喫茶店入門

第3回 いまの時代にお店をはじめるということは?

2009.09.10更新

日本で最初とされている喫茶店「可否茶館(かひちゃかん)」が東京・上野に開店したのは、明治21年(1888)、今から121年前のことです。
可否茶館の経営者は鄭永慶(てい・えいけい)。代々長崎で中国語通訳をしていた家系の日本人です。
彼は開業にあたって学校にするか喫茶店にするか悩んだ末、資金の都合から喫茶店経営を選びました。

安政6年(1859)に長崎に生まれた永慶は、幼い頃から中国語・英語・フランス語を学び、16歳で渡米、ニューヨークのエール大学に学びました。明治の開国直後に欧米留学を経験したということは、かなりのエリートです。彼はしかし同大学を病気で中退してしまいます。その後岡山師範中学校の教師を経て大蔵省に入りましたが、学位がなかったため重用されず辞職。そのうえ家が火事で全焼するという不幸に見舞われました。

再出発をはかるべく、永慶は友人から借金をして、家の焼け跡に二階建ての西洋館を建て「可否茶館」を開業しました。30歳の時のことです。当時は欧化主義の全盛期で、「鹿鳴館時代」が華々しく幕を開けていましたが、鹿鳴館は限られた上流階級のみが占有する社交場で、中産階級や若い世代の人たちは足を踏み入れることができませんでした。永慶はそこで「大衆庶民や若者のための社交サロン」「知識の交友の広場」としての喫茶店を開店しました。西洋のカフェ文化を日本に伝えたいという強い思いから、お店を始めているのです。

可否茶館ではコーヒーを出すだけでなく、ビリヤード・トランプ・クリケット・碁・将棋と遊具をそろえ、更衣室・化粧室・シャワーまでを備えていました。さらに硯に筆・便箋や封筒、国内外の新聞・雑誌・書籍を置き、図書館のように閲覧できるようにしていました。留学時代に得た、人々が自由に集う交流の場としてのカフェのイメージが、そこには込められていたのでしょう。 

しかしながら、可否茶館のこうした提案は、時代の先を行きすぎていたようです。盛りそばが8厘、米1升が3銭5厘だった時代に、コーヒー一杯に1銭5厘(今で言えば1000円位)を出そうという人は少なく、赤字経営が続きました。永慶は土地を抵当に入れて借金し、相場に手を出して資金を作ろうとしましたが、逆に失敗して全てを失ってしまいました。店を閉めた永慶はその後アメリカへ旅立ち、シアトルで37歳の生涯を終えています。

コーヒーを飲むという習慣が普及していない時代に、苦味や酸味の立ったコーヒーを主力商品にするのは大きな冒険だったはずです。実際お店は長続きしなかったわけですが、ここで記憶に留めておきたいのは、永慶は"やりたいから"喫茶店を始めていた、ということです。彼は、ロマンの人だったのです。

「可否茶館」以降しばらくは、コーヒーは洋菓子屋・パン屋・レストランのメニューの一つとして提供されていましたが、その後洋行を経験した人たちが増え、コーヒーやカフェ文化への憧れが募ってきたこと、廉価でコーヒーを提供するお店が登場したことなどにより、大正時代頃からカフェ文化は徐々に日本に根付いていきました。

また同時期に「カフェー」と呼ばれる、女給を置いてアルコールを売りにしたお店が出現しました。このことが、喫茶店を大衆化する原動力となり、喫茶店数はその後飛躍的に増えていきます。特に大正12年(1923)の関東大震災によって都心再開発が進んだことで、大正11年には32軒だった東京市の喫茶店数は、昭和4年には1000軒、昭和8年には2500軒を超えています。

一方で「カフェー」が現在のキャバレーのような風俗営業色の強いものになっていったことで、喫茶店は"いかがわしい場所"と見られるようになりました。戦後には、酒類を扱わない本来の意味の喫茶店を「純喫茶」と呼び、ホステスが酒類を提供する「特殊喫茶店」と区別するようになりましたが、"普通の人は手を出さない水商売"という偏見は、その後しばらくは残っていたようです。

