<構築>人類学入門

第4回 精神3

2009.10.16更新

エチオピアの田舎町を歩くと、よく「おかしな」人に出くわす。
精神を病んでいるのか、路上で大声で叫んでいたり、
ぼろぼろの格好をして、ふらふら歩き回っていたりする。

外国人は目立つので、しょっちゅう「絡まれる」ことになる。
ものを投げられたり、訳のわからないことをずっと話し続けられたり。
何をされるかわからないので、正直、「怖い」と感じることも多い。
できれば関わりたくない、と思う。

つい先日も、エチオピア南部の小さな町で買い物をしていると、
こぎれいな格好をした青年に英語で話しかけられた。
彼は、にこにこしながら、流ちょうな英語で、
ずっと何かを話しかけてくるのだが、まるで意味がつかめない。
青年が手にしていた英語の本のタイトルは、「あなたの知能を高めるために」。
彼の愛読書なのか、誰かが皮肉って渡したのか・・・。

どうしたものかと戸惑って立ち往生していると、
通りすがりの人が、そっと彼の手を引いて、「おいで」と連れたっていく。
彼も、笑顔のまま手を振りながら、離れていった。

エチオピアの地方には、精神病の患者が入院できる医療施設などない。
文字どおり、町のなかで「ふつう」に生きていくことになる。
町の人も、そういう人たちのことをよくわかっていて、
ときに笑いものにしたりしながらも、何かと関わり合いながら暮らしている。

調査をしてきた村にも、精神的におかしくなったアブドという青年がいた。
頭にオレンジ色の紐を巻きつけ、長い木の枝を手に、
ぶつぶつとつぶやきながら、ふらっと敷地内に入ってくる。
みんな心得たもので、大きな声で「元気にしてるか?」と声をかけたり、
「食べていきな」と、食事を出してあげたりする。

あるとき、アブドが隣村の家に火をつけて全焼させてしまったと聞いた。
それでも、捕まえて拘束されるでもなく、村のなかを歩き回り、
他人の家に居候しながら、同じような暮らしを続けていた。
誰もが、彼が「問題」を抱えていることを知ったうえで、寛容な態度をとっていた。

数年後、村の畑で収穫作業に立ち会っていたときのこと。
刈り取ったトウモロコシの袋詰めをする若者たちのなかに、どこかで見かけた顔。
顔つきも落ち着いて、すっかり見違えている。
ちらっとこちらを見上げると、ばつが悪そうに目をそらして、寡黙に作業を続ける。
「あのアブド?」と、隣にいた友人に目配せすると、「よくなったんだ」と。
畑作業などを手伝ったりしながら、自活しはじめたようだ。

他にも精神的におかしくなったり、
またもとに戻ったりした村人が何人もいる。
人の心は、ときに異変をきたす。
そのときは、そのときなりの「隣人」としての関わり方がある。
エチオピアの人びとは、それを日常のこととして経験している。

日本に生きる「われわれ/わたし」は、どうだろうか。
精神に「異常」をきたした人は、家族や病院、施設におしつけられ、
多くの人は、日常生活のなかで関わる必要のない場所にいる。
どこかで見かけたとしても、「見なかった/いなかった」ことにしている。
(あるいは、どうしたらいいかわからずに「立ち往生」する)

そうして異常な「他者」と関わらないことで、
「ふつう」の人間像、「ふつう」の社会/世界という虚構(フィクション)が維持される。

ぼくらが、いつもそこにあると信じて疑わない「ふつう」の社会/世界は、
じつは傍らにいる「他者」によって、つねにその足もとを揺さぶられている。
<構築>人類学は、その「揺さぶり」に寄りそって、別の社会/世界の姿を考えていく。

次は「経済」をテーマに、話を進めよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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