<構築>人類学入門

第3回 精神2

2009.09.18更新

最近、ふたつのドキュメンタリー映画を観た。

ひとつは、その名も『精神』(想田和弘・2008)。

これまでタブーとされてきた精神科の内部にカメラを入れ、
精神病の患者とその治療に関わる人びとの姿を撮った「観察映画」。

登場人物の説明が省かれているため、
最初は、誰が患者で、誰が病院関係者かも判然としない。
たしかにどこか「おかしい」ようにも見えるし、
感性が豊かで、気配りもできる「ふつう」の人のようにも思える。

観る者は「正常」と「異常」の線引きのあいまに立たされ、こう問われる。
「ふつう」とは何か? 人の「こころ/精神」とは何か?
長いラストシーンは、その謎の奥深さを投げかけて終わる。

もうひとつの映画は、『あしがらさん』(飯田基晴・2002)。
こちらは、ある新宿のホームレスが支援者の助けで施設に入り、
穏やかな生活を送るようになるまでを描いている。

ゴミ箱の残飯をあさり、全身、薄汚れた格好をした「あしがらさん」。
大都会では、あたりまえに目にする大勢のうちのひとりかもしれない。
ときどき会話もうまくかみ合わず、「痴呆」のような症状にも見える。

印象的なのは、一度、病院に入院したあと、
退院するときに、役所の担当者と看護師が投げかける言葉。
「施設には入りたくないと言っている」
「どうせ集団生活にはなじめないから」

あしがらさんにカメラを向ける若い監督は、
そこでもう一度、ゆっくりと彼に言葉を投げかけ、気持ちを確かめる。
「(路上に)戻りたくはないさ・・・」。
実感のこもった言葉が、紡ぎだされる。

施設からデイサービスに通いはじめるあしがらさん。
心あたたまる介護者との交流の姿に、
路上にいたときの「異様さ」や「異常さ」は微塵も感じられない。

彼を「異常」にしていたのは、彼自身の「こころ」なのか。
それとも、彼と関わったり、関わらなかったりしてきた、ぼくらの方なのか。

みんな、「こころ」がそれぞれの人のなかにひとつずつあって、
その人の性格や存在そのものをつくりだしていると信じて疑わない。

でも、カメラを向けられた人びとが多様な姿を見せはじめるように、
ぼくらが、その人にどのように向き合うか、その姿勢や関わり方が、
その「存在」の一端をつくりだしているとしたら、どうだろうか。

ぼくらは「社会/世界」の成り立ちそのものを問い直さなければならなくなる。
人類学は、こうして「他者」の傍らに立ち、その関わりのなかに「自己」を見いだす。

『あしがらさん』を観たあと、
大阪の地下鉄の駅で見かけた小柄な老婆の姿が頭から離れない。
きちんと身だしなみを整えたその女性は、にぎやかな人並みに背を向け、
小さな布の上で、ひとり壁に向かって正座したまま、じっとしていた。

あの女性が社会から孤立しているのは、たぶん彼女だけの選択の結果ではない。
私も含め、彼女の姿を視線の隅でとらえながらも、
「関わらない」という選択をした多くの人びとが、
おそらくは、その現実を一緒になってつくりだしている。

『あしがらさん』に勇気づけられるのは、
東京という街にも、そんな「他者」に向き合い、
関わりつづけようとしている人たちがいる、ということだ。

ぼくらは、互いの「こころ」を構築しあっているのかもしれない。
だとしたら、いまとは違う「こころ」のあり方をつくりだせる可能性もある。
次回は、エチオピアの例から考えてみよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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