木のみかた

第19回 縄文杉さん、こんにちは。

2014.03.30更新

 ついに森の主と対面だ。
 この階段を登ったらいよいよだ。いよいよ12年ぶりの再会になる。
 巨大なジャングルジムの階段、一歩一歩に重みを感じる。自分の両足が鉄アレイみたいになった。

 最後のステップを踏んで、僕はジャングルジム最上部のウッドデッキに立った。
 正面に目をやると、25メートルくらい離れた所に縄文杉が立っていた。
 ぱっと見た縄文杉は真っ白で、まるで太陽を直接見たような眩しさだった。
 僕の記憶にある過去の縄文杉は深い緑色をしていて、スポンジのように水を含んだ濃密な緑の 苔とシダに覆われていた。その姿はまるで1本の原生林みたいだった。
 あれから月日が経って周辺の環境が変わり、明るく乾燥した環境を好む白い地位類や苔が縄文 杉の樹皮を覆っていた。まるで白粉の粉を振りかけられたみたいだった。


 階段を上った付近で立ち止まって縄文杉を眺めていると、ウッドデッキの入り口に立っていた監視員のおじさんが「はい。立ち止まらないで奥へ詰めてねー。後がつかえるからねー」と、 デッキ上のみんなに聞こえるくらいの大きな声で言った。僕はふと我に返ってウッドデッキの奥へ進み、まるで縁日のように行き交う人々の邪魔にならないウッドデッキの死角を探し当て、そこから再び縄文杉を眺めはじめた。
 縄文杉へ会いに来る人たちが多くなったので、彼らが大杉周りの地面を踏み固めて大杉が弱ら ないようにウッドデッキを造ったことがよくわかった。
 それにしても、僕が数日間歩いた森は幻だったのかもしれないと思うような突然の人混みだった。でももしかしたら人混みの方が幻なのかもしれないと、ふと思った。自分の思考が少しずつ抽象的になってきた。


 縄文杉にまつわる様々な噂を聞いてはいた。しかしいざ実物の縄文杉と久しぶりの対面を果たしてみると、その神々しい勇姿に改めて感動して、僕は森の壮大なる時間を思い、晴れ渡った今日の青空のように清々しい気分で森歩きのフィナーレを迎えることになるだろう。

 
ついさっきまで思っていた。ほんの数十秒前までは。
 そんな都合の良い期待は、一瞬で吹き飛ばされてしまった。

 

たしかに縄文杉は異形で、まるで木とは思えない巨大な姿をしていた。
 僕の心の一部は少しだけ震えた。でも心の大部分は静まり返っていた。それは耳鳴りが聴こえてくるような静寂だった。

 「 巨木と対峙すると、人は誰しも詩人になる 」と、偉い人(顔は出てくるが名前が出てこない)が言っているのを聞いたことがある。偉い人は嘘つきだ。詩なんて何も浮かんでこない。僕は詩人からほど遠い場所にいた。


 そのあたりから自分の身に奇妙なことが起こりはじめた。まわりのすべてが自分から遠ざかり、 僕は、縄文杉と自分が立っているウッドデッキの混雑ををまともに観察することができなくなってしまった。
 真っ白になった縄文杉が僕の視界を覆った。そして自分の心と体も真っ白になった。

 自分の心がどこにあるのかわからない。現在地はどこなんだ。

 なんなんだ。これは。

 拠り所のない空中へ放り込まれたような浮遊感、いやそれだけでは表現しきれないような孤独感。これは一体なんなんだ。
 まるで朝刊の折り込みチラシを横目で見ながら先月の家計簿をチェックしているような気分だった。僕の右側の手元には電卓が置かれていて、いつでも的確な計算ができるようにセットしてある。ふと気配を感じたので左後ろを振り返ってみると、とうの昔に他界したはずのルネ・マグリット氏が壮大なキャンバスと対峙しながら絵を描いていて、振り返った僕と目が合った。彼はニコリともしない。そもそも僕が見えていないようだ。
 マグリット氏は端正な背広を着ていて、儀式を執り行う神官のようなすらりとした姿勢でキャンバスと対峙していた。氏は長い間絵を描いているはずなのに、巨大なキャンバスは神々しいまでに純白だった。光の加減で僕の方から見ると白く見えるのだろうか。それとも氏が僕を認知でき ないのと同じように、僕の視覚では見ることができない絵なのだろうか。
 氏が対峙している壮大な純白のキャンバスと、手のひらサイズで緻密な合理性に満ちた電卓に僕は挟まれている。ただならぬ磁力に挟まれて目のやり場に困ってしまう。
 森を代表する偉大な縄文杉と対面しているというのに、僕のまわりの人達は決して忘れる事のない思い出を刻んでいる最中だというのに、僕はそんな気分だった。
 自分の心と体がうまく機能しない。
 まわりで賑やかに行き交う人たちの中で、自分だけ白黒画面になっているような孤立感を感じながら縄文杉を眺めていた。
 僕の姿を端から見れば、泥だらけの服を着た小汚い男が無表情に縄文杉を眺めているだけにしか見えなかったと思うけど、僕の心中は、自分が感じていることを把握しようと、まるで水と油をかき混ぜるようにもがいていた。