昭和23年(1948)に東京・品川区の五反田で喫茶店「ギルビー」をオープンした有馬秀子さんは、著書「今宵も、ひたすら一生けんめい」の中にこう書いています。

「喫茶店やバーの経営は、社会的に非常に低く見られておりました。親戚からは、『それなりに豊かな生活をしているのに、なぜわざわざこんなことを始めるのか』と疎まれました。我が家へよく遊びに来ていた友人たちも、ぱったりと寄りつかなくなり、『もう、なんだってあんな商売するの』などと陰口を叩かれることもしばしばでした。」

よほど困らなかったら、やらなかった商売。
一方で、終戦後から昭和30年代頃に喫茶店を経営していた人は、大いに儲かっていました。

和歌山市にあるコーヒー豆店「エカワ珈琲店」の店主は、かつて母親が経営していた「純喫茶コロナ」(昭和30年開業)について、こう書き記しています。

遠い昔、喫茶店には「バーテンダー」と呼ばれる人が、働いていました。彼らは、布フィルターでコーヒーを淹れる技術に熟練しているという理由だけで、その頃の平均的なサラリーマンの月収とは、くらべものにならないほどの月収を得ていました。誰でも一時間もあれば取得できる簡単な技術に高級を支給できる時代も、喫茶店にはありました。
3人から5人ぐらいで廻している喫茶店なら、自宅を改装して出店した場合、2ヶ月もあれば、出店費用を回収できた時代です。(中略)私たちの母親は、あっという間に、それも普通のサラリーマンでは考えられないような収入を手にするようになりました。

戦後の日本は、高度経済成長による未曾有の好景気を享受しましたが、喫茶店も例外ではありませんでした。そしてこの頃から、喫茶店は"食べていくため"から"儲かるから"始める商売になっていきました。

その後70年代に喫茶店開業ブームが起こり、80年代に凋落の時代を迎え、商売としての旬がいったん終わった後、90年代半ば以降にカフェブームは起こっています。このあたりは、第1回で見てきたとおりです。

カフェブーム以降にカフェを始めた人の多くは、"やりたいから"カフェを始めています。
自分がいい!と思うものを人に伝えたい、いろんな人が集まる場所をつくりたい、やらされ仕事ではなく自分で納得のいく仕事をしたい、そんな理由から開業に踏み切っています。お店のオーナーになることが若い人たちの夢であり、自己表現になっているのです。

若いオーナーたちは、独自のドリンクとフードメニューを充実させ、空間やインテリアのデザイン、BGMのセレクションに気を配り、雑貨や本を販売し、音楽・アートのイベントを開催するなど、自身の価値観を反映させたお店づくりをしてきました。

その背景にあったのは、アメリカやヨーロッパのライフスタイルへの憧れです。
戦後になって、日本には新たな欧米の文化が一気に流入しましたが、その文化を吸収してきた若い世代が、その先に自分たちの嗜好を表現するための空間として「カフェ」を再発しました(そしていつの間にか、本場フランスのカフェよりも"フレンチ"なカフェが、街なかにいっぱい登場しています)。

このように、日本の喫茶店の120年の歴史を振り返ってみると、それが西洋文化に憧れた店主のロマンに始まり、儲かるソロバンの時代を経験し、それが衰退した後に、再びロマンの時代に回帰しているということが見えてきます。

そして今の時代には、「繁盛店になるには」という従来型のビジネス論よりも、「自分のやりたい気持ちと経済のバランスをいかに取っていくか、自分の生活の中にいかにお店を取り入れるか」という"ロマンの時代の経営論" が、求められるようになっているのです。

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山納洋(やまのう・ひろし)

1971年西宮市生まれ。93年に大阪ガスに入社。神戸アートビレッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、扇町インキュベーションプラザでの勤務を経て、現在は大阪21世紀協会において文化プロデュースの仕事につく。一方で、トークサロン企画「扇町Talkin’About」(2000~)、日替わりマスターによるバー空間維持活動「Common Bar SINGLES」(2001~)、表現空間としてのカフェの共同維持活動「common cafe」(2004~)などをプロデュースしている。

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