返るなんてださいことだと思っていたのに、自分の意志とは関係なく、まるで高い場所から低い場所へ水が流れるみたいに、過去の痛みが、ベスト版のようになって次から次へと涌き出てきた。
 自分の悲しい記憶はたくさんあって、それは生きていくのを投げ出したくなるような大ボリュームだった。
 そのときに初めて、自分は悲しかった出来事を忘れようとしてきたのだと気がついた。
それが図らずも森を一人で歩きはじめたことで、まるでパンドラの箱を開けたように溢れかえり、僕を苦しめたのだ。
 悲しい記憶を思い出してなのか、身体がしんどかったのかはわからないけど、よく泣いた。

 自然の中へ行って、すぐに自然を満喫できるほど、自分の身体は都合よくできていなかった。

 森はたしかに素晴らしかった。でもその前に、その素晴らしさを反映する自分の心が底なし沼のような状態になっていて、どこから手をつけたらいいのかわからなくなってしまった。

 想定外の事態に訳がわからなくなったけど、せっかく屋久島へ来たのだから、来る日も来る日も懲りずに歩きつづけた。あ


 森を歩きはじめるときに、自分が一番怖かったのは孤独だった。
 一人で森を歩きつづけて、はたして正気でいられるのかどうか自信がなかった。
 でも、まあなんとかなるだろうと思って旅を始めた。

 実際に森の中で一人になってみてわかった。一人ぼっちになってみても、なんのことはない。自分の意志とは関係なく、心は過去へ遡(さかのぼ)り、印象的だった人とのやりとりを繰り返し再生しはじめたのだ。

 でも捨てる神あれば拾う神ありで、僕を苦しめたのは過去に出会った人々だったけれど、僕を救ってくれたのも人々だった。
 思い出される過去の痛みの中にまぎれて、僕を勇気づけてくれたり励ましてくれたりした言動も、温もりを持ってたくさん湧いてきた。

 金八先生が授業で「人という字は片方がもう片方を支えてできているんですよ」と生徒達に教えている有名なシーンがあるけど、まさにその通りだと思った。

 そして何より、僕を支えてくれていたのは、やはり生身の人間だった。

 身も心も満身創痍になりながら森から出てきて、車を小一時間ほど運転してテント村へ戻ってくる頃には、いつも夜になっていた。深い闇の中で、所々に灯りが灯っているテント村へ帰ると、必ず誰かが外のテーブルにいて、僕はそこで夕飯を食べた。
 暗闇の中での、そこに居合わせた人との団欒は、僕を温かく包んでくれた。

 テント村の住人たちは20代前半から40代後半までの男女だった。

 ただ旅が好きで、のんびりと生きていきたい山川くん
 大失恋をして、仕事をやめて、なんとなくここへ来た西口くん
 自動車の整備工場をやめて、自然を求めて屋久島へやってきて、埼玉にある自宅と屋久島を行き来しているうちに、いよいよ屋久島へ移住しようかと思っている木下さん
 ホストで働いていたときの武勇伝をよく語る平田さん
 どこでそんなことを知ったのか、いろんなことに詳しい木村くん
 いつも黙って人の話を聞き、ときどき頷く大野さん
 屋久島の山道で出会って、この島で同棲生活をすることを決めて物件探しをしている中山くんと宮下さん
 屋久島のネイチャーガイドになりたくて、ガイド見習いで修行をしている山口さん
 画家を志し、屋久島の森羅万象を表現したいと大志を抱いている北海道から来た田中くん
 野良猫を見ると、人が変わったように猫を追い払う野口さん
 こてこてな「つっこみ」で、僕をたくさん笑わせてくれた宿屋のご主人、彼はほとんど運転することのない鮮やかな青い車を母屋の前に停めていた。
 宿屋で数泊するお客さんの中にも、じつにいろんな人がいた。

 彼らとは、一体どんなことを話したんだろう。なぜかこれといった内容を思い出すことができない。
 話の内容は忘れたけど、どんなトーンだったのかはよく覚えている。
 夜の暗闇の中、ランプの灯りに照らされた僕たちは、大方あまり前向きな話をしていなかった。
 でも、僕にとって会話の内容は何でもよかった。
 僕はこのとき、きっと束の間の休息をしていたのだ。
 テント村の夜は、とても優しい時間だった。
 会話に意味なんてなくてもよいのだ。みんなと話をしているだけで、自分がなんだか救われるような気がした。

 僕もみんなも似た者同士だったのかもしれない。
 みんな疲れて屋久島へ逃げて来たのかもしれない。
 僕も何か理由をつけて、ここへ逃げて来ただけなのかもしれない。
 逃げ場所があるのは豊かなことだと思う。

 学校を卒業して、ちゃんと就職をして、与えられた仕事を真面目にしている人が社会の大半なのは疑いのない事実だし、僕だってそうなるつもりでいた。
 それが、なんだかんだと過ごしているうちに屋久島へ来ることになって、テント生活をしている。
 自分はこれからどうなるんだろう。
 島から遠く離れた、どこかの街のオフィスで真面目に働いている人達に劣等感を感じながら、森とテント村を往復する毎日を送っていた。

 ただ、その日常が長く続かないことはわかっていた。
 屋久島へ渡って1ヶ月が経った時に、僕の全財産がいよいよ5万円を切ったのだ。

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三浦豊(みうら・ゆたか)

1977年京都市生まれ。森の案内人、庭師。
日本大学で建築を学んで、庭師になるために京都へ帰郷する。
修行を2年間してから、日本中を巡る長い旅に出た。
2009年の春に京都に帰り、現在は京都府城陽市に住んでいる。

今、ホームページの「日本列島の点」を徐々に増やしている。
点は僕にとって「かけがえのない場所で、いつか日本列島が真っ白になったらいい」と願っている。
よかったら見てやってください。

旅が終わったと言っても、方々へ行きつづけている。それはずっと続けたい。
仕事の傍ら、自宅の庭のお手入れを一人で、人工林のお手入れを仲間とやっている。
古今東西の音楽と落語を聴くのが好き。温泉とラーメンも好き。

三浦豊

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