 自分が何を感じているのか、時間が経っても手がかりすら掴めそうになかったので、僕はこの大杉と初めて出会ったときのことを思い出すことにした。

 12年前、縄文杉に会いに行く人は今よりずっと少なくて、ウッドデッキはなく、大杉の根元に立って樹肌に直接触れることができた。
 14才だった僕は深い原生林の中を歩き疲れて、縄文杉の幹にもたれて根の上に座っていた。 母なる大地そのものだった大きな杉の存在を、視覚というより地面に広がる大杉の圧から感じ取っていた。振り返ってみると自分の視界はすべて巨大な縄文杉で占められていた。
 なんとなく大杉に失礼な気がしたので、僕はスニーカーと靴下を脱いで裸足になった。 そして大杉の根元を改めて踏んでみると、ひんやりと冷たかった。大杉の体ははてしない時間 が詰まっている。
 僕の足の裏は、指のつま先から土踏まずまで大杉に密着して「なにか」を感じ取った。自分の人生の指針になるような「かくたるなにか」を。
 足裏から僕の体へ、壮大な次元が洪水のように押し寄せてくる。
 ファミコン、砂漠みたいな校庭、吹奏楽部の練習、学校と家と塾しか知らなかった自分の世界が、大陸移動のような音を立てて崩壊する。視界をさえぎるものが無くなって世界の広さに圧倒される。大地震がスローモーションで揺れているようなグルーヴ感。まるで過去と未来が同時進行しているみたいだった。

 あれから12年が経った。
 ニキビをつけて伏し目がちでソワソワしていたあの頃の僕の残像が縄文杉の根元に座っている のを、社会人になった僕はウッドデッキから観衆の一部となって眺めていた。
 自分が立っているウッドデッキから縄文杉までの距離は、近いようで遠かった。
 深い森で人知れず生きてきた巨大な生物は、現在は神様となって祭り上げられていた。大杉の 生えている斜面は大切な土壌が流れ出ないようにするために段々畑のように整地されていて、神様となった縄文杉の祭壇みたいになっていた。

 ほんの少しだけ気分が落ち着いてきた。ふと空を見上げてみると、綿菓子をちぎったような雲が動いているのが見えた。今日は快晴でも風が強いみたいで、雲の動きは扇風機で煽ら れているように速かった。
 縄文杉はまるで木とは思えないような異形の姿をしていた。樹肌が縄文の文様みたいに見えるので名づけられた名前らしい。
 まるで木とは思えない姿をしていたけれど、枝先はたしかに杉の葉を茂らせていて、そよ風が吹くと葉の茂みが幼児の微笑みのように揺れた。腕時計に目をやると14時すぎになっていた。

 時間が経っても自分が何を感じているのか掴めない。一体なにが起こっているんだろう。
 たくさんの人が縄文杉を眺めて、携帯やデジカメで写真を撮って、口々に感動の言葉を連れ合いと語り合い、あるいは黙って木を見つめ、20分から30分くらいでこの場から去って行く。人が次から次へと入れ替わる。なんだか早送り画像を見ているような気分になってきた。みんな屋久島は雨がたくさん降ると知って来たんだろう。快晴の空の下、多くの人はカラフルなカッパを着ていた。

 今日の予定は近くの山小屋へ帰るだけなので、僕はゆっくりと縄文杉に向きあうことにした。
 こうなったら縄文杉と、そしてこのつかみどころのない浮遊感と、とことん向き合ってみることにした。

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三浦豊(みうら・ゆたか)

1977年京都市生まれ。森の案内人、庭師。
日本大学で建築を学んで、庭師になるために京都へ帰郷する。
修行を2年間してから、日本中を巡る長い旅に出た。
2009年の春に京都に帰り、現在は京都府城陽市に住んでいる。

今、ホームページの「日本列島の点」を徐々に増やしている。
点は僕にとって「かけがえのない場所で、いつか日本列島が真っ白になったらいい」と願っている。
よかったら見てやってください。

旅が終わったと言っても、方々へ行きつづけている。それはずっと続けたい。
仕事の傍ら、自宅の庭のお手入れを一人で、人工林のお手入れを仲間とやっている。
古今東西の音楽と落語を聴くのが好き。温泉とラーメンも好き。

三浦豊

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