<構築>人類学入門

第5回 経済1

2009.11.20更新

はじめに「精神」で書いたポイントをまとめておこう。

人の「こころ」は他者との関わりのなかで構築されていく可能性がある。
さまざまな他者との出会いによって「こころ」のあり方は変わりうる。
でも、ぼくらはその他者との出会いを制限/抑制する社会をつくりだしてきた。
そうやって、本来は揺らぎやすい「正常/異常」という区別が固定され、精神をめぐる「ふつう」の人間像というフィクションが維持されているのではないか・・・・・・。

今回からは、「経済」というテーマを考えていく。
ぼくらは、ほんのささいな日常的な行為のなかでも、互いに社会/世界の「現実」をつくりあっている。
そのことを、さらに確認していこう。

まず「経済」と聞いて、どのようなことを思い浮かべるだろうか?
コンビニでお金を払ってチョコを買うことは、まぎれもなく経済活動のように思える。

では、そのチョコをバレンタインの日に、好きな男の子に贈ることは、経済活動に入るだろうか?
この行為は、ふつう「経済」とは異なる領域にあると考えられている。
「チョコレート」というモノが、同じように人から人へと動いていても、一方には「経済らしさ」があり、他方には「経済らしさ」がない。
その「経済」のリアリティをつくりだしているのは、何なのだろうか。

店で商品を購入するとき、金銭との交換が行われる。
でも、バレンタインでチョコを贈るときには、その対価が支払われることはない。
好きな人に思い切って、「これ受け取ってください」とチョコを渡したとき、
「これいくらだったの?」と財布からお金をとり出されたりしたら、たいへんな屈辱になる。

贈物をもらう側は、その場では対価を払わずに受け取ることが求められる。
このチョコを「渡す/受け取る」という行為は、「贈与」であって、「交換」ではない。
だから、「経済」とは考えられない。

では、ホワイトデーに、クッキーのお返しがあるとき、それは「交換」になるのだろうか。
この行為も、ふつうは贈与への「返礼」として、商品交換とは区別される。
たとえほとんど等価のものがやりとりされていたとしても、それは「交換」ではない。

交換と贈与を区別しているものは何なのか。
その区別をつくりだしているのは、モノのやりとりの間に差しはさまれた「時間」だという指摘もある。

たとえば、チョコをもらって、すぐにもらった相手に金銭を渡したとしたら、これは立て替えてもらったお金を返済するような経済的な「交換」となる。
ところが、そのチョコの代金に相当するクッキーを1ヶ月後に渡したとしても、それは交換ではなく、贈与への返礼として、「贈与」の領域にある行為とみなされる。
(このとき、あえてやりとりされるモノの「等価性」は隠される)

交換と贈与を分けているものは、「時間」だけではない。
お店でチョコレートを購入したあと、そのチョコに値札がついていたら、女の子は、かならずその値札をはずすだろう。
さらに、そのチョコの箱にリボンをつけたり、それらしい包装をしたりして、「贈物らしさ」を演出するに違いない。

チョコが店の棚に並べられているとき、それは客への「贈物」でも、店内の「装飾品」でもなく、お金を払って購入しなければならない「商品」であることが明示されていて、誰もそれを疑う者はいない。

しかし、その商品を購入して、贈物として人に渡すときには、その「商品らしさ」をきれいにそぎ落として、「贈物」に仕立てあげなければならない(と、当然のように思われている)。

なぜ、そんなことが必要になるのか。
ひとつには、ぼくらが「商品/経済」と「贈物/非経済」をきちんと区別すべきだという「きまり」にとても忠実だからだ。

この区別をとおして、世界のリアリティの一端がかたちづくられているとさえ言える。
そして、それは、チョコを購入することと、プレゼントとして贈ることが、何らかの外的な表示(時間差、値札、リボン、包装)でしか区別できないことを示してもいる。
(たとえば、バレンタインにコンビニの袋に入った板チョコをレシートとともに渡されたとしたら、それが何を意図しているのか、戸惑ってしまうだろう)

ぼくらは、同じチョコが人と人のあいだでやりとりされることが、どこかで区別しがたい行為だと感じている。
だからこそ、わざわざ「商品らしさ」や「贈物らしさ」を演出しなければならないのだ。

それは、ぼくらが他者とのモノを介した相互行為を、そのつど「経済化」したり、「脱経済化」したりしている、とも言えるだろう。

「経済」をめぐる社会/世界の「現実」は、ある行為の「経済化=経済らしくすること」をとおして、同時に「脱経済化=経済らしからぬものにすること」との対比や区別において、日々、みんなが一緒になってつくりだしているのだ。

なぜ、そんな「きまり」が必要なのか・・・・・・。
次回も続けよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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